運命紀行
戦国の幕開け
戦国時代の始まりについては諸説がある。
かつては「応仁の乱」というのが有力であったが、最近では「明応の政変」とする方が有力らしい。
「応仁の乱」とは、応仁元年(1467)に管領家の一つである畠山氏の家督争いに端を発したもので、さらに同じく管領家である斯波氏にも家督争いがあり、それに加え足利将軍家も同様の状態となり、全国の有力大名や豪族たちが、義理や利害で敵味方の複雑な構図を描き、ついには、細川勝元と山名宗全を大将とする二派が、それぞれ十数万の軍勢を京都に集めた大乱である。
「応仁の乱」は文明九年(1477)までの十年余り続いた。京都での大きな戦いは最初の二、三年だけであるが、その後も大軍が対峙を続けていたため、京都の治安は乱れ、幕府の権威は衰えていった。
やがて、両大将が病没した後は、対峙は続けながらもなし崩しに乱は収まっていった。
「明応の政変」というのは、明応二年(1493)、元管領の畠山政長が家督争いで敵対する畠山基家を討伐するために将軍の親征を要請したことに始まる。将軍足利義稙は畠山家の家督問題を政長有利にさせるべくこの要請を受け入れ、二月十五日に討伐軍を河内に進発させた。
これに異を唱える細川政元は、将軍義稙に不満を抱き始めていた日野富子や、伊勢貞宗、赤松正則らを味方につけ、四月二十二日に足利義澄を第十一代将軍に擁立することを決定させてしまった。さらに、富子は第八代将軍義政の御台所という立場から直接の指揮を取って、政元に京都を制圧させた。まさにクーデターである。
この京都での変事の報に動揺した義稙勢は、同行していた守護大名や奉行衆などの多くが、新将軍に従うよう命じる伊勢貞宗の書状に従って帰京してしまった。その中には、将軍側近とされる者も加わっており、討伐軍は崩壊、義稙は投降し、龍安寺に幽閉された。
この政争により、足利将軍家の権威はさらに大きく失墜したのである。
応仁の乱もそうであるが、明応の政変も直接の事変だけを挙げればこうなるが、実際はそこに至るまでに様々な葛藤が存在している。
応仁の乱の原因は、先に述べたように幾つかの要因が重なり合ったものと考えるべきであるが、やはり将軍家の家督争いがもっとも大きな要因といえる。
第八代将軍義政にはなかなか嫡男が誕生しなかった。そのため、出家していた弟を還俗させ養子とした。義視である。当然次期将軍という前提の上での養子であったが、その翌年に正室である富子に男子が誕生したのである。義尚であるが、この二人の家督争いが管領家や諸豪族を巻き込んでいったのである。
結局第九代将軍は富子の望み通り義尚が就任したが、その過程で大きなしこりを残すことになった。
その義尚が、長享三年(1489)三月に出陣先の近江で病死すると、またも後継選定で混乱するのである。
義尚の享年は二十五歳であったが、子供がいなかった。そもそも妻がいたかどうかもはっきりしないのであるが。
傷心の富子は、後継者に義尚と将軍の地位を争った義視の子の義稙を推挙したのである。敵対関係ともいえる義視の子を推挙した理由は、その母が富子の妹であったからと思われる。
これに対して、富子の夫である第八代将軍義政や細川政元らは、堀越公方足利政知の子の義澄を推して、両派は睨み合いとなる。
この家督争いも、翌年に義政が死去すると、富子の主張が勝り、義視が出家することを条件に義稙が将軍に就く。
しかし、この後も混乱が続くことになる。
理由はよく分からないが、富子は排除したはずの義澄に義尚が住んでいた小河邸を与えたのである。この邸は、将軍家の象徴ともいえる邸であっただけに、義視はわが子である新将軍を軽視するものだと激怒し、富子に無断で小河邸を破却してしまったのである。
出家したはずの義視の振舞いに富子も怒り、新将軍と距離を置くようになり、それは義視が死去した後も変わらなかった。
そして、その結果として、富子は将軍廃立というクーデターの一翼を担うのである。
戦国時代の始まりについて、かつては応仁の乱というのが主流であったが、最近では明応の政変という方が有力らしいことは冒頭で述べたが、そのどちらということではなく、応仁の乱前後から明応の政変が一応の決着を見せるまでの三十年ほどの間こそが、わが国に戦国時代を誕生させた揺籃期といえるのではないだろうか。
そして、この僅か三十年ばかりの間に、将軍家、管領家、有力大名家が複雑に絡み合って混乱期を作り上げているが、その中にあって、常に中心近くに立ち続けていた人物がいる。日野富子である。
もしかすると、日野富子という女性こそが、戦国時代という舞台の幕を開けた中心人物だったのかもしれない。
* * *
永享十二年(1440)、日野富子は内大臣日野重政の娘として誕生。
康正元年(1455)、十六歳で第八代将軍足利義政の正室となる。
文明五年(1473)、富子の実子である義尚が第九代将軍に就く。
延徳元年(1489)、将軍義尚、近江出陣中に病死。
延徳二年(1490)一月、富子の夫義政死去。
同年四月、義稙が第十代将軍に就く。
明応二年(1493)、義澄が第十一代将軍に就く。
明応五年(1496)五月、富子死去。享年五十七歳。
以上は日野富子の生涯の内、将軍交代時を中心に列記したものであるが、足利将軍の八代から十一代までの四人に関与し、五十七歳で生涯を終えている。特別長命というわけではないが、当時としては天寿を全うしたといえるであろう。
子供に先立たれるなどの不幸はあるとしても、将軍御台所として、また未亡人として、穏当な生涯のように見えるが、多くの文献は、彼女を「悪女」と評している。
そもそも、悪女というのは、何を基準として評しているのかということを考える必要がある。
富子に関していえば、「夫をないがしろにして幕政に関与した」「敵対者を強引に排除した」「物欲が強く私財を貯め込んだ」「後継者問題に過剰に関わった」等々がその理由とされている。
そして、混乱の時代への幕開けとなった、応仁の乱を引き起こした張本人だというのさえある。
富子の生まれた日野家は、家格としては中流の貴族であるが、足利将軍家にとっては特別の家柄であった。
足利将軍家と日野家との特別な関係は、第三代将軍義満に始まる。義満が日野業子を正室に迎えたのは、宮廷内で大きな発言力を持っていた日野家の影響力を味方につけるためであった。業子には子供か生まれなかったが、第二夫人として迎えた業子の姪に当たる裏松家の康子が、義満の権勢を背景に後小松天皇の准母(母がわり)となり北山院という院号の宣下を受けた。これにより、夫である義満は天皇の父がわりということになり、太上天皇という尊号を得る資格を得たことになったのである。実際に、義満はその実現を画策したようである。
このことから、この婚姻が佳例となって、代々将軍家の正室は、日野家あるいは一門である裏松家から迎えることが定着していたのである。
富子が第八代将軍義政のもとに嫁いだのは十六歳の時なので、もちろん政治的な野心など無かったが、日野家の娘として早くから将軍家御台所になる覚悟はあったと考えられる。
一方の義政は、この時二十歳であったが、父が暗殺され、跡を継いだ兄も僅か二年で病死、その結果義政が将軍家の家督を継ぐことになってしまったのである。そこには帝王学も覚悟もなかったのである。
富子が義政をないがしろにしたと伝えられることが多いが、所詮将軍家を担おうとする覚悟が最初から違っていたのである。
しかし、足利将軍家を護ろうとする人々にとっては義政は珠玉ともいえる存在で、大事に大事に扱われていた。
富子が嫁いでいた時には、すでに何人もの女性が侍っていて、特に乳母として仕えてきた今参局(イママイリノツボネ)はいつか子をなす関係となっていて、大変な勢力を持っていた。
義政の母重子は、この今参局と激しく対立していたが、富子が最初の子(男とも女とも)を出産間もなく亡くしてしまったが、その原因は今参局の呪詛によるものだとでっちあげ、死に追いやっている。重子と富子の共謀だとされているが、富子悪女説の有力なエピソードである。
富子が物欲が強かったということも多く伝えられている。
この時代、女性が経済的な基盤を有していることは珍しいことではなかったようであるが、富子の場合は、政治的権力を背景にして、各地の関所からの収入や貯め込んだか資金を高利貸しでさらに稼いでいたようである。
「天下の料足(貨幣)は、この御方(富子)にこれあるように見え」といった文献が残されているが、まさか天下の銭を一人占めしたわけではないとしても、相当の蓄財を成していたことは確からしい。
しかし、富子を単なる守銭奴としてみるのは大変な間違いである。
政治的にほとんど有効な働きを見せない義政に替わって将軍家の権威を保つためには、経済的な力を必要としたのである。やがて始まる戦国時代において、織田信長であれ、豊臣秀吉であれ、徳川家康であれ、槍や鉄砲だけで天下を取ったのではないのである。そこには、強力な経済基盤、金銀の力があってこその天下人なのである。つまり、金銀の力を理解できない人物には、戦国時代は生き延びられなかったのである。
日野富子という女性は、戦国武将たちより一歩早く、政権維持に金銀の持つ力を理解し利用していたのである。
それは、単に財を蓄えるだけでなく、宮廷や寺社への寄進を数多く実施しており、下級吏員への給与を立て替えたりもしている。さらに、応仁の乱収束にあたっても、富子の金銀が動いているようなのである。
また、わが子を将軍職に就けるため暗躍したというのは事実であるが、それは暗躍などではなく、正面だっての戦いといえるものなのである。その後の将軍擁立についても、富子の意思を考慮せずに就任させることは出来なかったと考えられる。つまり、富子の意志こそが、この時代の将軍家の意思だったのである。
応仁の乱から明応の政変にかけての混乱期、すでに輝きを失いかけていた足利将軍家を必死に支え続けた姿こそが、日野富子の生きざまなのである。
そして、その是非はともかく、戦国時代という新しい時代の幕を開ける役割を果敢に担った女性でもあるのだ。
少なくとも、日野富子を単なる悪女としてとらまえることなどは、とんでもないことである。
( 完 )
戦国の幕開け
戦国時代の始まりについては諸説がある。
かつては「応仁の乱」というのが有力であったが、最近では「明応の政変」とする方が有力らしい。
「応仁の乱」とは、応仁元年(1467)に管領家の一つである畠山氏の家督争いに端を発したもので、さらに同じく管領家である斯波氏にも家督争いがあり、それに加え足利将軍家も同様の状態となり、全国の有力大名や豪族たちが、義理や利害で敵味方の複雑な構図を描き、ついには、細川勝元と山名宗全を大将とする二派が、それぞれ十数万の軍勢を京都に集めた大乱である。
「応仁の乱」は文明九年(1477)までの十年余り続いた。京都での大きな戦いは最初の二、三年だけであるが、その後も大軍が対峙を続けていたため、京都の治安は乱れ、幕府の権威は衰えていった。
やがて、両大将が病没した後は、対峙は続けながらもなし崩しに乱は収まっていった。
「明応の政変」というのは、明応二年(1493)、元管領の畠山政長が家督争いで敵対する畠山基家を討伐するために将軍の親征を要請したことに始まる。将軍足利義稙は畠山家の家督問題を政長有利にさせるべくこの要請を受け入れ、二月十五日に討伐軍を河内に進発させた。
これに異を唱える細川政元は、将軍義稙に不満を抱き始めていた日野富子や、伊勢貞宗、赤松正則らを味方につけ、四月二十二日に足利義澄を第十一代将軍に擁立することを決定させてしまった。さらに、富子は第八代将軍義政の御台所という立場から直接の指揮を取って、政元に京都を制圧させた。まさにクーデターである。
この京都での変事の報に動揺した義稙勢は、同行していた守護大名や奉行衆などの多くが、新将軍に従うよう命じる伊勢貞宗の書状に従って帰京してしまった。その中には、将軍側近とされる者も加わっており、討伐軍は崩壊、義稙は投降し、龍安寺に幽閉された。
この政争により、足利将軍家の権威はさらに大きく失墜したのである。
応仁の乱もそうであるが、明応の政変も直接の事変だけを挙げればこうなるが、実際はそこに至るまでに様々な葛藤が存在している。
応仁の乱の原因は、先に述べたように幾つかの要因が重なり合ったものと考えるべきであるが、やはり将軍家の家督争いがもっとも大きな要因といえる。
第八代将軍義政にはなかなか嫡男が誕生しなかった。そのため、出家していた弟を還俗させ養子とした。義視である。当然次期将軍という前提の上での養子であったが、その翌年に正室である富子に男子が誕生したのである。義尚であるが、この二人の家督争いが管領家や諸豪族を巻き込んでいったのである。
結局第九代将軍は富子の望み通り義尚が就任したが、その過程で大きなしこりを残すことになった。
その義尚が、長享三年(1489)三月に出陣先の近江で病死すると、またも後継選定で混乱するのである。
義尚の享年は二十五歳であったが、子供がいなかった。そもそも妻がいたかどうかもはっきりしないのであるが。
傷心の富子は、後継者に義尚と将軍の地位を争った義視の子の義稙を推挙したのである。敵対関係ともいえる義視の子を推挙した理由は、その母が富子の妹であったからと思われる。
これに対して、富子の夫である第八代将軍義政や細川政元らは、堀越公方足利政知の子の義澄を推して、両派は睨み合いとなる。
この家督争いも、翌年に義政が死去すると、富子の主張が勝り、義視が出家することを条件に義稙が将軍に就く。
しかし、この後も混乱が続くことになる。
理由はよく分からないが、富子は排除したはずの義澄に義尚が住んでいた小河邸を与えたのである。この邸は、将軍家の象徴ともいえる邸であっただけに、義視はわが子である新将軍を軽視するものだと激怒し、富子に無断で小河邸を破却してしまったのである。
出家したはずの義視の振舞いに富子も怒り、新将軍と距離を置くようになり、それは義視が死去した後も変わらなかった。
そして、その結果として、富子は将軍廃立というクーデターの一翼を担うのである。
戦国時代の始まりについて、かつては応仁の乱というのが主流であったが、最近では明応の政変という方が有力らしいことは冒頭で述べたが、そのどちらということではなく、応仁の乱前後から明応の政変が一応の決着を見せるまでの三十年ほどの間こそが、わが国に戦国時代を誕生させた揺籃期といえるのではないだろうか。
そして、この僅か三十年ばかりの間に、将軍家、管領家、有力大名家が複雑に絡み合って混乱期を作り上げているが、その中にあって、常に中心近くに立ち続けていた人物がいる。日野富子である。
もしかすると、日野富子という女性こそが、戦国時代という舞台の幕を開けた中心人物だったのかもしれない。
* * *
永享十二年(1440)、日野富子は内大臣日野重政の娘として誕生。
康正元年(1455)、十六歳で第八代将軍足利義政の正室となる。
文明五年(1473)、富子の実子である義尚が第九代将軍に就く。
延徳元年(1489)、将軍義尚、近江出陣中に病死。
延徳二年(1490)一月、富子の夫義政死去。
同年四月、義稙が第十代将軍に就く。
明応二年(1493)、義澄が第十一代将軍に就く。
明応五年(1496)五月、富子死去。享年五十七歳。
以上は日野富子の生涯の内、将軍交代時を中心に列記したものであるが、足利将軍の八代から十一代までの四人に関与し、五十七歳で生涯を終えている。特別長命というわけではないが、当時としては天寿を全うしたといえるであろう。
子供に先立たれるなどの不幸はあるとしても、将軍御台所として、また未亡人として、穏当な生涯のように見えるが、多くの文献は、彼女を「悪女」と評している。
そもそも、悪女というのは、何を基準として評しているのかということを考える必要がある。
富子に関していえば、「夫をないがしろにして幕政に関与した」「敵対者を強引に排除した」「物欲が強く私財を貯め込んだ」「後継者問題に過剰に関わった」等々がその理由とされている。
そして、混乱の時代への幕開けとなった、応仁の乱を引き起こした張本人だというのさえある。
富子の生まれた日野家は、家格としては中流の貴族であるが、足利将軍家にとっては特別の家柄であった。
足利将軍家と日野家との特別な関係は、第三代将軍義満に始まる。義満が日野業子を正室に迎えたのは、宮廷内で大きな発言力を持っていた日野家の影響力を味方につけるためであった。業子には子供か生まれなかったが、第二夫人として迎えた業子の姪に当たる裏松家の康子が、義満の権勢を背景に後小松天皇の准母(母がわり)となり北山院という院号の宣下を受けた。これにより、夫である義満は天皇の父がわりということになり、太上天皇という尊号を得る資格を得たことになったのである。実際に、義満はその実現を画策したようである。
このことから、この婚姻が佳例となって、代々将軍家の正室は、日野家あるいは一門である裏松家から迎えることが定着していたのである。
富子が第八代将軍義政のもとに嫁いだのは十六歳の時なので、もちろん政治的な野心など無かったが、日野家の娘として早くから将軍家御台所になる覚悟はあったと考えられる。
一方の義政は、この時二十歳であったが、父が暗殺され、跡を継いだ兄も僅か二年で病死、その結果義政が将軍家の家督を継ぐことになってしまったのである。そこには帝王学も覚悟もなかったのである。
富子が義政をないがしろにしたと伝えられることが多いが、所詮将軍家を担おうとする覚悟が最初から違っていたのである。
しかし、足利将軍家を護ろうとする人々にとっては義政は珠玉ともいえる存在で、大事に大事に扱われていた。
富子が嫁いでいた時には、すでに何人もの女性が侍っていて、特に乳母として仕えてきた今参局(イママイリノツボネ)はいつか子をなす関係となっていて、大変な勢力を持っていた。
義政の母重子は、この今参局と激しく対立していたが、富子が最初の子(男とも女とも)を出産間もなく亡くしてしまったが、その原因は今参局の呪詛によるものだとでっちあげ、死に追いやっている。重子と富子の共謀だとされているが、富子悪女説の有力なエピソードである。
富子が物欲が強かったということも多く伝えられている。
この時代、女性が経済的な基盤を有していることは珍しいことではなかったようであるが、富子の場合は、政治的権力を背景にして、各地の関所からの収入や貯め込んだか資金を高利貸しでさらに稼いでいたようである。
「天下の料足(貨幣)は、この御方(富子)にこれあるように見え」といった文献が残されているが、まさか天下の銭を一人占めしたわけではないとしても、相当の蓄財を成していたことは確からしい。
しかし、富子を単なる守銭奴としてみるのは大変な間違いである。
政治的にほとんど有効な働きを見せない義政に替わって将軍家の権威を保つためには、経済的な力を必要としたのである。やがて始まる戦国時代において、織田信長であれ、豊臣秀吉であれ、徳川家康であれ、槍や鉄砲だけで天下を取ったのではないのである。そこには、強力な経済基盤、金銀の力があってこその天下人なのである。つまり、金銀の力を理解できない人物には、戦国時代は生き延びられなかったのである。
日野富子という女性は、戦国武将たちより一歩早く、政権維持に金銀の持つ力を理解し利用していたのである。
それは、単に財を蓄えるだけでなく、宮廷や寺社への寄進を数多く実施しており、下級吏員への給与を立て替えたりもしている。さらに、応仁の乱収束にあたっても、富子の金銀が動いているようなのである。
また、わが子を将軍職に就けるため暗躍したというのは事実であるが、それは暗躍などではなく、正面だっての戦いといえるものなのである。その後の将軍擁立についても、富子の意思を考慮せずに就任させることは出来なかったと考えられる。つまり、富子の意志こそが、この時代の将軍家の意思だったのである。
応仁の乱から明応の政変にかけての混乱期、すでに輝きを失いかけていた足利将軍家を必死に支え続けた姿こそが、日野富子の生きざまなのである。
そして、その是非はともかく、戦国時代という新しい時代の幕を開ける役割を果敢に担った女性でもあるのだ。
少なくとも、日野富子を単なる悪女としてとらまえることなどは、とんでもないことである。
( 完 )