運命紀行
散りゆく中で
『 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらはす・・・ 』
ご存知「平家物語」の一説である。
この物語に代表されるように、永きに渡って繁栄を誇った一族が滅びて行く姿は、壮絶であり、そして哀しい。
それは、平家物語に語られている平氏一族に限ったものではない。
清和源氏新羅三郎義光以来の名門として、甲斐の地で永年に渡り勢力を誇ってきた武田氏の最期にも同じ姿が見え、戦国の世とはいえ余りにも厳しい終焉である。
稀代の英雄、武田信玄が没すると、甲斐武田氏の勢力は急速に衰えていった。
跡を継いだ武田勝頼が凡庸であったわけではないが、信玄の存在は余りにも大きく、その死とともにこれまで従っていた豪族たちを繋ぎ止めておくことは至難の業といえた。
特に、信玄没後二年目の天正三年(1575)五月、長篠の戦いにおいて武田軍は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、信玄以来の重要な家臣を多く失った。
この戦いを機に、武田氏の没落は加速していくのである。
まず、同盟を結んでいた北条氏や上杉氏との間に軋轢が生じるようになっていった。この時代の同盟は、あくまでも自家の優位を得るためのものであるから、力を有している間こそ意義があるが、一旦落ち目ともなれば、同盟先が安心できる保障など全くなかった。もっとも、それは、いつの時代でも変わらないが。
さらに、これまで信玄の実力になびいていた豪族たちに動揺が見られ、織田・徳川方の圧力の強い地域から順に離反の動きが広まって行った。
この頃織田信長は、石山本願寺や北陸の一向宗徒との戦いに忙しく、中国路の毛利氏との対立も激しくなってきていて、武田氏との戦いはもっぱら徳川家康に任せている形であった。
しかし、天正九年(1581)、武田方の高天神城陥落に関して武田勝頼は援軍を送ることができず見捨ててしまったことから、重臣たちの中からも離反者が出始めたのである。勝頼の妹が嫁いでいる木曽義昌もその一人で、織田方に寝返ったことを知ると信長は武田討伐の好機として、勝頼討伐軍の動員令を発した。
天正十年(1582)二月三日、織田軍は信長嫡男の信忠を大将として、まず先鋒隊が岐阜城を進発した。
織田軍は飛騨方面から、同盟者である徳川軍は駿河方面から信濃を目指し、さらに北条軍も呼応するかのように甲斐に向かっていた。
織田軍の先鋒隊森長可らは、二月六日には伊那街道から信濃に侵入した。街道筋の豪族たちは勝頼を見限り、積極的に織田先鋒隊の道案内を務めた。二月十四日には、松尾城(現飯田市)小笠原信嶺も織田軍に寝返った。
大将の織田信忠が岐阜城を進発したのは二月の十二日であるが、この頃には、先鋒隊はすでに飯田に入っていたのである。
飯田城の城主保科正直は、城を捨てて高遠城へ逃亡、これを聞いた勝頼の叔父武田信廉らは戦意を喪失して次々と逃亡している。
二月十八日には徳川軍も浜松城を進発した。この方面でも投降が相次ぎ、武田軍はほとんど戦うことなく、半月ほどで信濃の南半分を失ったのである。
この状況は、小仏峠などから軍勢を送り込んだ北条軍に対しても同様で、武田軍の指揮系統は崩壊しつつあった。
二月二十八日、織田先鋒軍に加わっている木曽義昌に敗れた武田勝頼は、諏訪での反抗を諦め新府城に撤退した。
高遠城を落とした織田本隊は本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払った。
三月一日には、武田一族である重臣の穴山梅雪が家康を通じて織田方に寝返った。梅雪を先導役として家康は甲斐への進攻を開始した。
三月三日、まだ未完成の新府城での籠城は困難と判断した勝頼は、逃亡先を重臣たちと協議した。真田昌幸は要害である岩櫃城を進言したが、小山田信茂は岩櫃城が遠いことを理由に自分の居城である岩殿城を勧めた。議論は伯仲したが、結局勝頼は、一族である信茂の意見を取り、岩殿城に向かうこととなり新府城に火を放った。
三月九日、勝頼らの一行は岩殿城を目前にした笹子峠(現大月市)で、信茂の裏切りにあい、岩殿城への入城を拒絶されたのである。
最後の砦と頼んだ城に入ることができなかった勝頼と嫡男信勝、正室北条夫人らは、僅かな側近たちに護られて、武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指すこととなった。
三月十一日、勝頼一行は天目山を目前にした田野で織田軍の滝川一益隊に捕捉されてしまった。
最後まで付き従っていた側近たちは、勝頼たちの最期の場所を確保するために懸命の働きを見せて織田の大軍をしばらくは防ぎ切った。
その間に、勝頼・信勝・北条夫人らは自刃し、清和源氏の名門甲斐武田氏の嫡流は滅亡したのである。
信長が武田討伐軍を動員を発してから、二か月にも経たない間での滅亡であった。「人は城、人は石垣、人は堀」と鉄壁を誇ったはずの家臣団は、あまりにも脆く、あまりにも簡単に寝返っていったのである。
信忠軍の後詰をすべく、信長自身が大軍を率いて安土城を出立したのは三月五日のことで、まだ信濃にさえ足を踏み入れていなかったのである。
しかし、武田軍が何の抵抗もなく滅び去ったのかといえば、それは少し違う。
例えば、三月一日、信忠軍が高遠城を包囲した時、守将の勝頼の弟である仁科盛信は、兵力にあまりにも大きな差があり信忠は再三開城を促したが、盛信は壮絶な戦いを選び、信忠軍に少なからぬ損害を与え、ついに落城となった時自刃して果てている。
また、武田勝頼の最後の戦いともいえる天目山麓の田野での戦いは、僅かな手勢で滝川一益の大軍を一時は退却させるほどの働きをしたという。特に、土屋昌恒の武者働きぶりは、「片手千人斬り」の異名を残す程凄まじいものであったと後の世まで語られている。
この土屋昌恒や側近たちの働きがあったればこそ、武田勝頼に武将としての最期の時を提供することができたのである。
* * *
土屋昌恒は、弘治二年(1556)、武田家譜代の家老衆である金丸虎義の五男として誕生した。
兄である次男の昌続は、武田信玄の近習として仕えていたが、土屋貞綱の養子となった。
土屋家は桓武平氏を引く名門で、元は駿河の水軍を率いて今川氏に仕えていたが、その後武田氏に臣従するようになった。
天正三年(1575)の武田家没落の切っ掛けとなった長篠の戦いには昌恒も加わっていたが、この戦いにおいて昌続とその義父貞綱は共に討死してしまった。そのため、土屋の名跡継承のため昌恒が家督を継ぐこととなり、土屋昌恒が誕生したのである。
昌恒は勝頼側近として仕え、おもに東海道、関東方面の戦いの多くに参加している。
天正十年(1582)の織田・徳川連合軍による甲州討伐戦では、有力豪族や譜代の家臣たち、さらには武田一門衆までもが次々と離反していった中で、昌恒は一部の側近たちと最後まで勝頼に付き従っていた。
天目山を目前にして滝川一益を大将とする織田軍に追い詰められた時、勝頼父子や夫人に武将らしい最期の時を稼ぐために、側近たちは数少ない手勢で織田の大軍を一度は退却させるほどの戦いをしているのである。
中でも土屋昌恒の武者振りは後世まで語り継がれる壮絶なものであった。
敵の大軍を一度は止めることは出来ても、兵力の差は如何ともし難く、味方の多くを失った勝頼の側近たちは、狭い崖路で大軍の進路を阻み、主君一族に最期の時間を作り出そうと奮戦した。昌恒は、崖から転落しないように片手を蔦の蔓に巻きつけて、片手で刀を持ち戦い続けたという。容姿端麗と伝えられている昌恒であるが、まるで悪鬼の如き形相での奮戦は、後々の世まで「片手千人斬り」と噂される戦いぶりであったという。
やがて、主君たちの見事な最期を知った側近たちは、戦いを収め次々と後を追って自刃して果てた。
名門甲斐源氏武田氏の壮絶な最期であった。
しかし、運命の支配者は、時には粋な計らいをするらしい。
土屋昌恒が自刃して果てたのは、二十七歳の時である。
彼には誕生間もない嫡男がいた(すでに六、七歳であったという説もある)。妻は先の高天神城の戦いで討死した勇将岡部元信の娘であった。
夫人は武田一族の滅亡を知ると、一子を連れて駿河の清見寺に逃げ込んだ。岡部氏も土屋氏も元は今川の家臣であったことから、駿河に何らかの縁故があったのかもしれない。
やがて、土屋昌恒の天晴れな武者振りを称える家康は、忘れ形見の消息を探させ召し出されることになった。
二代将軍となる秀忠の小姓として仕え、やがてその一字を与えられ、土屋忠直と名乗った。
天正十九年(1591)には相模国に三千石が与えられ、慶長七年(1602)の関ヶ原後の知行割りでは、上総国久留里藩二万石の藩主に抜擢されているのである。
「人は城、人は石垣、人は堀」と謡われた武田氏のあまりにも脆い最期の中で、土屋昌恒は、天晴れ武者も数多くいたことを教えてくれている。
( 完 )
散りゆく中で
『 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらはす・・・ 』
ご存知「平家物語」の一説である。
この物語に代表されるように、永きに渡って繁栄を誇った一族が滅びて行く姿は、壮絶であり、そして哀しい。
それは、平家物語に語られている平氏一族に限ったものではない。
清和源氏新羅三郎義光以来の名門として、甲斐の地で永年に渡り勢力を誇ってきた武田氏の最期にも同じ姿が見え、戦国の世とはいえ余りにも厳しい終焉である。
稀代の英雄、武田信玄が没すると、甲斐武田氏の勢力は急速に衰えていった。
跡を継いだ武田勝頼が凡庸であったわけではないが、信玄の存在は余りにも大きく、その死とともにこれまで従っていた豪族たちを繋ぎ止めておくことは至難の業といえた。
特に、信玄没後二年目の天正三年(1575)五月、長篠の戦いにおいて武田軍は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、信玄以来の重要な家臣を多く失った。
この戦いを機に、武田氏の没落は加速していくのである。
まず、同盟を結んでいた北条氏や上杉氏との間に軋轢が生じるようになっていった。この時代の同盟は、あくまでも自家の優位を得るためのものであるから、力を有している間こそ意義があるが、一旦落ち目ともなれば、同盟先が安心できる保障など全くなかった。もっとも、それは、いつの時代でも変わらないが。
さらに、これまで信玄の実力になびいていた豪族たちに動揺が見られ、織田・徳川方の圧力の強い地域から順に離反の動きが広まって行った。
この頃織田信長は、石山本願寺や北陸の一向宗徒との戦いに忙しく、中国路の毛利氏との対立も激しくなってきていて、武田氏との戦いはもっぱら徳川家康に任せている形であった。
しかし、天正九年(1581)、武田方の高天神城陥落に関して武田勝頼は援軍を送ることができず見捨ててしまったことから、重臣たちの中からも離反者が出始めたのである。勝頼の妹が嫁いでいる木曽義昌もその一人で、織田方に寝返ったことを知ると信長は武田討伐の好機として、勝頼討伐軍の動員令を発した。
天正十年(1582)二月三日、織田軍は信長嫡男の信忠を大将として、まず先鋒隊が岐阜城を進発した。
織田軍は飛騨方面から、同盟者である徳川軍は駿河方面から信濃を目指し、さらに北条軍も呼応するかのように甲斐に向かっていた。
織田軍の先鋒隊森長可らは、二月六日には伊那街道から信濃に侵入した。街道筋の豪族たちは勝頼を見限り、積極的に織田先鋒隊の道案内を務めた。二月十四日には、松尾城(現飯田市)小笠原信嶺も織田軍に寝返った。
大将の織田信忠が岐阜城を進発したのは二月の十二日であるが、この頃には、先鋒隊はすでに飯田に入っていたのである。
飯田城の城主保科正直は、城を捨てて高遠城へ逃亡、これを聞いた勝頼の叔父武田信廉らは戦意を喪失して次々と逃亡している。
二月十八日には徳川軍も浜松城を進発した。この方面でも投降が相次ぎ、武田軍はほとんど戦うことなく、半月ほどで信濃の南半分を失ったのである。
この状況は、小仏峠などから軍勢を送り込んだ北条軍に対しても同様で、武田軍の指揮系統は崩壊しつつあった。
二月二十八日、織田先鋒軍に加わっている木曽義昌に敗れた武田勝頼は、諏訪での反抗を諦め新府城に撤退した。
高遠城を落とした織田本隊は本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払った。
三月一日には、武田一族である重臣の穴山梅雪が家康を通じて織田方に寝返った。梅雪を先導役として家康は甲斐への進攻を開始した。
三月三日、まだ未完成の新府城での籠城は困難と判断した勝頼は、逃亡先を重臣たちと協議した。真田昌幸は要害である岩櫃城を進言したが、小山田信茂は岩櫃城が遠いことを理由に自分の居城である岩殿城を勧めた。議論は伯仲したが、結局勝頼は、一族である信茂の意見を取り、岩殿城に向かうこととなり新府城に火を放った。
三月九日、勝頼らの一行は岩殿城を目前にした笹子峠(現大月市)で、信茂の裏切りにあい、岩殿城への入城を拒絶されたのである。
最後の砦と頼んだ城に入ることができなかった勝頼と嫡男信勝、正室北条夫人らは、僅かな側近たちに護られて、武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指すこととなった。
三月十一日、勝頼一行は天目山を目前にした田野で織田軍の滝川一益隊に捕捉されてしまった。
最後まで付き従っていた側近たちは、勝頼たちの最期の場所を確保するために懸命の働きを見せて織田の大軍をしばらくは防ぎ切った。
その間に、勝頼・信勝・北条夫人らは自刃し、清和源氏の名門甲斐武田氏の嫡流は滅亡したのである。
信長が武田討伐軍を動員を発してから、二か月にも経たない間での滅亡であった。「人は城、人は石垣、人は堀」と鉄壁を誇ったはずの家臣団は、あまりにも脆く、あまりにも簡単に寝返っていったのである。
信忠軍の後詰をすべく、信長自身が大軍を率いて安土城を出立したのは三月五日のことで、まだ信濃にさえ足を踏み入れていなかったのである。
しかし、武田軍が何の抵抗もなく滅び去ったのかといえば、それは少し違う。
例えば、三月一日、信忠軍が高遠城を包囲した時、守将の勝頼の弟である仁科盛信は、兵力にあまりにも大きな差があり信忠は再三開城を促したが、盛信は壮絶な戦いを選び、信忠軍に少なからぬ損害を与え、ついに落城となった時自刃して果てている。
また、武田勝頼の最後の戦いともいえる天目山麓の田野での戦いは、僅かな手勢で滝川一益の大軍を一時は退却させるほどの働きをしたという。特に、土屋昌恒の武者働きぶりは、「片手千人斬り」の異名を残す程凄まじいものであったと後の世まで語られている。
この土屋昌恒や側近たちの働きがあったればこそ、武田勝頼に武将としての最期の時を提供することができたのである。
* * *
土屋昌恒は、弘治二年(1556)、武田家譜代の家老衆である金丸虎義の五男として誕生した。
兄である次男の昌続は、武田信玄の近習として仕えていたが、土屋貞綱の養子となった。
土屋家は桓武平氏を引く名門で、元は駿河の水軍を率いて今川氏に仕えていたが、その後武田氏に臣従するようになった。
天正三年(1575)の武田家没落の切っ掛けとなった長篠の戦いには昌恒も加わっていたが、この戦いにおいて昌続とその義父貞綱は共に討死してしまった。そのため、土屋の名跡継承のため昌恒が家督を継ぐこととなり、土屋昌恒が誕生したのである。
昌恒は勝頼側近として仕え、おもに東海道、関東方面の戦いの多くに参加している。
天正十年(1582)の織田・徳川連合軍による甲州討伐戦では、有力豪族や譜代の家臣たち、さらには武田一門衆までもが次々と離反していった中で、昌恒は一部の側近たちと最後まで勝頼に付き従っていた。
天目山を目前にして滝川一益を大将とする織田軍に追い詰められた時、勝頼父子や夫人に武将らしい最期の時を稼ぐために、側近たちは数少ない手勢で織田の大軍を一度は退却させるほどの戦いをしているのである。
中でも土屋昌恒の武者振りは後世まで語り継がれる壮絶なものであった。
敵の大軍を一度は止めることは出来ても、兵力の差は如何ともし難く、味方の多くを失った勝頼の側近たちは、狭い崖路で大軍の進路を阻み、主君一族に最期の時間を作り出そうと奮戦した。昌恒は、崖から転落しないように片手を蔦の蔓に巻きつけて、片手で刀を持ち戦い続けたという。容姿端麗と伝えられている昌恒であるが、まるで悪鬼の如き形相での奮戦は、後々の世まで「片手千人斬り」と噂される戦いぶりであったという。
やがて、主君たちの見事な最期を知った側近たちは、戦いを収め次々と後を追って自刃して果てた。
名門甲斐源氏武田氏の壮絶な最期であった。
しかし、運命の支配者は、時には粋な計らいをするらしい。
土屋昌恒が自刃して果てたのは、二十七歳の時である。
彼には誕生間もない嫡男がいた(すでに六、七歳であったという説もある)。妻は先の高天神城の戦いで討死した勇将岡部元信の娘であった。
夫人は武田一族の滅亡を知ると、一子を連れて駿河の清見寺に逃げ込んだ。岡部氏も土屋氏も元は今川の家臣であったことから、駿河に何らかの縁故があったのかもしれない。
やがて、土屋昌恒の天晴れな武者振りを称える家康は、忘れ形見の消息を探させ召し出されることになった。
二代将軍となる秀忠の小姓として仕え、やがてその一字を与えられ、土屋忠直と名乗った。
天正十九年(1591)には相模国に三千石が与えられ、慶長七年(1602)の関ヶ原後の知行割りでは、上総国久留里藩二万石の藩主に抜擢されているのである。
「人は城、人は石垣、人は堀」と謡われた武田氏のあまりにも脆い最期の中で、土屋昌恒は、天晴れ武者も数多くいたことを教えてくれている。
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