「今、自分は、何合目あたりを歩いているのだろう」と思うことがあります。
まあ、それほど深刻な思いからではないのですが、何かの機会に、自分の生きてきた道を振り返ることがあります。多くの場合は、「あの時の判断は、どうだったのかなあ」とか、「よく無事でここまで来れたものだ」などと単発的な出来事に対して思い出すことはあっても、自分の生きてきた過去を思い返したり、反省したりということはあまりありませんでした。
「今、何合目あたりだろう」ということを考えることは、比較的よくありましたが、そのほとんどは、トレッキングといえば格好良すぎますが、登山にはほど遠い山歩きの時などに、目的地まであとどのくらいかと考える場合に、こうした考えをよくしました。あるいは、仕事や趣味などでも、一つの区切りに至までの量を測るのに、こうした考えもすることもよくあります。
ところが、残念ながら、齢を重ねてきた以外に理由が見当たらないのですが、「何合目あたりを歩いているのだろう」と考えることが、時々あるのです。
しかし、冷静に考えてみますと、そのようなことはいかにも無駄な思案のようにも思われます。
まだ三十代や四十代の人ならばともかく、ある程度十分に生きてきた人であれば、平均寿命や平均余命から残り時間はある程度推定できますし、人の寿命は分からないと言いますが、百二十歳くらいまで生きる人はいるとしても、百五十歳まで生きた人は、神代の昔はともかく、まずいないようです。
そういうことが分かっていながら、なせ、「今、自分は、何合目あたりを歩いているのだろう」などと考えるのかと言いますと、どうも、考える余地や価値があるような気がし始めているからなのです。
この「何合目」というのは、登山コースの距離を示すあたりから生れた言葉のようです。
何気なく使っていますが、少し変わった表現と思われます。
その語源には諸説あるようですが、「山の姿を米が盛られている姿に擬して、全体を1升とし、10等分して1合、2合と数えたもの。頂上の10合目は1升すなわち一生とする、奥深い説もあるようです」、「山を登る時に提灯を持っていったが、その油が1合消費した地点を1合目とした」。この二つは升で量る単位からきていますが、中には「劫(コウ・果てしなく長い時間。)から転じたというものも有ります。これなどは宗教的なものを感じさせます。
また、「何合目」という言葉は富士山で生れたとされています。富士山には、登山口が4つありますが、当然スタート口も4つあり、それぞれに1合目から10合目(頂上)までありますが、その距離も標高も様々です。また、富士山に限らず、1合目~10合目地点を決めるのは、距離でも標高でも所要時間でもないそうで、特別な標準はないそうです。さらに、スタート地点を0合目とする場合と1合目とする場合があり、中には、頂上を5合目とする山、20合目とする山もあるそうです。
私などは、「何合目」という標識のある山など、数えるほどしか登った経験がありません。
しかし、わが国だけでも「山」は数限りなくあります。2万5千分の1の地図に示されている山だけでも1万6千以上あるそうですから、それ以下の物も加えますと相当の数になります。
そして、富士山も山ですが、私の背丈を少し高くした程度の土塊でも山と言えば山です。それらの多くの山には「何合目」などの表示はありませんが、登るとすれば、スタート地点があり、頂上があるはずです。
そう考えますと、私たちが生きている時間を山にたとえるとしますと、今自分が立っている地点が何合目にあたるかなど、考え方次第でどう変化してもいいと思うのです。
「ああ、我が人生も8合目を過ぎたか」などと言うセリフも味があるものですが、「何合目」などと言うものは、考え方、捉え方しだいで、どうにでも設定できるように思うのです。
もっとも、六十歳を遙かに過ぎたお方が、「人生の3合目にさしかかった」などと言うセリフは、心の内だけにしておく方が無難のようですよ。
( 2022.09.08 )
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