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志織は、登場人物の考え方や人柄などについて牧村に質問することがよくあった。
その対象は、主人公ということもあるが、たいていは脇役であり、それもほんの少しだけ顔をだす人物の場合が多かった。当初は、その選定に牧村は戸惑ったが、次第に志織が興味を持つ人物が予想されるようになり、時には作品のストーリーから離れて、その人物の将来の姿を二人で作り上げて行くようなこともした。
志織には、牧村とこのような話をする以前からかなり興味を抱いていたらしい人物が、多くの作品に存在しているようであった。志織が質問するまったくの端役に過ぎない人物について、牧村も同じような興味を感じていて熱く語り続けると、彼女は何度も頷きながら、悲劇的なストーリーに展開する場合には涙を浮かべることさえあった。
最初の頃は有名な作品が話題となっていたが、それでも志織が話題にする登場人物を牧村が思いだせないことがあった。そのようなことが三度ばかりあり、次の機会に話題にする本を何冊か決めて、それを借りて行くことにした。
絵本の場合はその場で見て、すぐに感想を述べ合う方がむしろ新鮮な驚きがあり楽しかったが、小説となると、いくら以前に読んだことがあるものでも、かなり真剣に読み直さなくてはならなかった。
牧村は高校時代以来の読書量をこなすようになっていった。志織から何冊かの本を借りて帰り、まるで先生から与えられた宿題を解き明かすように精読した。ただ、子供の頃と大きく違うことは、義務感など全くなく、牧村の大きな楽しみになっていった。
読み終えた小説について、牧村の方から登場人物についての考え方などを訪ねることもあったが、志織は短い感想を述べるだけで、積極的には話したがらなかった。
しかしそれは、志織が自分の意見を持っていないということではなく、牧村の考え方と一致しない場合には、簡単に妥協することはなく、何度も意見を戦わすことも少なくなかった。
意見を戦わすというのは少々オーバーな表現だが、ある時牧村が自分の考えを押さえて志織の考え方に同調させると、それを敏感に察知して何とも寂しそうな表情を見せたことがあった。それ以来、牧村は安易な同調はしないようにしていた。
牧村は、志織と語り合っている時間が、日常と切り離されているような錯覚を感じることがあった。まるで切り離された別の世界にでもいるような、不思議な時間帯に入っているような感覚がするのである。
そして、いつの日にか、日常の時間と別の世界と感じられる時間とが逆転しないかと考え始めていた。
そのような考えが強まっていたある日に、志織がふと漏らした言葉が、牧村の胸に迫った。
「わたくしは、ほとんど社会に出ていませんので、この人の本当の苦しみは分かっていないのだと思います・・・」
それは、ある登場人物の生き方について二人の意見が対立している時のことであった。そして、その時見せた志織の寂しそうな表情は、牧村には限りなく悲しげな表情として伝わってきた。
牧村は、志織を力いっぱい抱きしめたい衝動にかられ、必死に耐えていた。
これまで牧村は、何の不自由もない生活を送っている令嬢と思ってきていたが、この時の志織の表情はあまりにも寂しげで、一人で背負って行くには重すぎる何かを持っているように思われた。
志織は幼い頃から病弱のようであった。特に大きな病気をしたということではないようだが、学校へも満足に通えない時期があったそうである。それは小学生の時に母を亡くした後のことで、身体的な健康だけでなく精神面で不安定な状態が続いたそうである。
もっとも、これらの話は牧村の前任者が桜木製作所の社員から聞いた話として、引継の時に教えられたことで、その信憑性については確認できていなかった。
牧村が担当するようになってからの志織は、深窓の佳人と表現される典型的な人のように見えた。確かに、健康的なというイメージではなかったが、病弱であるとか、性格的に暗いものを引きずっているようなものは見受けられなかった。
牧村と会っている時の志織の身のこなしは、淑やかではあるがきびきびとしていて、考え方は大変シャープで真っ直ぐに物事を見つめる女性であった。
哀しい話には涙ぐみ、嬉しい時には実に明るい笑顔を見せる女性であった。その率直な表情や若々しい考え方は、少女のようなものが感じられ、とても一回りも年上の女性とは思えなかった。
小説などの登場人物に寄せる関心は、社会で活動する機会を持てなかった自分を置き換えているのだと牧村は思った。そして、自分がこの人の力になりたいと思った。小説に登場してくる人物の喜怒哀楽ではなく、この人の喜怒哀楽をそのまま受け取って、心の奥に秘められている寂しさや悲しみをたとえ少しでも和らげられるように力になりたい、との思いが大きく膨らんでいっていた。
志織は、登場人物の考え方や人柄などについて牧村に質問することがよくあった。
その対象は、主人公ということもあるが、たいていは脇役であり、それもほんの少しだけ顔をだす人物の場合が多かった。当初は、その選定に牧村は戸惑ったが、次第に志織が興味を持つ人物が予想されるようになり、時には作品のストーリーから離れて、その人物の将来の姿を二人で作り上げて行くようなこともした。
志織には、牧村とこのような話をする以前からかなり興味を抱いていたらしい人物が、多くの作品に存在しているようであった。志織が質問するまったくの端役に過ぎない人物について、牧村も同じような興味を感じていて熱く語り続けると、彼女は何度も頷きながら、悲劇的なストーリーに展開する場合には涙を浮かべることさえあった。
最初の頃は有名な作品が話題となっていたが、それでも志織が話題にする登場人物を牧村が思いだせないことがあった。そのようなことが三度ばかりあり、次の機会に話題にする本を何冊か決めて、それを借りて行くことにした。
絵本の場合はその場で見て、すぐに感想を述べ合う方がむしろ新鮮な驚きがあり楽しかったが、小説となると、いくら以前に読んだことがあるものでも、かなり真剣に読み直さなくてはならなかった。
牧村は高校時代以来の読書量をこなすようになっていった。志織から何冊かの本を借りて帰り、まるで先生から与えられた宿題を解き明かすように精読した。ただ、子供の頃と大きく違うことは、義務感など全くなく、牧村の大きな楽しみになっていった。
読み終えた小説について、牧村の方から登場人物についての考え方などを訪ねることもあったが、志織は短い感想を述べるだけで、積極的には話したがらなかった。
しかしそれは、志織が自分の意見を持っていないということではなく、牧村の考え方と一致しない場合には、簡単に妥協することはなく、何度も意見を戦わすことも少なくなかった。
意見を戦わすというのは少々オーバーな表現だが、ある時牧村が自分の考えを押さえて志織の考え方に同調させると、それを敏感に察知して何とも寂しそうな表情を見せたことがあった。それ以来、牧村は安易な同調はしないようにしていた。
牧村は、志織と語り合っている時間が、日常と切り離されているような錯覚を感じることがあった。まるで切り離された別の世界にでもいるような、不思議な時間帯に入っているような感覚がするのである。
そして、いつの日にか、日常の時間と別の世界と感じられる時間とが逆転しないかと考え始めていた。
そのような考えが強まっていたある日に、志織がふと漏らした言葉が、牧村の胸に迫った。
「わたくしは、ほとんど社会に出ていませんので、この人の本当の苦しみは分かっていないのだと思います・・・」
それは、ある登場人物の生き方について二人の意見が対立している時のことであった。そして、その時見せた志織の寂しそうな表情は、牧村には限りなく悲しげな表情として伝わってきた。
牧村は、志織を力いっぱい抱きしめたい衝動にかられ、必死に耐えていた。
これまで牧村は、何の不自由もない生活を送っている令嬢と思ってきていたが、この時の志織の表情はあまりにも寂しげで、一人で背負って行くには重すぎる何かを持っているように思われた。
志織は幼い頃から病弱のようであった。特に大きな病気をしたということではないようだが、学校へも満足に通えない時期があったそうである。それは小学生の時に母を亡くした後のことで、身体的な健康だけでなく精神面で不安定な状態が続いたそうである。
もっとも、これらの話は牧村の前任者が桜木製作所の社員から聞いた話として、引継の時に教えられたことで、その信憑性については確認できていなかった。
牧村が担当するようになってからの志織は、深窓の佳人と表現される典型的な人のように見えた。確かに、健康的なというイメージではなかったが、病弱であるとか、性格的に暗いものを引きずっているようなものは見受けられなかった。
牧村と会っている時の志織の身のこなしは、淑やかではあるがきびきびとしていて、考え方は大変シャープで真っ直ぐに物事を見つめる女性であった。
哀しい話には涙ぐみ、嬉しい時には実に明るい笑顔を見せる女性であった。その率直な表情や若々しい考え方は、少女のようなものが感じられ、とても一回りも年上の女性とは思えなかった。
小説などの登場人物に寄せる関心は、社会で活動する機会を持てなかった自分を置き換えているのだと牧村は思った。そして、自分がこの人の力になりたいと思った。小説に登場してくる人物の喜怒哀楽ではなく、この人の喜怒哀楽をそのまま受け取って、心の奥に秘められている寂しさや悲しみをたとえ少しでも和らげられるように力になりたい、との思いが大きく膨らんでいっていた。
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