第一章 萩の咲く村 ( 3 )
史郎に不幸が襲った。
史郎が中学に上がる直前にお吉婆さんが亡くなったのである。
行年八十歳だった。
当時としては決して早い死という年齢ではないが、お吉婆さんはそれまで病気などしたことがなく、史郎にとってはもちろんのこと、周囲の人にとっても予期せぬ死だった。
倒れる日の朝も、史郎をいつもと同じように送り出したあと、昼過ぎに社員の昼食の世話をしている途中で気分が悪いと言いだし、そのまま倒れ込んだのである。
連絡を受けて史郎が学校から帰ってきた時には、すでに入院した後だった。
史郎は学校を休んで病室で付き添ったが、一度も意識を回復することなく三日目に息を引き取った。
この時史郎は、人は死ぬものだということを初めて知った。
父も母も史郎が物心つくまでに亡くなっていたし、その後は親しい人の死に直面することがなかった。
史郎にとって、お吉婆さんは最初から居る存在だったし、いつまでも近くに居てくれるものだと思っていた。いや、思っていたというより、そういう認識さえ持っていなかった。
しかし、朝は元気だった人が、昼には死んでゆく人に変わることに大きな衝撃を受けた。あれほど史郎を護っていてくれた人が、一言の言葉を残すことなく死んでゆくことに限りない不合理を感じていた。
まだ少年だった史郎は、悲しみという感情よりも、誰にぶつけたらいいのか分からない激しい怒りを抱いていた。
お吉婆さんの死によって、史郎の生活を支えてくれる人がいなくなった。
池之内家の当主の惣太郎や千草は、母屋の方に移るように勧めたが、史郎は今まで通りの部屋を使うと言い張った。
かねてから母屋の方には行かないように躾けられていたこともあるが、部屋を移ることがお吉婆さんを捨てていくような気がしたからである。
これまでは二部屋使っていたが一つは空けることにして、お吉婆さんが使っていた部屋に荷物をまとめた。
食事は母屋の人たちと一緒にすることになったので、千草と顔を合わせる機会が増えたのは嬉しかったが、当主の惣太郎や史郎にあまり好意を持っていない女中のナカも一緒なのが気重だった。
学校などの費用も必要な時にナカに頼んでおけば、惣太郎から貰っておいてくれるようになったが、史郎にはそれが大変辛かった。
そのため中学生になってからは、修学旅行を含めて学校からの旅行には一度も参加していなかった。学校に収めるお金のことを言いだしにくかったからである。
千草がそのことに気付き惣太郎を強くなじったことがあるが、逆に史郎が惣太郎からひどく叱られた。史郎にそのような肩身の狭い思いをさせるつもりはなく、むしろ池之内家の恥をさらされた思いだったのである。
史郎と千草の関係も、お互いの成長とともに距離のあるものに変わっていった。
史郎自身も幼年期から少年期へと移行し自我が大きく育っていっていたが、四歳年上の千草の成長はさらに激しく変貌するものだった。
そして、千草にも大きな試練の時がやってきていた。
千草が高校に入って間もなく、惣太郎が後妻を迎えたのである。
惣太郎が妻を亡くしたのは、千草が小学校に入る前である。それから十年の月日が流れていた。
その間に惣太郎に浮いた話もあったし再婚の話もあった。それにもかかわらず独り身を続けてきたのは、やはり千草への配慮からだった。
若くして逝った妻への想いは、惣太郎にとっても軽いものではなかったが、千草の母への想いが自分よりはるかに重いことを承知していた。
再婚相手は、五年来の交際がある三十代の女性で相手の立場や年齢への配慮もあったが、惣太郎自身が将来への不安を感じだしていたこともあった。
それと、千草が中学を卒業したことも一つの決断材料となった。父の再婚という娘にとって関わりたくない現実を、それなりに理解できる年齢になったと考えたからである。
父の再婚に千草は積極的に反対はしなかった。しかし、受けた衝撃は小さなものではなかった。
新しく母となった人は決して悪い人ではなく、よく気がつく如才のない人だった。千草に対しても、母というより姉として接すると言い、その努力をしてくれていることは十分に伝わっていた。
しかし、父や新しい母となった人がいくら配慮してくれても、亡くなった母を否定されているような思いを千草はどうしても消し去ることができなかった。
惣太郎が考えたように、千草も男と女のことについてそれなりの理解を示せる年齢になっていたが、それは同時に、多感な青春の、もっとも傷つきやすい年代でもあった。
千草の変化は帰宅時間が遅くなることから始まった。
史郎と話し合う時間も少なくなっていった。
史郎の方にも、千草が眩しいような存在に変化していっていることを認識していて、幼い時のように接することができなくなっていたことにも原因していた。
再婚一年余りで、新しい母に男の子が誕生した。
千草にとっては歳の離れた弟になるが、そのような実感は全くなく、今度は父と新しい母に史郎を否定されているような気がしていた。
そして、その赤ん坊が日ごとに可愛く育っていくのを見ながら、千草は家を出る決意を固めていた。
千草が実際に生家を離れたのは、史郎が中学三年になった年である。大学入学とともに京都で下宿することになったからである。
この村から京都まで通うのはとても無理で、京都の大学を選んだ以上下宿生活を避けることはできなかった。
千草が京都の大学に進むことを惣太郎が反対していたのは、一人娘を家から出したくなかったからである。
池之内家は今もこの村きっての名家であることに変わりがなかった。
家業が酒造業から問屋業に変わっていたし、資産も戦前に比べると少なくなっているが、名家としての地位に変わりなかった。
いずれ千草に婿を取って継がせるというのが、惣太郎の変わらぬ願いだった。そのためにも、千草には自宅から通える大学に進ませかったのである。
千草が京都の大学を選んだことを史郎は直接聞いていたし、家を離れることも承知していた。
しかし、現実に千草がいなくなった淋しさは想像以上のものだった。そして、父との確執を超えてまで行動する千草の姿に、自分もやがてこの家を出てゆかねばならないことを教えられていた。
史郎は中学一年の終わり頃から新聞配達のアルバイトをしていた。
惣太郎は、史郎が大学を卒業するまでは責任を持つと約束してくれていたが、こまごまとしたお金を請求するのが辛くて働きだしたのである。そして、働こうと考えた動機の中には、漠然とだが自分もやがて千草の後を追うことになるという予感のようなものもあった。
史郎の毎日は、朝刊を配達することから始まり、朝食のあと学校へ行った。夕方は食事の時間に合わせて家に帰り、食事のあとは自分の部屋に籠った。
その部屋は、史郎を赤ん坊の時から育ててくれたお吉婆さんが何十年も暮らした部屋である。ラジオしかないが、史郎はこの部屋が好きなのだ。
一人寝転がってラジオを聴いていると、お吉婆さんが横にいるような錯覚に陥ることが時々あった。錯覚から覚めた時の淋しさはたまらないが、胸が詰まるような懐かしさが忘れられず、自分の方から錯覚を求めようとしたこともよくあった。
朝刊の配達は五時に始まるので、朝は四時には起きなくてはならなかった。そのためもあって、千草が京都へ行ってからは新聞配達店の二階に泊まり込むことが多くなっていた。
千草がいなくなった池之内家は、史郎にとって敷居の高い所になりつつあった。
しかし、中学生の史郎が生きていくためには、この家の援助を受けるしか仕方がなかった。
この頃の史郎の世話を一番してくれたのは、母屋の女中のナカである。
新しく嫁いできた女性の存在は、ナカにとっても深刻な問題だった。史郎に対する態度が親切にっていったのは、一種の防衛本能のようなものなのだろうが、史郎にはありがたい変化だった。
生活の全てを保障してくれる池之内家は何より大切な存在ではあったが、最近はどこか屈辱的なものを感じ始めていただけに、ナカの変化はありがたかった。
史郎は中学三年になった時には高校進学を志望していた。
千草も通っていたこの地区で唯一の公立高校を目標にしていた。
史郎は勉強が好きな方ではなく、自宅で宿題以外の勉強をすることなどめったになかったが、学校の成績は悪くなかった。千草の成績が非常に良かったので比べられると見劣りしたが、公立高校を目指すのに十分な学力はあった。
しかし、史郎が自信を持っているのは体力の方だった。両親ともに若くして病死していたが、史郎には恵まれた体格を遺してくれていた。
小学生の頃には、両親がいないことや、お吉婆さんと歩いていたことなどをはやし立てる子供たちもいたが、そのような時には相手構わずかかっていった。自分もよく怪我をしていたが、相手を傷つけることも少なくなかった。
時には傷を負った子供の親が怒鳴り込んでくることもあったが、何の言い訳もしない史郎を叱るようなことは、お吉婆さんには一度もなかった。乱暴な振る舞いも多かったが、本来優しい性格であることを知っていたし、年下の子を傷つけるようなことは決してしなかったからである。
お吉婆さんは、怒鳴り込んできた相手の親を追い返すだけでなく、その子の史郎に対する悪口を詫びに来ないと許さないと息巻き、詫びに来させたことも何度かあった。
お吉婆さんの向こう意気の強さも大変なものだが、その背景には、この村における池之内家の存在の大きさも影響していた。
小学生の頃まではよく喧嘩をしていた史郎も、中学二年の頃からは喧嘩を仕掛けてくる者がいなくなっていた。年齢に比べて身体が大きく腕っぷしも強かったが、幼い頃から喧嘩を始めると自分が動けなくなるまで戦い続ける凄さがあった。
中学一年の終わり頃のことだが、千草をからかった高校生と喧嘩になり、互いに傷つきながら戦い続け史郎が動けなくなってしまったことがあった。
その時などは、次の日も、その次の日も、その高校生が学校から出てくるのを待ち伏せしていて取っ組み合う凄さだった。
相手は隣町の有力者の息子で、柔道をやっていたこともあり相手にかなり分がある情勢だったが、史郎は絶対に戦いを止めようとはしなかった。続けて動けないようにされながら四日目も待ち伏せしている史郎の姿を見て、とうとう相手の高校生は逃げ出してしまった。
この時は、相手の親が池之内の当主に仲直りのとりなしを頼みにきて、ようやく決着したのである。
この喧嘩はちょっとした評判になり、これ以後は史郎に積極的に喧嘩を仕掛けてくる者はいなくなったのである。
中学三年になると、すぐに進路に関する保護者懇談会があった。
中学になってからは保護者会などに誰も出席することがなかったから、担任の先生は自宅に惣太郎を訪ねて高校進学について確認してくれた。
この時点でも、史郎は千草が卒業した高校に進むつもりだったし、惣太郎も承知していることを明言していた。
だが、その考えが少しずつ揺らいでいた。
当主の惣太郎の考えに変化はなく、史郎にも直接高校進学を勧めてくれていたが、千草のいない家から高校に通うことに意味があるとは思えなくなっていたのである。
「姉さんに、相談したい・・・」
千草に会いたい気持ちが日増しに大きくなっていた。
しかし、千草は帰って来なかった。
三度ばかり手紙をもらっていたので元気らしいことは分かっていたが、五月の連休にも帰らず、夏休みに入っても帰って来なかった。
惣太郎も頻りに帰郷を促していたが、とうとうお盆にも帰って来なかった。
両親には、京都の夏の行事を見たいことやゼミがあるからということで、お盆が過ぎてから帰ると連絡してきていた。
そのことでも千草と父親との間で激しいやりとりがあった。
この地で暮らす人々にとって、お盆は特別に重要な行事だった。
千草にとっても実の母親の御霊を迎える大事な時なのに、どのような予定があるとしても帰って来ないというのはわがまますぎると史郎も思っていた。
史郎の会いたい気持ちは膨れ上がり、怒りのようなものが込み上げかけていた。
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