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韓国釜山の旅(1)朝鮮通信使歴史館・釜山博物館

2013年03月25日 08時44分27秒 | Weblog
3月22日関空発10:40「エアプサン」で出発、金海空港へ
307番のバスで東莱駅まで行き、地下鉄で温泉場へ
金剛山公園側に歩いて徒歩6、7分で「泉一ホテル」に到着
3人でオンドル部屋をとる。予約は釜山ナビからしておいた。
20年くらい前によく泊まった「鹿天ホテル」のすぐ近くであった。
懐かしい!フロントは、日本語が通じないとよく泊まる友人に聞いていたが日本語で対応してくれるし親切である。

荷物を置いて身軽になって出かける。
地下鉄1号線「汎一洞」駅2番に出て歩いて子孫台にある最近できた「朝鮮通信使歴史館」に7分ぐらいで行く。
子孫台には富山浦=釜山浦倭館(1510年閉鎖、1521年再開、1592年まで存続)があったが道路沿いの子孫台入口に「朝鮮通信使歴史館」はある。


入口

日本各地に伝わる朝鮮通信使関係の人形展示

続いて地下鉄2号線大淵駅下車すぐの釜山博物館へ(1978年開館、2002年再開館)

18時まで開館しているので、ゆっくりと見て回る
第1展示館:先史室、三韓、三国室、統一新羅室、高麗室、朝鮮室
第2展示室:釜山を中心に展開された韓・日関係史釜山の生活文化、民族、近現代の姿
解放後、南北戦争の被害はすごい。釜山に避難して南下した人たちの歴史をしっかり見る必要があると思った。
外に出ると
「斥和碑」



      「斥和碑」について吹田の足立さん資料より
 (去年秋、大辺港へ行ったときに、偶然「斥和碑」Bを見つけました)
大院君(興宣大院君1820~1898)は、次男の命福が第26代国王・高宗として即位すると大院君となり、摂政として実権をふるった。彼が最初に政権を担当した10年間は、国内的には紀綱のゆるみと財政の逼迫、対外的には欧米諸国からの開国への圧力、といった内外ともに厳しい情勢下にあった。
そこで、彼は国内政策としては、備辺司(軍事行政機関)の廃止・三軍府(王室を護衛する内禁衛ネグミの前身)の復活・書院の撤廃(全国600のうち47書院は残す)・景福宮の再建・天主教徒の弾圧(丙寅教獄)・洞布の徴収?などを行い、対外政策としは鎖国攘夷政策(衛正斥和)を強化して、2度の洋擾(仏との丙寅洋擾と米との辛未洋擾)・日本との書契問題などを引き起こした。
攘夷の決意を表明した「斥和(洋)碑」の建立(1871)に示される彼の鎖国攘夷政策は、外国の侵略を撃退するうえでは成果を挙げたが、朝鮮の近代化を遅らせる結果となった。(朝鮮を知る事典 平凡社より)

「斥和碑」の碑文  「洋夷侵犯 非戦則和、主和売国」
(外国の侵略にはあくまでも戦う、戦わないものは売国奴だ)
1882年、壬午軍乱で大院君が清に拉致されてから、日本公使の要求により全部撤去された。
現在見つかって保存されている「斥和碑」は、
大辺初等学校海岸側校庭フェンス沿いに「斥和碑」Bがある。ほかには「沃川」C、「ソウル普信閣」Dはここにあったという碑、慶南ハム陽郡上林公園内に保存「斥和碑」E、
釜山博物館屋外展示場に「斥和碑」Aがある。
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