『 故里となりにし都よ 』
作者 奈良の帝
「 奈良の帝の御歌 」
故里と なりにし奈良の 都にも
色はかはらず 花は咲きけり
( 巻第二 春歌下 NO.90 )
ふるさとと なりにしならの みやこにも
いろはかはらず はなはさきけり
☆ 作者は、第五十一代平城天皇のこと。生没年は ( 774 - 824 ) 、在位期間は ( 806 - 809 )
☆ 歌意は、「 荒れ果てて旧都となってしまった 奈良の都(平城京)にも 桜の花だけは 変わることなく咲いてくれたことよ」といったものでしょう。
☆ 平城天皇は桓武天皇の第一皇子です。
785 年に十二歳で立太子。 806 年に桓武天皇の崩御により、践祚・即位。
この部分だけを見ますと、順調な代替わりに見えますが、実態は、平安時代最初の騒乱といえるほどの緊迫した時期であり、その原因の大きな一つは、平城天皇自身にあったともいえます。
その原因とは、皇太子時代から妃の母であり夫のある薬子を寵愛したことです。醜聞が広がり、父天皇との間も険悪な状態になっていきました。やがては、薬子の変(平城太上天皇の変)に至りますが、その経緯は割愛させていただきます。
☆ 809 年 4 月、もともと病弱であった平城天皇は、皇太弟(嵯峨天皇)に譲位しました。わずか三年での譲位は、病気が原因とされているようですが、薬子との関係をはじめとした宮廷内の対立が激しい状態でもあったようです。
同年 12 月には、太上天皇となった作者は、旧都である奈良の平城京に移ります。その行動は、旧都に憧れたというより、先帝である父桓武天皇への反意のようなものがあったようです。さらに、公卿たちに奈良への遷都を働きかけたこともあるようで、嵯峨天皇との対立が深まり、戦乱さえ懸念される状態になったようです。こうした宮廷の危機を「薬子の変」と呼ばれてきましたが、最近は「平城太上天皇の変」と呼ばれることが多いようです。それが実態と思われますが、平城太上天皇の名前を出すことが憚られたためという意見もあります。
☆ いずれにしても、この変は嵯峨天皇側の素早い行動で鎮圧されました。
平城太上天皇は出家、皇子のうち、皇太子に就いていた高岳親王は廃太子、第一皇子の阿保親王は太宰権師に左遷されています。後には三人とも復権を果たしていますが、阿保親王は子息の行平・業平らを臣籍降下させ在原姓を賜与されています。これにより、在原業平というわが国歴史上トップクラスの粋人を生み出していますが、子孫は貴族としては余り恵まれていません。
廃太子となった高岳親王は、復権されたあと仏門に入り、空海の十大弟子の一人と呼ばれることになります。その後も、なおも仏道を求め、老齢で唐に渡り、さらに天竺に向かい、行方不明になっています。
☆ さて、作者はその後も平城京に住み続けたようです。太上天皇の称号もそのままで、嵯峨天皇との関係も、小康を保ち続けられたようで、824 年に崩御しました。
掲題の歌は、おそらく平城京で詠まれたものなのでしょうが、その心の奥にあるものは、やはり、棄ててきたはずの平安京への切ない思いが込められているように思えてならないのです。
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