いかにせん 身をうき舟の 荷を重み
つひの泊りや いづくなるらん
作者 増賀上人
( No.1706 巻第十八 雑歌下 )
いかにせん みをうきふねの にをおもみ
つひのとまりや いづくなるらん
* 作者 増賀上人(ゾウガショウニン)は、平安中期の僧である。( 917-1003 )没年は長保五年、享年八十七歳。
* 歌意は、「 どうすれば良いのか うき舟のような身には 荷が重すぎる 最後に行き着く所は いったいどこなのだろう 」といった意味と受け取ったが、世捨人らしい作品ともいえるし、何かと奇行が伝えられる作者としては、ごく平易な和歌のようにも思われる。
* 増賀は、参議橘恒平の子であり、歴とした貴族の出身である。
十歳の頃、比叡山に上る。当時、上級貴族が子供の一人を仏門に入れることは珍しくなかった。おそらく、比叡山に入った後も、一般の見習い僧に比べて、かなり厚遇を受けたのではないかと推定される。比叡山においては、良源について天台の顕密を十二年ほど学んだ。この良源は、後に天台座主・大僧正と昇り詰め、天台宗の中興の祖と称せられたほどの人物である。
* しかし、増賀は、僧侶としては凡庸ではなかったようであるが、この良源と合わなかったのか、天台の教えになじめなかったのか、あるいは、当時の仏教界の在り方に反感を抱いたのか、かなり反骨精神に満ちた僧侶に育ったようである。
かと言って、仏門から離れるといった道は取らず、比叡山周辺の諸寺や諸国を遊行して修業を続けたようである。
やがて、963年、増賀四十七歳の頃、終の棲家ともいえる多武峰(トウノミネ・奈良県桜井市)に入り、以後没するまで四十年に渡り修行を続け、多武峰の聖人と称されるほどの生涯を送っている。
* 増賀は、権力や名声を嫌悪したようで、師の良源が僧正の位に就くことに対しても非難したらしい。多くの奇行が伝えられているようであるが、それらは反骨精神に基づいていたようである。それでいながら、生前から名僧との評価もされていたらしいのは、法華経読誦や不動明王の修法などによって奇瑞を顕したとされていて、それゆえ信奉する人たちも少なくなかったようである。
* 増賀は、今昔物語や徒然草や宇治拾遺物語などに登場してくる。
そのうちの宇治拾遺物語には、三条大后宮が尼になる時の戒師に増賀を招いたが、呆れるほどの奇行ぶりが紹介されている。内容については、あまりにも下劣すぎるものなので割愛させていただくが、多武峰においては、現在に至るも名僧として尊敬されている。
増賀が和歌の上手という伝承は見当たらないが、古今和歌集が、この反骨精神の権化のような僧侶の和歌を選んだとに拍手したいような気持から、本稿で紹介させていただいたものである。
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