雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

レジ袋有料化 本当にエコ?

2020-07-24 18:43:16 | 日々これ好日

        『 レジ袋有料化 本当にエコ? 』

     「地球の環境を守るため」などと言われると
     文句の言いようもないけれど
     レジ袋の有料化 本当にエコなんですか?
     プラスチックごみが 世界的に問題になっていることは
     承知しているけれど レジ袋で 問題をごまかしているのではないかと
     ついつい疑ってしまう
     エコバッグも良いけれど 感染症に苦しんでいる今 
     食中毒への悪影響はないのだろうか
     それに エコバッグに ビニール(正しい原料は知りませんが)製のゴミ袋や
     家庭用の小袋などを どっさり買い入れているのを どう考えればよいのだろう
     まあ 『貧者の一灯』といわれると 反論はしにくいのですが・・・

                              ☆☆☆ 
        

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いざ子ども

2020-07-24 08:23:40 | 新古今和歌集を楽しむ

     いざ子ども はや日の本へ 大伴の
              御津の浜松 待ち恋ひぬらん

                作 者   山上憶良

( No.898  巻第十 羇旅歌 ) 
       いざこども はやひのもとへ おおともの
                みつのはままつ まちこひぬらん


* 作者は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族・歌人。( 660? - 733? ) 行年は七十歳余か。

* 歌意は、「 さあ人々よ 早く日本へ帰ろう 大伴の御津の浜の松も 待ち焦がれていることだろう 」といったものであろう。
この歌の前書き(詞書)には、「もろこしにてよみ侍りける」とあるので、唐の地で詠んだものであることが分かる。日本の地を見て感動したものというより、望郷の歌と言えよう。
なお、「子供」といのは、従者や使用人などを指している。「大伴の御津の浜」というのは、大阪湾にある津(港)の一つで、大伴氏の領地があったらしい。

* 山上憶良は、万葉集の歌人として名高い人物である。
ただ、出自となれば、皇別氏族(天皇を祖先に持つ氏族)である春日氏の支族である山上氏の出という説がある。一方、粟田氏の支族、または隷属している氏で、百済系渡来人という説もある。
かなり両極端な説であるが、春日氏の遠祖とされる天皇は、第五代孝昭天皇なので、憶良の時代から1200年ほども前に在位していたとされる天皇なので、神話の世界に踏み込んでしまう。
いずれにしても、憶良は、中央で活躍できるほどの知識を有した人物であったらしいが、貴族というほどの家柄ではなかったようだ。

* 憶良の生年は全く不詳であるが、天智天皇が即位して間もない頃のことらしい。
中央での活動となれば、701年に遣唐使の一員に選ばれているが、おそらく四十歳の頃と推定されるも、この時点ではまだ無冠であったらしい。そうであるとすれば、すでに中央官庁、あるいはその周辺で仕事をしていたようだが、ごくごく低い地位にあったらしい。遣唐使の要員に選ばれるということは、それだけの評価を受ける実力がすでに認められていたともいえるが、「遣唐小錄に任じられた」と記録されていて、最下位に近い記録係であったらしい。

* 憶良らが唐に渡ったのは702年のことで、およそ二年近く滞在したようである。掲題の和歌は、この期間に詠まれたものであろう。
帰国後に、渡唐の功績により官位を得たようであり、714年に従五位下に上っている。五十歳を少し過ぎた頃と考えられるが、いわゆる貴族の仲間入りをしたようである。 
716年に伯耆守に任じられ、いわゆる受領クラスとなっているが、その地位の軽重は、平安後期の頃とは少し意味合いが違うように思われる。721年には、東宮の首皇子(後の聖武天皇)の侍講に選ばれているが、歌人というより学者あるいは教養人として認められたように思われるのである。
そして、726年に筑前守として任国に下り、732年頃まで任地にいたようである。この間、728年まで太宰の帥として任地にあった大伴旅人とともに筑紫歌壇を形成した。おそらく、憶良が今日まで伝えられる万葉歌人の第一人者としての評価は、この期間の影響が大きかったと筆者個人は考えている。
732年に帰京した憶良の消息は、翌733年6月頃が最後で、間もなく亡くなったようである。行年は、七十歳をいくつか過ぎていたらしい。

* 憶良は、万葉集に八十首前後の歌を残している。歌数については、万葉集の場合は、長歌があり、短歌や反歌も付随したり独立したりの形で記載されていることもあって、研究者によって若干の差があるようである。
その歌風は、もちろん、仏教や儒教の影響を強く受けているが、現代の私たちにとっては、家族や、弱者に目を向けた歌人、いうならば社会派歌人と評したい歌が数多くある。もしこの評価が正しいとすれば、もしかすると、万葉歌人内で第一人者の、いや、ただ一人の社会派歌人ではないだろうか。

* 掲題の歌は、個人的に好きな歌ではあるが、新古今和歌集には、この歌しか採録されていないためでもある。
最後に、万葉集の中から、山上憶良の面目躍如といえそうな歌を載せさせていただく。

   「 山上臣憶良 宴を罷(マカ)る歌一首 」
『 憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我(ワ)を待つらむぞ 』

   「 子等を思ふ歌一首 」
『 瓜食(ハ)めば 子ども思ほゆ 栗飯めば まして偲(シノ)はゆ いづくより 来たりしものぞ
  眼交(マナカヒ)に もとなかかりて 安眠(ヤスイ)し寝(ナ)さぬ 』
   「 反歌 」
『 銀(シロガネ)も 金(クガネ)も玉も 何せむに まされる宝 子に しかめやも 』

     ☆   ☆   ☆ 





 

  

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