雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

西山さんの狸

2019-12-15 08:21:36 | 私の好きなフレーズ

   『 ああ どんどん捨てなはれ、西山(ニッシャマ)さんの狸が食べに来るわ 』


わたしはニンジンがあまり好きではなかった。
今のニンジンは食べやすくなっているけれど、昔のニンジンは金時ニンジンだから、ほら 雑煮に使う真っ赤なの、あればっかりだから、ニンジンが好きな子供は少なかった。
それで、食事の時、親たちの目を盗んで、おかずのニンジンを窓からよく捨てたものだった。
それを見つけられた時には、はは親は決まったように、「ああ どんどん捨てなはれ、西山さんの狸が食べに来るわ」と言っていた。
子供たちにとって、西山に住んでいるという狸は、とても怖いものだったけれど、わたしは 一度も見たことがなかったなあ。

                
( 「さても このごろは 」 より )        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頃は元禄十五年・・・

2019-12-14 19:58:29 | 日々これ好日

        『 頃は元禄十五年・・・ 』

     遡ること三百余年の 元禄十五年十二月十四日未明
     大石内蔵助以下の赤穂浪士四十七士は
     雪を蹴立てて吉良邸に討ち入った・・・
     かつては この時期になると 芝居や映画が興行され
     つい最近でも テレビでもドラマが放映されたものである
     今日は そういうドラマはないようだが
     赤穂市はじめ 由来の地では催し物が行われている
     それにしても 当地などはとても暖かく 「雪を蹴立てて」というのはピンとこないが
     現代の暦になおすと 1703年1月30日に当たるそうで 納得
     とはいえ 時代は移り変わっているのですなァ

                         ☆☆☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しい裁判

2019-12-13 20:10:54 | 日々これ好日

        『 悲しい裁判 』

     元エリート官僚が 我が子を殺害したという事件の
     裁判があった
     家庭内暴力に堪えかねての犯行 と報道されている
     殺人が許されるはずもなく 
     ここまで追い込まれる前に 手段があったはずだとの
     意見もある
     そのような事は 加害者となってしまった父親は 百も承知であったはずだ
     しかし 事件は起きてしまった
     それを裁く裁判は あまりにも悲しい

                       ☆☆☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

化石賞を受賞 !?

2019-12-12 19:21:25 | 日々これ好日

        『 化石賞を受賞 !? 』

    
 国連の気候変動を討議する会議(COP25)において
     環境団体でつくる「気候行動ネットワーク」から
     わが国は 「化石賞」を頂戴した
           地球温暖化対策に消極的な国に贈る賞だそうで
     馬鹿にするな という気もする
     石炭による火力発電を増やしていることが 原因らしい
     原発事故を起こしたわが国としては 何とも辛いところだ
     太陽光も風力も力不足だとすれば
     温室効果ガスを全く排出しない 石炭火力発電所を
     ぜひとも 開発して欲しい

                       ☆☆☆  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五節の舞姫

2019-12-12 08:34:53 | 麗しの枕草子物語

     麗しの枕草子物語  
          五節の舞姫
 

中宮様が、五節の舞姫をお出しになるということで、付き添う女房は十二人ということになりました。
普通は八人くらいですし、女御や御息所の女房を付き添わせることはよろしくないと聞いておりましたが、中宮様は自らのお付きの女房十人に、女院と淑景舎からそれぞれ一人お出しになることになりました。

その当日、舞姫や女房ばかりでなく、下仕えや童女にいたるまで、山藍で摺り染めた唐衣や汗衫をお着せになりました。
この趣向は、中宮様のお側の女房さえも知らされておらず、もちろん外部の人たちには秘密にしておりました。
それぞれが美しく装束をつけ終わり、あたりが暗くなってきました頃に、かの青摺りの御衣を持ってこさせて、全員に与えられました。
紅い紐を美しくあしらい、光沢のある白い衣、模様はすべて手描きされています。ひときわすばらしい唐衣などを身に付けた後、その上に全員がそろって青摺りの御衣を羽織ったのですから、それはそれはすばらしいものでございました。中でも、童女の姿は、地味なはずの青摺りが、かえって清純なあでやかさを引き立てています。

舞姫は、のちに馬の中将と呼ばれる御方にて、この時十二歳。それはそれは美しいお方でございます。そのあとに続くお付きの女房は、何と十二人。さらに、下仕えの者たち、童女までが青摺りの衣を身につけたさまは、居並ぶ上達部、殿上人たちことごとくが驚きと称賛の声を上げられたものでした。
中宮様の、いつにもました御腐心は、見事花開いたと申せましょう。


(第八十五段 宮の、五節出でさせたまふに、より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水清くして魚棲まず

2019-12-11 19:24:02 | 日々これ好日

        『 水清くして魚棲まず 』 

     『 瀬戸内海 キレイ 過ぎ 』
     毎日新聞 本日夕刊(4版)の一面トップ記事である
     かつて 水質汚染が深刻であった瀬戸内海は
     長い活動が実って 水質は大幅に改善された
     ところが 「水清くして魚棲まず」現象が起こっているのである
     当地あたりの春の風物詩ともいえる 
     イカナゴの不漁が ここ数年続いている
     難しいものですなァ・・・

                        ☆☆☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか陽気

2019-12-10 21:10:57 | 日々これ好日

        『 ぽかぽか陽気 』

    
 ぽかぽか陽気に 浮かれ出たわけではないが
     近くのお城を訪れた
     そこは 球場や陸上競技場など 多くの施設がある公園で
     暖かさもあって 多くの人が行き交っていた
     ただ 隅櫓が存在している高台には 人影は少なく
     やはり 冬であることを感じさせる
     展望台にも人はいなく 遥かな海と島影を眺める
     よく見慣れた変わらぬ景色が かえって 時の流れを感じる

                       ☆☆☆ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇后さま お誕生日

2019-12-09 19:11:23 | 日々これ好日

        『 皇后さま お誕生日 』

     
皇后雅子さまが お誕生日を迎えられ
     ご感想が 公表されました
     即位関連の多くの行事は 
     一般国民では 想像もつかないような重圧と 推察されます
     そうした中で 実に印象深いお姿を 多くの国民に示され
     令和という 新しい時代が始まろうとしている予感を 与えてくださった
     皇室の弥栄を 祈念いたします

                           ☆☆☆
                            

     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れぬる世に

2019-12-09 08:19:59 | 新古今和歌集を楽しむ

     梅の花 なににほふらん 見る人の
              色をも香をも 忘れぬる世に


                  作者  大弐三位

( No.1446  巻第十六 雑歌上 )
         うめのはな なににほふらん みるひとの
                     いろをもかをも わすれぬるよに



* 作者 大弐三位(ダイニノサンミ)は、平安王朝文化の全盛期を生きた宮廷女房であり歌人である。( 999頃? - 1082頃? )享年八十三歳位か。

* 歌意は、「 梅の花は なぜあのように 美しく咲きかぐわしい香りを漂わせているのか 見るお方が 色も香りも 棄て去った世界においでなのに 」といった意味であろう。
この和歌の前書き(詞書)には、「 上東門院、世にそむき給ひにける春、庭の紅梅を見侍りて 」とあることから、作者が仕えている上東門院( 一条天皇の中宮 彰子 )の出家を悲しんでのものであることが分かる。上東門院の出家は1026年のことなので、作者が二十七、八歳の頃の作と推定できる。

* 作者の本名は、藤原賢子(ケンシ/カタイコ)。父は山城守藤原宣孝、母は紫式部である。
1001年に父が死去。作者三歳の頃である。両親の結婚期間は3年程度であったとされているので、作者の成長期のほとんどは母である紫式部の手で育てられたように思われる。

* 母の紫式部となれば存在が大き過ぎるので深く触れることは避けたいが、娘である作者との関係する部分だけを引用したい。
紫式部の生年は諸説が多すぎるが、970~977年の頃というのが有力のようである。紫式部が上東門院に仕えたのは1006~7年の頃とされる。夫との死別後五年ばかりしてからであるが、その以前には、藤原道長の妻である倫子のもとに仕えていたらしく、その能力を評価されて彰子(上東門院)付の女房となったようである。彰子付の女房の期間は5~6年らしい。ただ、その期間に、「紫式部日記」が書かれ、「源氏物語」の少なくとも一部は完成していたらしい。

* 1017年、作者大弐三位は、母と入れ替わるかのように、上東門院のもとに仕えた。すでに一条天皇は崩御していたので、中宮彰子時代は経験していない。
出仕に関しては、おそらく母の影響があったと推定され、「源氏物語」が今日のような評価を受けていたとは考えにくいが、紫式部という名前はすでに誕生していた可能性があり、大弐三位の生涯にわたって影響を受け続けた可能性はある。

* しかし、女房としての実績、女性としての評判、和歌の実績などは、決して母紫式部に劣るものではなかったようである。
出仕後、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任などの貴公子との交際が伝えられ、その後、関白藤原道兼の次男道隆と結婚し一女を儲けている。ただ、この結婚はやがて破綻する。
大弐三位の生涯に大きな転機をもたらしたのは、1025年、親仁親王(のちの後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任じられたことである。

* 1037年には、東宮権大進(正四位下)高階成章と再婚し一男一女を儲けるなど、充実した日々であったようだ。三十九歳の頃である。
そして、1054年、後冷泉天皇の即位にともない、従三位に昇叙する。夫の成章も太宰大弐(従三位、後に正三位)に就任し、これにより「大弐三位」と呼ばれるようになる。
この時、すでに五十六歳位と思われるが、その後も長命を保ち、八十歳の頃に歌会に出席したという記録も残されている。

* 大弐三位の没年は不詳であるが、1082年頃で享年八十四歳位ではないかと推定されている。
母紫式部の存在が大き過ぎるように見えるが、その生涯は、母をも上回る評価を受けていたのではないかと推定される。

最後に、小倉百人一首に採録されている和歌をあげておきたい。
『 有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする 』

     ☆   ☆   ☆


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無言の帰国

2019-12-08 18:33:09 | 日々これ好日

        『 無言の帰国 』

     
ノーベル賞の 受賞式典が行われている
     一方で 長年 アフガニスタンの復興に尽力し
           ノーベル平和賞の声さえ上がっていたといわれるお方が
     銃弾に倒れ 無言の帰国となった 嗚呼・・・
                       合掌

                    ☆☆☆ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする