東海道本線の大垣~米原間の電化を控え、1200トンの貨物列車を牽引可能で、なおかつ同区間に
存在する大垣~関ヶ原の連続勾配に補助の機関車なしでも対応できる電気機関車として
開発されたものである。
昭和29年~昭和32年にかけて64両(本形式は2車体で1両という扱い)が製造された。
製造を担当したのは川崎車輛(→川崎重工)、日立製作所、東芝、新三菱重工(→三菱重工。なお、
各社ともモーターなどの電装品は三菱製)である。
車体は普通鋼鉄製で従来の国鉄の大型電気機関車とは異なり、電車とほぼ同じような構造の
箱型車体を採用した。
正面形状は縁の部分を曲面とした切り妻式で窓の部分を内側に傾斜させた2枚窓となっており、
同時期に製造されていた72系電車全金属車を高運転台にして80系湘南電車のような2枚窓にした
デザインとなっている。
正面下部には国鉄の電気機関車で初めてスカートが設置された。
塗装は黒に黄色の細帯で試作車の2・4号機は茶色に銀帯、15号機は茶色に黄帯という
塗装で登場しているが、最終的に黒に黄帯で統一されている。
これら車体デザインには国鉄外部の工業デザイナー(後にこのデザイナーは名鉄パノラマカー
7000系を設計し、交友社「鉄道ファン」誌の初代編集長となった)が起用されており、
当時としては珍しい事であった。
主制御装置は手動進段・単位スイッチ式制御方式の抵抗制御でブレーキは空気自動ブレーキである。
これらは従来からの電気機関車と同じものであり、思い切った見た目に反して中身は
堅実な設計となっている。
台車は電車と同等の構造の2軸ボギー式鋳鋼製金属ばね台車を採用し、モーターの駆動方式は
吊り掛け式となっている。
本形式では単機で高出力を得る必要があったため、2車体で1両とし、全8軸分のモーターから
得られる出力は2530kwと当時の国鉄の電気機関車として最大を誇った。
また、これまでの国鉄の大型電気機関車に取り付けられていた連結器やカーブ通過のための
スタビライザーを兼ねた先輪が無くなり、全軸が駆動軸であることから重量の全てを
レールとの粘着力確保に充てられ、けん引力が従来の機関車よりも向上している。
元々勾配通過を目的に得られたパワーであるが、平坦線ではその余力により高速運転も
ある程度可能であり、高度経済成長期の鉄道貨物輸送の中心を担うこととなった。
一方で車体などの後方の工夫である程度の軽量化は実現しているものの
装備重量が他の機関車よりも重たく東海道本線、山陽本線などの幹線以外では使えないという
弱点もあった。
集電装置はパンタグラフで当初は通常型のものを使用していたが、末期は予備品の不足から
交直両用機などで使われている下枠交差型のものを使用していたものがあった。
なお、パンタグラフの設置位置は試作機(1~4号機)は連結側、量産機(5~64号機)は運転台側に
それぞれ装備されており、この部分で試作機と量産機を外観で区別できる。
変更の理由は試作車では高圧の引き通し線をできるだけ短くするために、敢えてパンタグラフを
近づけたが、あまりに近すぎて架線に対しての圧力が過大となり、それらに悪影響を
与えたためである。
本形式は既述の通り、試作機4機による運行試験後、量産が開始された。
このうち昭和30年12月に製造された15号機は旅客列車牽引用の試験車となった。
これは当時の東海道本線の輸送力のひっ迫から列車の速度向上が急務となっており、
東京~大阪間を6時間半で結ぶ超特急列車の計画が進められていたことに基づくものである。
この運用試験では完成したばかりの10系軽量客車を牽引しての高速試験のほか、特急「つばめ」の
定期列車の牽引に充当された。
結果は良好であり、旅客機使用のEH50形の計画も生まれたが、本形式のような重量級の
機関車が高速運転を行うためには線路の強化が必要であり、そのコストがひじょうに
大きいことから、特急用電車の開発にシフトしている。
15号機は試験終了後、旅客用の装備を外して本来の貨物用に戻っている。
この他14号機と64号機が昭和40年に中央本線で勾配区間での粘着性能試験に臨んだが、
こちらはいつものパワーが生かせずに終わっている。
東海道本線では全線電化後の昭和34年より東京(汐留)~大阪(梅田貨物ターミナル)間の
特急コンテナ貨物列車「たから」号の牽引機として活躍した。
その後、後継である60番台新性能F級(6軸駆動)機が就役すると通常の貨物輸送用に転用されて
いった。
運用区間は東海道線の全線と山陽本線の岡山まで、および宇野線である。
山陽本線では瀬野~八本木間の「セノハチ越え」をサポートする機関車との出力の均衡がとれない
ことから岡山より西には入線できなかった。
昭和50年代に入ると老朽化が進んだことから、運用を離脱していき、昭和55年に定期運用が
消滅。
昭和57年までに全車廃車となった。
廃車後、61号機が唯一解体を免れ、阪急京都線・千里線の淡路駅から徒歩5分ほどのところにある
大阪市東淀川区東淡路公園に保存されている。
なお、機関車の周りにはフェンスが廻らせてあり、立ち入りはできないようになっている。
存在する大垣~関ヶ原の連続勾配に補助の機関車なしでも対応できる電気機関車として
開発されたものである。
昭和29年~昭和32年にかけて64両(本形式は2車体で1両という扱い)が製造された。
製造を担当したのは川崎車輛(→川崎重工)、日立製作所、東芝、新三菱重工(→三菱重工。なお、
各社ともモーターなどの電装品は三菱製)である。
車体は普通鋼鉄製で従来の国鉄の大型電気機関車とは異なり、電車とほぼ同じような構造の
箱型車体を採用した。
正面形状は縁の部分を曲面とした切り妻式で窓の部分を内側に傾斜させた2枚窓となっており、
同時期に製造されていた72系電車全金属車を高運転台にして80系湘南電車のような2枚窓にした
デザインとなっている。
正面下部には国鉄の電気機関車で初めてスカートが設置された。
塗装は黒に黄色の細帯で試作車の2・4号機は茶色に銀帯、15号機は茶色に黄帯という
塗装で登場しているが、最終的に黒に黄帯で統一されている。
これら車体デザインには国鉄外部の工業デザイナー(後にこのデザイナーは名鉄パノラマカー
7000系を設計し、交友社「鉄道ファン」誌の初代編集長となった)が起用されており、
当時としては珍しい事であった。
主制御装置は手動進段・単位スイッチ式制御方式の抵抗制御でブレーキは空気自動ブレーキである。
これらは従来からの電気機関車と同じものであり、思い切った見た目に反して中身は
堅実な設計となっている。
台車は電車と同等の構造の2軸ボギー式鋳鋼製金属ばね台車を採用し、モーターの駆動方式は
吊り掛け式となっている。
本形式では単機で高出力を得る必要があったため、2車体で1両とし、全8軸分のモーターから
得られる出力は2530kwと当時の国鉄の電気機関車として最大を誇った。
また、これまでの国鉄の大型電気機関車に取り付けられていた連結器やカーブ通過のための
スタビライザーを兼ねた先輪が無くなり、全軸が駆動軸であることから重量の全てを
レールとの粘着力確保に充てられ、けん引力が従来の機関車よりも向上している。
元々勾配通過を目的に得られたパワーであるが、平坦線ではその余力により高速運転も
ある程度可能であり、高度経済成長期の鉄道貨物輸送の中心を担うこととなった。
一方で車体などの後方の工夫である程度の軽量化は実現しているものの
装備重量が他の機関車よりも重たく東海道本線、山陽本線などの幹線以外では使えないという
弱点もあった。
集電装置はパンタグラフで当初は通常型のものを使用していたが、末期は予備品の不足から
交直両用機などで使われている下枠交差型のものを使用していたものがあった。
なお、パンタグラフの設置位置は試作機(1~4号機)は連結側、量産機(5~64号機)は運転台側に
それぞれ装備されており、この部分で試作機と量産機を外観で区別できる。
変更の理由は試作車では高圧の引き通し線をできるだけ短くするために、敢えてパンタグラフを
近づけたが、あまりに近すぎて架線に対しての圧力が過大となり、それらに悪影響を
与えたためである。
本形式は既述の通り、試作機4機による運行試験後、量産が開始された。
このうち昭和30年12月に製造された15号機は旅客列車牽引用の試験車となった。
これは当時の東海道本線の輸送力のひっ迫から列車の速度向上が急務となっており、
東京~大阪間を6時間半で結ぶ超特急列車の計画が進められていたことに基づくものである。
この運用試験では完成したばかりの10系軽量客車を牽引しての高速試験のほか、特急「つばめ」の
定期列車の牽引に充当された。
結果は良好であり、旅客機使用のEH50形の計画も生まれたが、本形式のような重量級の
機関車が高速運転を行うためには線路の強化が必要であり、そのコストがひじょうに
大きいことから、特急用電車の開発にシフトしている。
15号機は試験終了後、旅客用の装備を外して本来の貨物用に戻っている。
この他14号機と64号機が昭和40年に中央本線で勾配区間での粘着性能試験に臨んだが、
こちらはいつものパワーが生かせずに終わっている。
東海道本線では全線電化後の昭和34年より東京(汐留)~大阪(梅田貨物ターミナル)間の
特急コンテナ貨物列車「たから」号の牽引機として活躍した。
その後、後継である60番台新性能F級(6軸駆動)機が就役すると通常の貨物輸送用に転用されて
いった。
運用区間は東海道線の全線と山陽本線の岡山まで、および宇野線である。
山陽本線では瀬野~八本木間の「セノハチ越え」をサポートする機関車との出力の均衡がとれない
ことから岡山より西には入線できなかった。
昭和50年代に入ると老朽化が進んだことから、運用を離脱していき、昭和55年に定期運用が
消滅。
昭和57年までに全車廃車となった。
廃車後、61号機が唯一解体を免れ、阪急京都線・千里線の淡路駅から徒歩5分ほどのところにある
大阪市東淀川区東淡路公園に保存されている。
なお、機関車の周りにはフェンスが廻らせてあり、立ち入りはできないようになっている。