『 不運なり 源氏の大臣 ・ 望月の宴 ( 5 ) 』
源氏の大臣(ゲンジのオトド・源高明)は、式部卿宮(為平親王・高明の娘婿)が東宮にお立ちになれなかったことを、大変ご不満に思われていたに違いない。
宮に対して帝がたいそう御寵愛なさっておられたことを、世間では語り草として取りざたされていたのに、ご期待どおりになれなかったので、宮はすべてこのように不運であるらしい。帝の位と申すものは、容易くおつきになれそうでいて、また難しいことだと思われるものであった。
「式部卿宮がまだ幼少であられた頃の御子の日(ネノヒ・正月最初の子の日に、郊外に出て、小松の根を引き、若菜を摘んで宴を催した。子の日の遊びという。)に、父帝と母后がご一緒に熱心にお世話なさって、宮をお出しなさいましたが、御馬まで召し出されて、御前で鞍など整えさせ、鷹飼や犬飼まで検分なさって、為平親王は弘徽殿の通路からご出立された。
御供には、左近中将重光朝臣、蔵人頭右近中将延光朝臣、式部大輔保光朝臣、中宮権大夫兼通朝臣、兵部大輔兼家朝臣など、実に大勢でいらっしゃった。それらお供の君達(公達)は、中宮(安子)の御兄たちであったり、同じく君達と申しても、延喜帝(醍醐天皇)の皇子の中務宮(代明親王)の御子である。今は皆さま一人前になっておられる殿方である。
立派な御狩装束を着用していて、実に見事な様子であった。
船岡山にて入り乱れて遊ばれる光景はたいそうに見物であった。
后宮(中宮)の女房たちは、車三つ四つにこぼれるばかりに乗って、大きな波模様を摺り染めた裳の袖や裾を簾の下から打ち出しているが、船岡の松の緑も色濃くて、宮の行く末も洋々としてすばらしいものであった」
と、語り続けるのを聞くにつけても、今は、そうした昔のすばらしいことなどが思い出される。
「四の宮(為平親王)は帝に就かれるお方だと思っていたが、一体どういうことがあったのか。源氏の大臣(源高明)の御婿になられたが、それが事を違えることになったようだ」などと、世間の人は無責任に、いいにくそうに取沙汰しているようである。
故村上天皇の中宮安子さま出生の皇子には、憲平・為平・守平の三人がおいででございます。村上天皇ご逝去により、立太子されていた憲平親王が冷泉天皇として即位なさいましたが、立太子されたのは三皇子の一番下の守平親王でございました。この時九歳でございました。
為平親王を娘婿に迎えられていた源氏の大臣源高明殿ばかりでなく、すでに十六歳になられていた為平親王を飛ばして弟君が立太子されたことには、世間の多くの人が驚いたのも、無理のないことでございましょう。
源高明殿は醍醐天皇の皇子であり、源氏の姓を賜った賜姓皇族であられます。また、冷泉天皇の父君である故村上天皇の異母兄であられます。そのお血筋や優れた御見識は、世間で高い評価を受けておりました。
その高明殿の娘婿が、近い将来皇位に就かれた時には、高明殿、そして醍醐源氏の権力は突出したものになることは想像に難くありません。
おそらく、それを懸念された方々が暗躍されたであろうことは、これも、十分想像できることでございます。
この立太子問題は、源高明殿にとって、不運の始まりだったのでしょうか。
そして、この御方は、我が殿(道長)とは御関係深いお方でもあるのです。
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