松本城存続の危機(1)
廃藩置県の後、松本城は政庁としての役目が無くなり不要なものとなってしまいました。
(※政庁は政務を取り扱う役所。)
1872年(明治5年)筑摩県が時の政府に伺いをたてたところ、入札して民間に払い下げ代金を政府に納めなさいということになりました。
この時、下横田の副戸長の市川量造先生が天主閣保存運動を始めました。
市川先生は欧米の博物館のような施設としてこの松本城を保存することを訴え金策に奔走、数回の博覧会を開催することによって競売の資金を得、解体される前に何とか天主閣等を買い戻すことができました。
松本城存続の危機(2)
しかし、天主閣の維持管理は難しく老朽化により荒れるがままになっていました。
この危機に松本中学校長の小林有也先生が小里頼永氏らと松本天主保存会を立ち上げ(1901年 明治34年)、会員や篤志家からの寄付を募り、1903年(明治36年)に修理が始まり1914年(大正2年)に竣工しました。
松本城存続の危機(3)
太平洋戦争直後、在日連合軍美術顧問が松本城の損傷状況を見て文部省に対処を勧告しました。
これを受けて松本市内で修理保存運動が高まり、1950年(昭和25年)から国の直轄事業として天主閣解体復元修理工事が始まりました。
解体に2年、復元に3年余をかけ、松本城が再び市民の前に姿を現したのは1955年(昭和30年)でした。
※2009年(平成21年)年2月14日から松本市立博物館で開催された「写真で振り返る商都松本の100年」に展示されていたパネルの記載内容を参考にしています。
松本城黒門を入って右側にある、「小林有也先生」と「市川量造先生」の顕彰碑
顕彰碑の前にたてられている説明板
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