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古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

古典の季節表現 十一月上旬

2013年11月01日 | 日本古典文学-冬

冬十一月五日夜小雷起鳴雪落覆庭忽懐憐聊作短歌一首
消残りの雪にあへ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な
 右一首兵部少輔大伴宿祢家持
(万葉集~バージニア大学HPより)

冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首
橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木
 右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名 賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇々后共在于皇后宮 以為肆宴而即御製賀橘之歌 并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇々后御歌各有一首者 其歌遺落未得求焉 今檢案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢
橘宿祢奈良麻呂應詔歌一首
奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地に落ちめやも
(万葉集~バージニア大学HPより)

霜月のついたちごろに みぞれたる雨うち降り、霰などまじりて、風のはげしう吹きみだりたる夕つかた、きりぎりす色の狩衣、紫の指貫薄色の衣(きぬ)をうへにて、白き衣(きぬ)三つ四つばかり、紅(くれなゐ)か何ぞなど重なりたる袖をひき、赤められたるかほにおしあてて、烏帽子の、やうにもなく吹きやられたる人の、「あなむざん」といひて、寄り来(き)たるこそにくからね。
(前田家本枕草子)

 霜月の十日なれば、紅葉も散り果てて、野山も見所なく、雪霰がちにて、物心細く、いとゞ思ふこと積りぬべし。
(狭衣物語~岩波・日本古典文学大系)

ついたちの日一條の太政のおとゞうせ給ひぬとのゝしる。れいの「あないみじ」などいひてきゝあへる夜はつゆき七八寸のほどたまれり。(略)
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)

十一月ついたちごろ、雪のいたく降る日、
 神世よりふりはてにける雪なれば今日(けふ)はことにもめづらしきかな
御かへし、
 初雪といづれの冬も見るまゝにめづらしげなき身のみふりつゝ
(和泉式部日記~岩波文庫)

ま(こ)とや内にうたあはせせさせ給き。またにようごとのもまいらせ給はざりしに。十月つごもりとありしかど。のびてしも月の九日なり。てんじやう人左右にわかたせ給。舞臺はかねのすはまに。かねの五葉にかねのつたいろ++にいろどりたるかゝりたるいとおかし。もろもとのひやうゑのすけかきたり。右はかねのすぎばこにすゞりのはことおなじきに。さうとほをいれたり。うたのこゝろばへをだいにしたがひつゝ。したゑにかきたり。ては右のおほいどのゝいなばのめのと。にしきのへうし。つぎのはかねのへうしをみがきたる。しろたえにはる++とみえて。やまのたゝすまゐみづのなかれはほのかなり。かねをむすびてたまをもんにしなどさま++なるべうしあてにおかし。かねのすゞり。るりのすゞりのかめ。ふで。すみ。までいみじうつくしたり。かすさしのすはまどもなど。こゝろ++にいとおかし。中ぐうのにようばうまでもみぢををりつくしたり。うちものをりものむらごなど。こゝろ++にいとおかしうものにうちたるを。すかしたるもぬいものし。かねのみづやりもみぢのちりそひたるなどいとおかしくなまめかし。きくのをりものゝ御几帳どもをしいでわたしておはします。ほどこそいたさね。すこしさしのきてよきほどにをしいでたるきぬのすそ。そでぐちいとめもおどろきてみゆ。きくのおりえだかづらのもみぢ。かゞみのみづなどをしたるか。うすものよりすきたるうちめきかゝやきあひたるほかけいみじうおかし。くれなゐのうちたるをなかへにてかつらのかたにゑりてあをきを下にかさねて。かうぞめの御ありさまえもいはずめでたくみえさせ給。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)

 御五十日は霜月の朔日の日、例の人々のしたててのぼり集ひたる、御前の有樣、繪に畫きたる物合の所にぞ、いとよう似て侍りし。御帳の東の御座のきはに、御几帳を奧の御障子より廂の柱まで、ひまもあらせず立てきりて、南面に御前の物は參りすゑたり。西によりて大宮のおもの、例の沈のをしきなり、何くれの臺なりけんかし。そなたの事は見ず。御まかなひ宰相の君、讚岐とりつぐ。女房も釵子元結などしたり。若宮の御まかなひは、大納言の君、ひんがしによりて參りすゑたり。小き御臺、御皿ども、御箸の臺、洲濱なども、ひゝな遊びの具と見ゆ。
 それより東の間の、廂の御簾すこし上げて、辨の内侍、中務の命婦、小中將の君など、さべい限りぞ取り次ぎつゝまゐる。奧にゐて詳しうは見侍らず。今宵少輔のめのと色ゆるさる。こごしき樣うちしたり。宮抱き奉れり。御帳のうちにて、殿のうへ抱きうつし奉り給ひて、ゐざり出でさせ給へり。火影の御樣けはひ殊にめでたし。赤色の唐の御衣、地摺の御裳、麗くさうぞき給へるも、かたじけなくもあはれに見ゆ。大宮は葡萄染の五重の御衣、蘇芳の御小袿奉れり。
(紫式部日記~バージニアHPより)

(貞元元年十一月)四日丙寅。雪下。及尺。有諸陣之禄。申剋。諸陣之後。向閑院。有饗膳。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

(長和四年十一月)六日、壬子。 小南第作文会
人々が来向した。作文を行なった。題は、「鶴は百鳥の兄である」であった〈年を韻とした。〉。辰剋の頃に集まって来て、子剋の頃に、分散して帰って行った。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

十一月大 六日 辛卯 鶴岡八幡宮ニ於テ、神楽有リ。武衛参リ給フ。御神楽以後ニ、別当坊ニ入御シタマフ。請ジ奉ルニ依テナリ。別当、京都ヨリ、児童ヲ招請シ、〈惣持王ト号ス、〉去ヌル比下著ス。是レ郢曲ノ達者ナリ。之ヲ以テ媒介トシテ、杯酒ヲ勧メ申ス所ナリ。垂髪、横笛ヲ吹ク。梶原平次之ニ付キテ、又唱歌ス。畠山ノ次郎、今様ヲ歌フ。武衛、興ニ入ラセ給フ。晩ニ及ビテ、還ラシメ給フト〈云云〉。
(吾妻鏡【元暦元年十一月六日】条~国文学研究資料館HPより)

(正治二年十一月)七日。天晴る。申の時許りに院より召し有り。(中略)人々已に参じ了んぬと。引導に依り弘御所に入る。寂蓮・家隆・具親等と題を給ひ、風情を尽して詠吟す。近日の事殊に以て堪へ難し。良々(やや)久しきの後、行幸ありと。内府以下供奉し、其の人々を見ず。人々退下し、無音の後、親綱引導に付け、更に北の対北東の門を内の御車宿りの戸を経、池の東の庭に出づ。已に御乗船了んぬ。召しに依りて進み乗る。次々船に棹(さをさ)し、池より坤角の新宮に御幸あり。歌合三首あり。評定了りて還御あり。是より各々退出すべきの由仰せ有り。即ち庭上より西の門を出て退出す。病気殊に甚し。題、「紅葉梢に残る」「寒夜の埋火」「海浜に夜を重ぬ」。有家、今夜題を給はりて歌を献ず。(略)
(『明月記抄』今川文雄、河出書房新社)

(嘉禄元年十一月)三日。天晴る。法印来らる。承明門院黄門又来臨。初三の月甚だ明し。弦に異ならず。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)