『 気持ちも黄色に 』
新型コロナウイルス
「自衛を心がけながら ふつうの生活を」が
現在の私の立ち位置だが
大阪モデルが 黄色になった
わが県も増えていて 他県のことを云々できる状態ではなく
私の気持ちも すこし黄色になってきた感じ
さて・・・
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方々に ひき別れつつ あやめ草
あらぬねをやは かけんと思ひし
作 者 陽明門院
( No.1240 巻第十四 恋歌四 )
かたがたに ひきわかれつつ あやめくさ
あらぬねをやは かけんとおもひし
* 作者 陽明門院(ヨウメイモンイン)は、後に後朱雀天皇の皇后となる禎子内親王(テイシナイシンノウ)である。( 1013 - 1094 )行年八十二歳。
* 歌意は、「 お互いに 別々の所に別れ続けていて 端午の節句というい大切な日に あやめ草の音ではなく 泣く音を かけようと思ったのでしょうか 」といった切ないものであろう。
この和歌には前書き(詞書)があり、「 内に久しく参り給わざりけるころ、五月五日、後朱雀院御返事に 」とある。
なお、後朱雀院(第六十九代 後朱雀天皇)の贈歌は、「 もろともに かけしあやめを ひき別れ さらに恋路に まどふころかな (栄花物語)」とされている。
情熱的な贈答歌と言えないこともないが、掛詞などの技巧も多く、個人的にはそれほど優れた歌とは思えない。
ただ、後述させていただくが、この贈答歌が交わされた背景を思うと、時代の流れの一端が詠み込まれているといっても、決して大げさではないと思うのである。
* 陽明門院 禎子内親王は、第六十七代三条天皇の第三皇女として誕生した。母は、藤原氏の絶頂期を築いた藤原道長の次女である皇后妍子(ケンシ)である。平安王朝が最も豪華絢爛な時代を迎えている中での誕生であった。
しかし、父の三条天皇は、禎子内親王が五歳の頃に崩御しており、頼りの道長も、皇子の誕生を期待していただけに妍子・禎子親子には冷たかったようである。
* ただ、禎子内親王の皇室における処遇は順調で、誕生の半年後には内親王の宣下を受け、1015年に三歳で着袴の儀が行われたが、翌1016年に父三条天皇は譲位することになり、摂関家の頂点にある道長との軋轢が最大の理由と考えられる。そして、三条天皇は翌年崩御する。
おそらく、当時の道長にとっての関心事は、ようやく即位させることができた長女の彰子出自の後一条天皇を後見することであったと考えられる。何せ、後一条天皇は満年齢でいえば七歳少々の天皇なのである。禎子内親王が先帝の皇女であり、しかも道長の孫にあたる関係であっても、関心は薄かったようである。
* 三条帝の崩御を受けて傷心の妍子・禎子親子を支援したのは天皇の生母となった彰子であった。彰子は妍子の姉であり一条天皇の中宮(皇后)であるが1011年に一条天皇が崩御した後も出家することなく皇子たちの養育に当たったのは、道長の意向もあって次期天皇の実現を目指したことと思われる。彰子が出家して上東門院となるのは1026年のことであるが、この間に後一条天皇を即位させ、道長が衰えを見せたあとは、その後を継いだ男兄弟とは器の違いを見せ、御堂関白家の柱として存在し続けたようである。
* 1027年、禎子は皇太子敦良親王のもとに入内した。叔母にあたる皇太子妃嬉子の死後、その後継候補が多くある中で選ばれたのは、禎子の器量が評価されたと同時に道長の推薦もあったようで、この頃には道長も禎子を認めていたのであろう。
禎子は良子内親王(伊勢斎宮)、娟子内親王(賀茂斎院)、尊仁親王(後の後三条天皇)を儲ける。このうち、二人の内親王は、幼くして同時に斎宮に選ばれているが、これには、斎宮をめぐって事件があり立て直しのために二人が同時に選ばれたのには、内裏内の人望が高かったからとも考えられる。
* 1036年、夫の敦良親王は後朱雀天皇として即位。翌年二月に禎子は中宮に冊立されるが、翌月には兄藤原頼通の養女が中宮となり、禎子は皇后宮となる。中宮と皇后は同格とされるが、むしろ中宮の方が上位と考えられていたようである。ちょうど、一条天皇の御代、彰子が中宮となり定子が皇后となったのと似た現象である。
この後も、摂関家からの入内が続くなど、禎子皇后と摂関家の関係が悪化し、遂には、禎子皇后が宮中を出るという状態に至ったようである。
掲題の和歌は、この期間に交わされたものと推定できる。
* 皇后禎子にとっては辛い時期であったが、この間 禎子を支えたのは異母弟の藤原能信で、尊仁親王が異母兄の後冷泉天皇の皇太弟に就くことが出来たのには彼の支援が大きかった。
後朱雀天皇の崩御は1045年のことであるが、これにより禎子は出家する。
1068年、後冷泉天皇の崩御により、尊仁親王は三十五歳にして後三条天皇として即位する。禎子は遂に国母となったのである。
しかし、後三条天皇は、在位四年余りで崩御し、皇子の白河天皇が即位する。
翌年、禎子は女院を宣下され、ここに陽明門院が誕生する。五十七歳の頃である。
* 失意の陽明門院禎子であったが、時代は天皇家の混乱期に向かい、摂関家の没落が見え始める頃であった。
陽明門院禎子には、天皇家の支えとしてばかりでなく、摂関家にも大きな影響を与えたようである。因みに、「女院」というのは、禎子が彰子(上東門院)に続いて史上三人目の宣下であったが、当時は、上皇並みの待遇がなされたようであり、その権力も小さなものではなかったようである。
上東門院彰子の崩御は1074年のことであるが、その後も二十年にわたって、女院という特別な立場で皇室や公家社会に大きな影響を与えているが、詳細は割愛したい。
* この時代、皇室や公家社会を中心とした国家運営に影響を与えた女性としては、おそらく、上東門院彰子が第一人者ではないかと思われるが、この時代を、陽明門院禎子を中心とした流れで見てみると、少し違った姿が見えて来るようにも思うのである。
陽明門院禎子は、1094年 曽孫にあたる堀河天皇の御代に世を去った。行年八十二歳であった。
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