そのかみの 玉のかざしを うち返し
今は衣の 裏を頼まん
作者 東三条院
( NO.1712 巻第十八 雑歌下 )
そのかみの たまのかざしを うちかえし
いまはころもの うらをたのまん
☆ 作者 東三条院とは、円融天皇の女御藤原詮子(センシ)のことである。( 962 - 1002 ) 行年四十歳(旧暦で計算)。
☆ 歌意は、「 その昔の 玉の髪飾りを お返しいたします 今は 衣の裏の玉を 頼みとしましょう (「救われることを気づかない者が、仏の教えで悟りを得ることが出来る」といった仏道の教えを引いている。)」といったものであろう。
☆ この和歌には、前書き(詞書)がある。
「 后に立ち給ひける時、冷泉院の后の宮の御額を奉り給へりけるを、出家の時、返し奉り給ふとて 」とある。
つまり、作者が円融院の后になった時に、冷泉院の后(作者の姉、超子)がつけていた髪飾りを頂戴したようで、それを、自分が出家するにあたって、お返しします、ということらしい。
和歌そのものや、実姉とのやりとりが特別秀逸ということではないが、この姉妹は、それぞれ天皇の后であり、姉は三条天皇の生母であり、作者は一条天皇の生母だと考えると、この和歌のやりとりも特別な重みを感じさせる。
☆ 作者の父は、藤原氏の長者となる、摂政・関白・太政大臣藤原兼家である。母は、正室の時姫であるが、同母の兄弟姉妹が五人おり、いずれも歴史上の重要な役割を果たした人たちと言えるのである。男子の道隆・道兼・道長の三人は、いずれも貴族政治の頂点に立っており、女子は、姉の超子は冷泉天皇に入内して、三条天皇の生母となっている。妹である作者・詮子は円融天皇に入内して、一条天皇の生母になっているのである。
この五人の兄弟姉妹が活躍時代は、平安王朝文化、そして藤原氏が最盛期に至ろうとしている時期と言える。
☆ この五人の誰もが、アマチュア歴史ファンの一人としては魅力あふれる人物であるが、詳細を述べるのは割愛させていただきたい。
ただ、作者について若干触れさせていただくすれば、歴史の流れという観点から見れば、作者・詮子 の活躍は、986 年に、わが子の一条天皇が即位した後から存在感を増している。
991 年に夫の円融院の崩御後に出家し、自邸に因んで「東三条院」を称した。これが、わが国における女院号の最初である。
出家後は、むしろ政治向きの発言力が増えているようで、一説によれば、道長を支援することが多く、一条天皇の中宮彰子の実現にも尽力したとされている。
☆ このように、平安王朝文化、あるいは藤原氏による摂関政治全盛に、少なからぬ影響を与えた女性といえるが、それにしては、歴史上の著名度が少々低いように思われてならない。
☆ ☆ ☆
妙法蓮華経五百弟子授記品第八の衣裏宝珠ですね。
栄花物語にも出て来ますので、歴史物の歌として興味深いですね。
そのかみは、その昔と髪の掛詞と存じます。
疫癘と猛暑には、十分ご注意下さい。私は生中ジョッキが飲めないので、寂しい限りです。
又拝見いたします。
拙句
珠のくし断捨離筆頭かみの秋
いつもご教示いただきありがとうございます。
また、貴ブログでも勉強させていただいております。
なかなか、日常が戻ってこない日々ですが、くれぐれもご自愛くださいませ。
ありがとうございました。