昨日お宅を訪ねると
お住まいには、売り物件と看板が立っていた
昨年末にしばらく入院して
亡くなったと
近所の方が教えてくださった
すぐには涙は出なかった
でもしみじみ思い出すと涙が滲んでくる
初めてお会いしたのは1996年5月「ピースおおさか」で強制連行の体験を話された時である
それからお宅に伺うようになった
1998年には筑豊の住友忠隈炭坑を一緒に訪ねた
「筑豊富士」と言われるボタ山にも登った
足の達者な安さんは早々と「筑豊の強制連行を考える会」のUさんと頂上に登り
私は安さんに手を引っ張ってもらって3番目に登った
安さんは1942年に22歳で江原道の旌善から
新婚の妻を残して筑豊に連れてこられた
国に帰ることなく
お連れ合いを亡くしてから
1人暮らしを続けていた
「百まで7年だから、自分は生きるだろう」と昨年話していたのであった。
細切れに思い出す
若い頃、歌が上手で歌手にと薦められたこともあった
旌善アリランがすばらしかった
遺跡の発掘の仕事が大好きだった
筑豊の朝鮮人寮を訪ねたことが朝日新聞に大きくなり
「人生パーにした筑豊」の記事を
職場で見せたという
私の勤めた府立S高校でも講演してもらった
北九州のさんが人権学習の講師で
来てくれた時、安さん宅を訪問した
安さん夫妻は結婚式をしていなかったので
チマチョゴリ、パジチョゴリをつけて
写真を撮った
私たち夫婦は立ち会い人として同じ衣装をつけて
4人とも緊張の一瞬
まだまだ思い出すけど
またにします
私の思いの残る人が次々と
旅立って行く
お住まいには、売り物件と看板が立っていた
昨年末にしばらく入院して
亡くなったと
近所の方が教えてくださった
すぐには涙は出なかった
でもしみじみ思い出すと涙が滲んでくる
初めてお会いしたのは1996年5月「ピースおおさか」で強制連行の体験を話された時である
それからお宅に伺うようになった
1998年には筑豊の住友忠隈炭坑を一緒に訪ねた
「筑豊富士」と言われるボタ山にも登った
足の達者な安さんは早々と「筑豊の強制連行を考える会」のUさんと頂上に登り
私は安さんに手を引っ張ってもらって3番目に登った
安さんは1942年に22歳で江原道の旌善から
新婚の妻を残して筑豊に連れてこられた
国に帰ることなく
お連れ合いを亡くしてから
1人暮らしを続けていた
「百まで7年だから、自分は生きるだろう」と昨年話していたのであった。
細切れに思い出す
若い頃、歌が上手で歌手にと薦められたこともあった
旌善アリランがすばらしかった
遺跡の発掘の仕事が大好きだった
筑豊の朝鮮人寮を訪ねたことが朝日新聞に大きくなり
「人生パーにした筑豊」の記事を
職場で見せたという
私の勤めた府立S高校でも講演してもらった
北九州のさんが人権学習の講師で
来てくれた時、安さん宅を訪問した
安さん夫妻は結婚式をしていなかったので
チマチョゴリ、パジチョゴリをつけて
写真を撮った
私たち夫婦は立ち会い人として同じ衣装をつけて
4人とも緊張の一瞬
まだまだ思い出すけど
またにします
私の思いの残る人が次々と
旅立って行く