『 こほれる涙 』
雪のうちに 春は来にけり 鶯の
こほれる涙 今やとくらむ
作者 二条の后
( 巻第一 春歌上 NO.4 )
ゆきのうちに はるはきにけり うぐひすの
こほれるなみだ いまやとくらむ
* 歌意は、「 雪がまだ積もっているうちに 春がやって来た 春を待っていた鶯の 凍っていた涙も 今こそ解けて 鳴き声を聞かせてくれるだろう 」と、春の訪れを喜んだ和歌と、素直に受け取りたいと思います。
* この和歌の前書き(詞書)には、「 二条の后の春のはじめの御歌 」とあります。古今集では、天皇・皇后の御歌については、作者名は書かず、このように題の中に示すことになっているようです。
この二条の后とは、清和天皇のニ女御・中宮となった、藤原高子のことです。
父は、藤原長良、母は藤原乙春です。長良は、藤原北家の勢力を高めた藤原冬嗣の長男ですから、高子は北家嫡流の姫ということになります。また、長良には、良房・良相・順子という同母の弟・妹がおりますが、高子にとって叔父・叔母に当たるこれらの人たちは、いずれも重要な後援者であったようです。
* 高子の生年は 842 年です。
最初は、叔母に当たる順子の邸に出仕したようです。時期は不明ですが、順子は高子より三十三歳年上ですが、仁明天皇の皇太子時代に出仕し寵愛を受け、827 年に道康親王(のちの文徳天皇)を儲け、833 年に天皇に即位すると女御になっています。
仁明天皇が崩御し、文徳天皇が即位するのは、850 年のことですから、高子が出仕したのは、順子が皇太后となった 854 年の頃かもしれません。
* 858 年 8 月、文徳天皇が崩御しました。行年三十二歳でした。順子は五十歳になった頃で、夫に続き我が子にまで先立たれたのは、いくらやんごとない世界のことだとはいえ、その失意の気持ちに変わりはなかったことでしょう。
ただ、その後継に立ったのは、まだ九歳の文徳天皇の皇子でした。幼帝清和天皇の誕生ですが、そこに至るには激しい政争が垣間見られ、藤原北家の影響力が際立っていたと考えられます。
そうした中、高子は、清和天皇即位に伴う大嘗祭において、五節の舞姫を勤めています。高子が十七歳の頃ですが、公卿の娘が五節の舞姫を勤めるということは、将来の妃候補と考えられていました。ただ、この時、高子の父長良は二年ほど前に亡くなっていて、厳密には公卿の娘ではない状況にありましたが、おそらく、兄の基経と同様に、叔父の良房の養女になっていたと考えられます。また、清和天皇の祖母に当たる順子の強い支援があったかもしれません。
* 高子が正式に入内したのは、清和天皇の元服二年後の 866 年のことで、高子は二十五歳になっていて、かなり遅い入内でした。清和天皇はこの年で十七歳ですから、かなりの姉さん女房でした。
入内が遅れた理由としては、清和天皇がまだ幼少であったためということもあったかもしれませんが、高子の父のもう一人の同母弟である良相の娘は 864 年に入内していますので、後述するような素行面の理由があったのかもしれません。
* 高子は、遅い入内でしたが、869 年に貞明親王を儲け、876 年に陽成天皇として即位し、皇太夫人となり、後には、従一位そして皇太后の尊称を与えられるなど、最高位にまで上り詰めました。
しかし、その一方で、時の権力者である同母兄の摂政藤原基経とはそりが合わず、事ごとに対立したようです。
884 年、陽成天皇が在位八年、まだ十六歳でありながら退位に追い込まれました。乳母子を殺害したことで帝德に欠けるとされたようですが、粗暴な振る舞いもあったようですが政争に敗れたのでしょう。
後継の天皇も、陽成天皇の同母弟の貞保親王がおりましたが、宮廷は陽成・高子の排除に動き、仁明天皇の皇子である五十五歳の時康親王を光孝天皇として即位させ、三年後に崩御すると臣籍降下していたその御子を皇室に戻してまで即位させました。宇多天皇の誕生で、皇統は大きく動いたことになります。
* この後の高子の情報は極端に少なくなります。
896 年、すでに宇多天皇の御代になってましたが、高子自ら建立していた東光寺の座主との密通が疑われて、皇太后の尊称を廃されています。高子五十五歳の頃の事です。果たしてどれほどの大事であったのかはよく分らないのですが、復位されるのは、高子の死後三十余年後の 943 年のことで、朱雀天皇によってでした。
* 高子は、皇太后の尊称を剥奪された十四年後の 910 年に崩御しました。行年六十九歳でした。
高子という女性については、古来、「伊勢物語」などを通じて、在原業平との熱愛が様々に語られてきているようです。入内が遅れた原因に、この事があるともいわれていたようです。さらには、晩年においても密通事件があり、高子という女性が、ややもすると、色好みの女性として語られることが少なくないようです。
現代に至っても、調べてはいませんが、高子を題材にした小説などはかなりあるはずです。
高子の叔母に当たる順子について、「容姿が美しい穏やかな女性」と伝えられていますので、高子もとても魅力的な女性であったことは想像に難くありません。
* 高子は、わが国の歴史上の人物としては、注目度の高い女性といえるでしょう。
しかし、ややもすると、在原業平との関係が中心になりがちなことが残念です。現代伝えられている資料からは、その部分を軽視することは出来ませんが、高子は、平安時代初頭の皇位をめぐる激しい時代を、五十年ほどに渡ってその中心近くで栄枯盛衰を体験しているとも言えるのです。
例えば、藤原北家が宮廷政治の頂点に昇っていく過程にあって、北家嫡流の娘として生れ天皇のもとに嫁ぎ後継天皇を儲けながら、北家勢力により没落させられていく経緯などは、まだまだ語られて良いのではないでしょうか。
いずれにしても、二条の后藤原高子という女性は、歴史ファンにとっては超一流の存在ではないでしょうか。
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