岩手県一関市田村町5-42にある「世嬉の一酒造」敷地内には「初恋神社」がありました。
初恋神社の傍らの説明版です。
『 この神様は、氏神様・蔵の
神様・お稲荷様です。社殿は
閑院の宮様が当社にご宿泊の
みぎりに建てた建物の一部
(車寄せ)を用い、平成六年
に建立しました。
この地は若き日の島崎藤村
が恋に傷ついた心をいやし、
自らの運命を切り開き、やが
て文豪へと羽ばたいて行った
飛躍の地でもあります。
この縁から初恋神社のニック
ネームで親しまれています。』
とあります。
※閑院の宮様 ― 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日~1945年5月20日、日本の皇族、伏見宮邦家親王第16王子)
恋みくじもありました。
「世嬉の一酒造」敷地内にある一関の地と藤村との関係を記した説明版には、
「わが国の近代文学にそびえ立つ大作『夜明け前』を著した
文豪島崎藤村(1872~1943)は、明治26年9月
から10月にかけて、一関の豪商「熊文」こと熊谷家に寄寓し、
長男太三郎に英語を教えるかたわら、清遊のときをすごしま
した。ここは、その「熊文」の跡地です。
藤村の一関来遊は、キリスト教伝道の旅で当地に来た友人
北村透谷の紹介によるものでした。当時21歳の島崎は、
明治女学校の教え子で、いいなずけのある佐藤輔子を愛した
ことで苦悩し、さすらいの旅の果てに、一関へ傷心の身をは
こんだのでした。ところが一関は、輔子の少女期をはぐくん
だ地であったのです。この奇しき二重の縁により、島崎と一
関のゆかりは濃いものがあります。
遂げられぬ愛の苦しみだけでなく、文学的にも混迷と模索
の過程にあった時だけに、当地の美しい山水とこまやかな人
情に触れた思い出は、忘れ難く藤村の胸に刻まれたと思われ、
昭和12年にも再訪しています。一関行きのことは『春』や
『眼鏡』に描かれており、太三郎との交友のことは『家』に
も表れています。
一関を去ってから4年後、藤村はようやく自己の文学の夜
明けを迎えます。わが国の近代詩の出発を告げる『若菜集』
の誕生です。一関滞在は短かったものの、抒情詩人として出
発する若き藤村にとって、この北の風土と温かな人情は、彼
の文学の夜明け前の揺籃であったと言えるでしょう。
文学の蔵設立委員会」とあります。
「あゝ 自分のやうなものでもどうかして生きたい」
中庭に藤村文学碑がりました。
「ここは、島崎藤村の寄寓した豪商
『熊文』の跡地である。
碑文は、藤村、その友北村透谷、
思慕の人佐藤輔子ら明治の青春群像
をえがいた名作『春』より採った。
藤村の文学をつらぬく基調音として
名高い独白である。
藤村、透谷、輔子とも一関にゆか
りがあり、藤村の一関曽遊百年・没後
50年を記念し、この碑を建てた。
1993年 夏
文学の蔵設立委員 」とあります。
初恋神社の傍らの説明版です。
『 この神様は、氏神様・蔵の
神様・お稲荷様です。社殿は
閑院の宮様が当社にご宿泊の
みぎりに建てた建物の一部
(車寄せ)を用い、平成六年
に建立しました。
この地は若き日の島崎藤村
が恋に傷ついた心をいやし、
自らの運命を切り開き、やが
て文豪へと羽ばたいて行った
飛躍の地でもあります。
この縁から初恋神社のニック
ネームで親しまれています。』
とあります。
※閑院の宮様 ― 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日~1945年5月20日、日本の皇族、伏見宮邦家親王第16王子)
恋みくじもありました。
「世嬉の一酒造」敷地内にある一関の地と藤村との関係を記した説明版には、
「わが国の近代文学にそびえ立つ大作『夜明け前』を著した
文豪島崎藤村(1872~1943)は、明治26年9月
から10月にかけて、一関の豪商「熊文」こと熊谷家に寄寓し、
長男太三郎に英語を教えるかたわら、清遊のときをすごしま
した。ここは、その「熊文」の跡地です。
藤村の一関来遊は、キリスト教伝道の旅で当地に来た友人
北村透谷の紹介によるものでした。当時21歳の島崎は、
明治女学校の教え子で、いいなずけのある佐藤輔子を愛した
ことで苦悩し、さすらいの旅の果てに、一関へ傷心の身をは
こんだのでした。ところが一関は、輔子の少女期をはぐくん
だ地であったのです。この奇しき二重の縁により、島崎と一
関のゆかりは濃いものがあります。
遂げられぬ愛の苦しみだけでなく、文学的にも混迷と模索
の過程にあった時だけに、当地の美しい山水とこまやかな人
情に触れた思い出は、忘れ難く藤村の胸に刻まれたと思われ、
昭和12年にも再訪しています。一関行きのことは『春』や
『眼鏡』に描かれており、太三郎との交友のことは『家』に
も表れています。
一関を去ってから4年後、藤村はようやく自己の文学の夜
明けを迎えます。わが国の近代詩の出発を告げる『若菜集』
の誕生です。一関滞在は短かったものの、抒情詩人として出
発する若き藤村にとって、この北の風土と温かな人情は、彼
の文学の夜明け前の揺籃であったと言えるでしょう。
文学の蔵設立委員会」とあります。
「あゝ 自分のやうなものでもどうかして生きたい」
中庭に藤村文学碑がりました。
「ここは、島崎藤村の寄寓した豪商
『熊文』の跡地である。
碑文は、藤村、その友北村透谷、
思慕の人佐藤輔子ら明治の青春群像
をえがいた名作『春』より採った。
藤村の文学をつらぬく基調音として
名高い独白である。
藤村、透谷、輔子とも一関にゆか
りがあり、藤村の一関曽遊百年・没後
50年を記念し、この碑を建てた。
1993年 夏
文学の蔵設立委員 」とあります。