運命紀行
百万石を支える
千代保が九州に向かったのは、いつの頃であったのか。
長い戦乱の世を勝ち抜き天下統一を果たし豊臣秀吉が、大陸侵攻への野望を実現すべく各大名に軍令が下されたのは文禄元年(1592)三月十三日のことであった。文禄の役の始まりである。
もっとも、大陸侵攻の前線本部となる肥前名護屋城は、前年八月には築城が開始されているので、計画についてはもっと早くから用意されていたことになる。
秀吉政権下にあって、このところの台頭著しく、徳川家康に次ぐ実力者になりつつあった前田利家は、軍令が発布されると諸将に先立って八千の軍勢を率いて九州に向かった。三月十六日のことである。
招集された軍勢は、九軍団に組織された渡海軍だけで十五万八千人といわれ、水軍や後詰を加えると十八万七千人とも伝えられ大軍勢であった。(三十万人という記録もある)
一番隊大将小西行長、二番隊大将加藤清正以下次々と渡海していった。
秀吉自らも渡海する意向であったが重臣らに留められたという。また、七月には秀吉の母・大政所が危篤となり秀吉は大坂に戻っているが、この間三カ月ばかり不在となる間は家康、利家の二人が指揮にあたっている。
翌二年一月には前田軍にも渡海の命令が下され準備に入ったが、その後、明との講和が進み結局利家は朝鮮に渡ることはなかった。
そして、八月には秀頼誕生の報がもたらされ、秀吉は嬉々として大坂に戻った。少し遅れて利家も退陣しており、十一月には金沢に戻っている。
結局、利家がこの文禄の役により肥前名護屋城に滞在していたのは、文禄元年四月から翌年十月頃までの間である。千代保が肥前名護屋城で利家に仕えていたのは、この間の数か月であったと考えられる。
千代保は利家夫人まつの侍女として仕えていたが、利家の身の回りの世話のため、まつに命じられて九州に向かったのである。
この時利家は五十五歳の頃で、千代保は二十三歳である。戦場への前線基地とはいえ、肥前名護屋城には秀吉を初めとして有力大名や文化人も出入りしているであろうことは、秀吉政権内部を知り尽くしているまつであれば、状況を承知していたはずである。そこへ派遣する侍女であるから、賢夫人まつの厳しい評価に耐えられる女性であったことは推定できる。教養や気配り、そしておそらく見目も麗しい女性であったと思われる。
ただ、千代保を身の回りの世話として派遣したまつに、当然利家の手付きとなることを予想した上であったのかどうか、不明である。
やがて、千代保は懐妊し、肥前名護屋城を離れる。
移動手段は籠しか考えられない時代である。臨月間近というわけにはいかず、永禄二年の夏の頃には出立したはずである。向かう先は、大坂であったのか、京都であったのか、金沢であったのか分からないが、おそらくまつのもとに向かったはずである。
千代保が出産したのは、十一月二十五日のことで、場所は金沢であったらしい。ただ、その頃には、利家は金沢に帰還しているが、生まれた子供とは会っていないので、城外の然るべき場所に保護されていたらしい。
生まれた子供は、猿千代と名付けられ、越中国守山城の城代前田長種のもとで養育される。長種の夫人は、利家・まつの長女幸姫であるので、まつの計らいによるものと推定され、大切に養育されたと思われる。
そして、利家にとって四男にあたるこの男の子が、加賀百万石にとって重要な意味を持つ人物へと育っていくのである。
* * *
信長、秀吉、家康と激しい覇権争いの結果、家康によって江戸幕府という長期政権が築かれていったが、その中にあって、覇権こそ握ることはなかったが、加賀百万石と称えられる前田家は、さまざまの圧力を受けながらも、徳川御三家に次ぐ家柄として、また高い文化を誇る国を築き上げている。
支藩を含めれば百二十万石にも及ぶ雄藩を築き上げた藩祖は、若い頃から槍の又兵衛とうたわれた勇将前田利家であり、その妻まつも、良妻賢母であり、秀吉政権下にあっても少なからぬ影響力を持っていたとされる誉れ高い女性である。
加賀藩の誕生から繁栄を続けて行く過程を見る時、この二人の存在は極めて大きい。しかし、今少し時間の経過を伸ばしてみると、見過ごすことのできない女性が浮かび上がってくる。
寿福院千代保である。
千代保(ちょぼ)は、元亀元年(1570)の誕生であるから、利家より三十二歳、まつより二十三歳年下である。およそ子供にあたる年代といえる。
父は朝倉氏家臣上本新兵衛、母も朝倉氏家臣の娘である。父の死後母は小幡九兵衛に再嫁したため、千代保は小幡氏とも称される。
朝倉氏が織田・徳川連合軍に討ち破られたのは、千代保が三歳の頃にあたるので、一家の苦難は軽いものではなかったと想像される。
やがて、前田利家夫人まつに仕えることになるが、何歳の頃であったのかよく分からない。実は、千代保の本名は千代であるが、前田家に仕えるにあたって、同家の六女千世と音が同じだということで、千代保に改名させられたものである。
千代保が肥前名護屋城に出陣していた利家のもとに送られたのは二十三歳の頃である。それまで結婚の経験があるという記録は残されていないので、当時の女性の婚姻年齢を考えると、あまり恵まれた環境ではなかったような気がする。また彼女は、大変熱心な日蓮宗徒であったが、そのことも厳しい幼年期や青春期を連想させる。
文禄二年(1593)十一月二十五日、無事に誕生した男児は猿千代と名付けられた。その直後どのように育てられたのか不詳であるが、それほどの月日を置くことなく、守山城代である重臣前田長種のもとで養育されることになる。先に述べたように、長種の妻は利家・まつの長女なので、まつの意向が働いたと考えるのが自然であり、金沢城から遠く離れた地で育てられたからといって、決して粗略な扱いではなかったと考えられる。おそらく千代保も、幼児に同行したのであろう。
猿千代は、利家の四男にあたるが、誕生直後には利家と対面しておらず、四男としての認知を受けていたのかどうかははっきりしない。
また、幼名が猿千代と名付けられたことや、千代保が懐妊したのが肥前名護屋城であったことから、秀吉の子供だと疑う伝聞もあるらしいが、これは疑問に感じる。子供が欲しくて仕方のなかった秀吉の子を、利家夫妻が隠すことなど考えられないし、天下の太閤秀吉の子に猿千代と名付けるなどは常識的には考えられない。
猿千代が、父に初めて対面したのは六歳の時で、利家が守山城を訪ねた時のことである。利家が世を去る前年の慶長三年(1598)のことで、まだ幼年の猿千代を大変気に入って大小二刀を与えたという。四男としての認知を受けたのもこの時のことと思われる。
さらに千代保の生んだ男の子は大きな転機を迎える。
利家・まつ夫妻の長男であり、加賀藩初代藩主前田利長には男の子供がいなかったため、猿千代が養子に選ばれたのである。なお幼名は、猿千代から犬千代に改められているが、その時期は確認できなかった。犬千代は、父利家の幼名であることを考えれば、早い段階で利長の後継者に目されていたのかもしれない。
加賀藩の藩主については、前田利家を藩祖として、利長を初代として数えるようであるが、利長を二代藩主とするものもある。
千代保の子供が利長の養子に選ばれる時、他に候補者がいなかったわけではない。
次男利政はすでに独立していたが、利長とは対立することが多かったらしく、関ヶ原の合戦では東軍に付く態度を鮮明にせず、領地の能登国を没収される事態になっていく。
三男知好は側室の子供であるが、この頃すでに出家していて対象から外れたらしい。この人物は後に還俗するが、家督に関して利光(猿千代)と諍いがあったらしい。
五男、六男は、それぞれ別の側室の子供であり当然年齢も下であるが、全く対象外ということではなかったはずである。
そして何よりも、利長はまだ三十八歳の頃のことであり、次男利政に男子は一人だけであったがまだ若く、後継者となる養子を取るのは早すぎるという意見もあったはずである。
これは、全く記録にないことだが、まつの心情を考えれば、有り得るような気がするのである。
しかし、利家死去による混乱が前田家に時間の余裕を与えなかったのである。
家康の動きが激しくなり、前田家に謀反の動きありと糾弾される事態となった。この危機を収束させるために、まつは江戸に向かうこととなり、その見返りのような形で利長の嫡男に秀忠の娘を妻に迎えることになったからである。
おそらく、このような切迫した中で養子が選定されたのであろうが、千代保の子供が幼いながらもすでに大器の片鱗が見えていたからなのかもしれない。六歳の猿千代に対面した利家は、その子供がとても気に入ったと伝えられており、その時に犬千代という名前を与えたのかもしれない。もしそうだとすれば、利家から利長にそれなりの申し渡しがあったのかもしれない。ただ、これらはすべて憶測に過ぎない。
猿千代すなわち犬千代は、幼くして利家によく似た堂々とした体格の持ち主であったらしく、利長が後継に犬千代を選んだ理由の一つに優れた体格の持ち主であることをあげているという。
千代保の子供が晴れて初代藩主利長の養子となり、同時に名前を利光と改め、さらに徳川秀忠の娘珠姫との婚約が決まった。この珠姫とは、秀忠に嫁ぐ千姫の妹である。
珠姫が江戸から金沢へ壮大な行列を引き連れて輿入れしたのは、関ヶ原の合戦後の慶長六年(1601)のことであるが、利光がまだ九歳のことで、珠姫にいたっては三歳であった。
絵に描いたような政略結婚であるが、この婚姻こそが加賀百万石にとって重要な意味を持つ慶事であった。
この頃には、千代保も金沢城東丸に居を構えていて、東丸殿と呼ばれる身分になっていた。
慶長十年(1605)には、利長は四十四歳の若さで隠居し、利光に家督を譲った。豊臣家との関係など、何かと幕府から警戒を持たれていることを懸念して、将軍家の娘婿に当主の座を譲ることを急いだのであろう。
ここに、僅か十三歳で前田家二代藩主利光が誕生したのである。なお、この人は利常として知られているが、利光から利常に改名するのは、寛永六年(1629)のことである。
利光が藩主になるとともに、松平の名字と源の本性が与えられ、外様でありながら準親藩のような地位を獲得していくことになる。
また、ままごと遊びのような形でスタートした利光と珠姫との仲は大変睦まじかったと伝えられていて、珠姫は僅か二十四歳で世を去ることになるが、その間に三男五女の子供を残し、加賀百万石にとって掛け替えのない嫁御となったのである。
利常(利光)も治世に優れ、性格も大胆かつ緻密な人物と伝えられ、割愛するが興味深い逸話を今に残している。
寛永十六年(1639)に家督を譲るも、三代藩主光高は六年後に急死、その跡を継いだ綱紀がまだ三歳であったため、将軍家光の命により綱紀の後見を務め、名君の誉れ高い藩主に育て上げるのである。
利常が世を去ったのは万治元年(1658)のことで、享年六十六歳であった。
実に半世紀にわたって加賀藩政務の陣頭に立ち続けていたのである。この間に、多くの諸制度を築き上げ、何よりも、嫡男光高には家光の養女大姫(水戸徳川家頼房の娘)を正室に迎え、嫡孫綱紀には家光の信頼厚い保科正之の娘摩須姫を正室に迎え入れ、徳川家との関係を盤石なものへとしていったのである。
百万石の実力を、武力に傾くことを避けて文化面の向上に務めたのも利常の功績の一つといえよう。
一方千代保は、慶長十九年(1614)利長の死去により、芳春院まつに替わって人質となるため江戸に向かった。
まつもそうであったが、江戸を自由に離れることが出来ないなどの制約はあるとしても、実質的には加賀藩江戸屋敷での生活であり不足のない生活であったと考えられる。
千代保は若い頃から熱心な日蓮宗徒であったが、この頃にはさらにその活動に務めていたらしい。家康の側室であったお万の方とは特に親しく、共に熱心な日蓮宗徒として甲斐身延山久遠寺の五重の塔など、各地に多くの寄進などを行っている。
一つの逸話がある。人質交代のため芳春院まつと寿福院千代保が江戸で会った時、互いに挨拶さえ交わさなかったというのである。
この他にも、二人の不仲を伝える伝聞があるらしい。もし事実だとすれば、何に原因があったのだろうか。改名させられたとか、利家の寵を受けたことが気に入らなかったとか、あるいは、家督相続に関して何らかの軋轢があったとか等々幾つかの要因は考えられないことはない。
しかし、加賀百万石を支えた程の二人の女性が、挨拶も交わさないほど大人げない行動を取るとは考え難い。単なる伝聞として聞き流したい気持ちである。
千代保は、寛永八年(1631)加賀藩江戸屋敷で世を去る。享年六十二歳。
池上本門寺で荼毘に付された後、金沢でも葬儀が行われ、能登の妙成寺に納骨された。日蓮宗に深く帰依していた千代保の願いからであったという。
徳川の時代に、加賀百万石として燦然と輝き続けた歴史を考える時、千代保という女性の存在を忘れることは出来ないのである。
( 完 )
百万石を支える
千代保が九州に向かったのは、いつの頃であったのか。
長い戦乱の世を勝ち抜き天下統一を果たし豊臣秀吉が、大陸侵攻への野望を実現すべく各大名に軍令が下されたのは文禄元年(1592)三月十三日のことであった。文禄の役の始まりである。
もっとも、大陸侵攻の前線本部となる肥前名護屋城は、前年八月には築城が開始されているので、計画についてはもっと早くから用意されていたことになる。
秀吉政権下にあって、このところの台頭著しく、徳川家康に次ぐ実力者になりつつあった前田利家は、軍令が発布されると諸将に先立って八千の軍勢を率いて九州に向かった。三月十六日のことである。
招集された軍勢は、九軍団に組織された渡海軍だけで十五万八千人といわれ、水軍や後詰を加えると十八万七千人とも伝えられ大軍勢であった。(三十万人という記録もある)
一番隊大将小西行長、二番隊大将加藤清正以下次々と渡海していった。
秀吉自らも渡海する意向であったが重臣らに留められたという。また、七月には秀吉の母・大政所が危篤となり秀吉は大坂に戻っているが、この間三カ月ばかり不在となる間は家康、利家の二人が指揮にあたっている。
翌二年一月には前田軍にも渡海の命令が下され準備に入ったが、その後、明との講和が進み結局利家は朝鮮に渡ることはなかった。
そして、八月には秀頼誕生の報がもたらされ、秀吉は嬉々として大坂に戻った。少し遅れて利家も退陣しており、十一月には金沢に戻っている。
結局、利家がこの文禄の役により肥前名護屋城に滞在していたのは、文禄元年四月から翌年十月頃までの間である。千代保が肥前名護屋城で利家に仕えていたのは、この間の数か月であったと考えられる。
千代保は利家夫人まつの侍女として仕えていたが、利家の身の回りの世話のため、まつに命じられて九州に向かったのである。
この時利家は五十五歳の頃で、千代保は二十三歳である。戦場への前線基地とはいえ、肥前名護屋城には秀吉を初めとして有力大名や文化人も出入りしているであろうことは、秀吉政権内部を知り尽くしているまつであれば、状況を承知していたはずである。そこへ派遣する侍女であるから、賢夫人まつの厳しい評価に耐えられる女性であったことは推定できる。教養や気配り、そしておそらく見目も麗しい女性であったと思われる。
ただ、千代保を身の回りの世話として派遣したまつに、当然利家の手付きとなることを予想した上であったのかどうか、不明である。
やがて、千代保は懐妊し、肥前名護屋城を離れる。
移動手段は籠しか考えられない時代である。臨月間近というわけにはいかず、永禄二年の夏の頃には出立したはずである。向かう先は、大坂であったのか、京都であったのか、金沢であったのか分からないが、おそらくまつのもとに向かったはずである。
千代保が出産したのは、十一月二十五日のことで、場所は金沢であったらしい。ただ、その頃には、利家は金沢に帰還しているが、生まれた子供とは会っていないので、城外の然るべき場所に保護されていたらしい。
生まれた子供は、猿千代と名付けられ、越中国守山城の城代前田長種のもとで養育される。長種の夫人は、利家・まつの長女幸姫であるので、まつの計らいによるものと推定され、大切に養育されたと思われる。
そして、利家にとって四男にあたるこの男の子が、加賀百万石にとって重要な意味を持つ人物へと育っていくのである。
* * *
信長、秀吉、家康と激しい覇権争いの結果、家康によって江戸幕府という長期政権が築かれていったが、その中にあって、覇権こそ握ることはなかったが、加賀百万石と称えられる前田家は、さまざまの圧力を受けながらも、徳川御三家に次ぐ家柄として、また高い文化を誇る国を築き上げている。
支藩を含めれば百二十万石にも及ぶ雄藩を築き上げた藩祖は、若い頃から槍の又兵衛とうたわれた勇将前田利家であり、その妻まつも、良妻賢母であり、秀吉政権下にあっても少なからぬ影響力を持っていたとされる誉れ高い女性である。
加賀藩の誕生から繁栄を続けて行く過程を見る時、この二人の存在は極めて大きい。しかし、今少し時間の経過を伸ばしてみると、見過ごすことのできない女性が浮かび上がってくる。
寿福院千代保である。
千代保(ちょぼ)は、元亀元年(1570)の誕生であるから、利家より三十二歳、まつより二十三歳年下である。およそ子供にあたる年代といえる。
父は朝倉氏家臣上本新兵衛、母も朝倉氏家臣の娘である。父の死後母は小幡九兵衛に再嫁したため、千代保は小幡氏とも称される。
朝倉氏が織田・徳川連合軍に討ち破られたのは、千代保が三歳の頃にあたるので、一家の苦難は軽いものではなかったと想像される。
やがて、前田利家夫人まつに仕えることになるが、何歳の頃であったのかよく分からない。実は、千代保の本名は千代であるが、前田家に仕えるにあたって、同家の六女千世と音が同じだということで、千代保に改名させられたものである。
千代保が肥前名護屋城に出陣していた利家のもとに送られたのは二十三歳の頃である。それまで結婚の経験があるという記録は残されていないので、当時の女性の婚姻年齢を考えると、あまり恵まれた環境ではなかったような気がする。また彼女は、大変熱心な日蓮宗徒であったが、そのことも厳しい幼年期や青春期を連想させる。
文禄二年(1593)十一月二十五日、無事に誕生した男児は猿千代と名付けられた。その直後どのように育てられたのか不詳であるが、それほどの月日を置くことなく、守山城代である重臣前田長種のもとで養育されることになる。先に述べたように、長種の妻は利家・まつの長女なので、まつの意向が働いたと考えるのが自然であり、金沢城から遠く離れた地で育てられたからといって、決して粗略な扱いではなかったと考えられる。おそらく千代保も、幼児に同行したのであろう。
猿千代は、利家の四男にあたるが、誕生直後には利家と対面しておらず、四男としての認知を受けていたのかどうかははっきりしない。
また、幼名が猿千代と名付けられたことや、千代保が懐妊したのが肥前名護屋城であったことから、秀吉の子供だと疑う伝聞もあるらしいが、これは疑問に感じる。子供が欲しくて仕方のなかった秀吉の子を、利家夫妻が隠すことなど考えられないし、天下の太閤秀吉の子に猿千代と名付けるなどは常識的には考えられない。
猿千代が、父に初めて対面したのは六歳の時で、利家が守山城を訪ねた時のことである。利家が世を去る前年の慶長三年(1598)のことで、まだ幼年の猿千代を大変気に入って大小二刀を与えたという。四男としての認知を受けたのもこの時のことと思われる。
さらに千代保の生んだ男の子は大きな転機を迎える。
利家・まつ夫妻の長男であり、加賀藩初代藩主前田利長には男の子供がいなかったため、猿千代が養子に選ばれたのである。なお幼名は、猿千代から犬千代に改められているが、その時期は確認できなかった。犬千代は、父利家の幼名であることを考えれば、早い段階で利長の後継者に目されていたのかもしれない。
加賀藩の藩主については、前田利家を藩祖として、利長を初代として数えるようであるが、利長を二代藩主とするものもある。
千代保の子供が利長の養子に選ばれる時、他に候補者がいなかったわけではない。
次男利政はすでに独立していたが、利長とは対立することが多かったらしく、関ヶ原の合戦では東軍に付く態度を鮮明にせず、領地の能登国を没収される事態になっていく。
三男知好は側室の子供であるが、この頃すでに出家していて対象から外れたらしい。この人物は後に還俗するが、家督に関して利光(猿千代)と諍いがあったらしい。
五男、六男は、それぞれ別の側室の子供であり当然年齢も下であるが、全く対象外ということではなかったはずである。
そして何よりも、利長はまだ三十八歳の頃のことであり、次男利政に男子は一人だけであったがまだ若く、後継者となる養子を取るのは早すぎるという意見もあったはずである。
これは、全く記録にないことだが、まつの心情を考えれば、有り得るような気がするのである。
しかし、利家死去による混乱が前田家に時間の余裕を与えなかったのである。
家康の動きが激しくなり、前田家に謀反の動きありと糾弾される事態となった。この危機を収束させるために、まつは江戸に向かうこととなり、その見返りのような形で利長の嫡男に秀忠の娘を妻に迎えることになったからである。
おそらく、このような切迫した中で養子が選定されたのであろうが、千代保の子供が幼いながらもすでに大器の片鱗が見えていたからなのかもしれない。六歳の猿千代に対面した利家は、その子供がとても気に入ったと伝えられており、その時に犬千代という名前を与えたのかもしれない。もしそうだとすれば、利家から利長にそれなりの申し渡しがあったのかもしれない。ただ、これらはすべて憶測に過ぎない。
猿千代すなわち犬千代は、幼くして利家によく似た堂々とした体格の持ち主であったらしく、利長が後継に犬千代を選んだ理由の一つに優れた体格の持ち主であることをあげているという。
千代保の子供が晴れて初代藩主利長の養子となり、同時に名前を利光と改め、さらに徳川秀忠の娘珠姫との婚約が決まった。この珠姫とは、秀忠に嫁ぐ千姫の妹である。
珠姫が江戸から金沢へ壮大な行列を引き連れて輿入れしたのは、関ヶ原の合戦後の慶長六年(1601)のことであるが、利光がまだ九歳のことで、珠姫にいたっては三歳であった。
絵に描いたような政略結婚であるが、この婚姻こそが加賀百万石にとって重要な意味を持つ慶事であった。
この頃には、千代保も金沢城東丸に居を構えていて、東丸殿と呼ばれる身分になっていた。
慶長十年(1605)には、利長は四十四歳の若さで隠居し、利光に家督を譲った。豊臣家との関係など、何かと幕府から警戒を持たれていることを懸念して、将軍家の娘婿に当主の座を譲ることを急いだのであろう。
ここに、僅か十三歳で前田家二代藩主利光が誕生したのである。なお、この人は利常として知られているが、利光から利常に改名するのは、寛永六年(1629)のことである。
利光が藩主になるとともに、松平の名字と源の本性が与えられ、外様でありながら準親藩のような地位を獲得していくことになる。
また、ままごと遊びのような形でスタートした利光と珠姫との仲は大変睦まじかったと伝えられていて、珠姫は僅か二十四歳で世を去ることになるが、その間に三男五女の子供を残し、加賀百万石にとって掛け替えのない嫁御となったのである。
利常(利光)も治世に優れ、性格も大胆かつ緻密な人物と伝えられ、割愛するが興味深い逸話を今に残している。
寛永十六年(1639)に家督を譲るも、三代藩主光高は六年後に急死、その跡を継いだ綱紀がまだ三歳であったため、将軍家光の命により綱紀の後見を務め、名君の誉れ高い藩主に育て上げるのである。
利常が世を去ったのは万治元年(1658)のことで、享年六十六歳であった。
実に半世紀にわたって加賀藩政務の陣頭に立ち続けていたのである。この間に、多くの諸制度を築き上げ、何よりも、嫡男光高には家光の養女大姫(水戸徳川家頼房の娘)を正室に迎え、嫡孫綱紀には家光の信頼厚い保科正之の娘摩須姫を正室に迎え入れ、徳川家との関係を盤石なものへとしていったのである。
百万石の実力を、武力に傾くことを避けて文化面の向上に務めたのも利常の功績の一つといえよう。
一方千代保は、慶長十九年(1614)利長の死去により、芳春院まつに替わって人質となるため江戸に向かった。
まつもそうであったが、江戸を自由に離れることが出来ないなどの制約はあるとしても、実質的には加賀藩江戸屋敷での生活であり不足のない生活であったと考えられる。
千代保は若い頃から熱心な日蓮宗徒であったが、この頃にはさらにその活動に務めていたらしい。家康の側室であったお万の方とは特に親しく、共に熱心な日蓮宗徒として甲斐身延山久遠寺の五重の塔など、各地に多くの寄進などを行っている。
一つの逸話がある。人質交代のため芳春院まつと寿福院千代保が江戸で会った時、互いに挨拶さえ交わさなかったというのである。
この他にも、二人の不仲を伝える伝聞があるらしい。もし事実だとすれば、何に原因があったのだろうか。改名させられたとか、利家の寵を受けたことが気に入らなかったとか、あるいは、家督相続に関して何らかの軋轢があったとか等々幾つかの要因は考えられないことはない。
しかし、加賀百万石を支えた程の二人の女性が、挨拶も交わさないほど大人げない行動を取るとは考え難い。単なる伝聞として聞き流したい気持ちである。
千代保は、寛永八年(1631)加賀藩江戸屋敷で世を去る。享年六十二歳。
池上本門寺で荼毘に付された後、金沢でも葬儀が行われ、能登の妙成寺に納骨された。日蓮宗に深く帰依していた千代保の願いからであったという。
徳川の時代に、加賀百万石として燦然と輝き続けた歴史を考える時、千代保という女性の存在を忘れることは出来ないのである。
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