運命紀行
東山に逃げる
室町幕府八代将軍足利義政が、東山山荘の造営に着手したのは、文明十四年(1482)二月のことであった。
義政が着目したこの地は、もとは浄土時のあったところであるが、応仁の乱で焼亡し荒地となっていた。
京都の町の多くを焼き払い、全国至る所に飢饉をもたらした応仁の乱はようやく収束していたが、幕府にも義政個人にも大規模な山荘を造営する余裕などなかったはずである。
しかし、義政は、東山文化の中心として今日まで伝えられることになる東山山荘の造営を強引なまでに推し進めたのである。
そもそも、義政はこのように大規模な山荘造営の構想をいつ頃から抱いていたのであろうか。
一説には、二十年近くも以前から構想を抱いていたともいわれている。それは、彼が尊敬し憧れていた祖父義満が創建した北山第を訪れ、金閣に代表される圧倒的な存在感に魅せられて、いつかは自分も同じような山荘を造営したいと考えたというのである。
十分有り得ることだと思われるが、この東山の浄土寺跡地に山荘の造営を構想したのは、とてもそれほど以前からの計画とは思えないのである。
その理由の一つは、浄土寺は応仁の乱でその大半を焼失し荒廃したのであって、それ以前は立派な伽藍を誇っていたのである。創建時期を確定することができないが、醍醐天皇など皇室との縁もある天台宗の古刹なのである。
その寺院が健在な段階で、いくら室町将軍といえども、強引に移設させて個人的な山荘を造営するなどという計画は、大義名分が立たないであろうし、義政にそれほどの力もなかったはずである。
たとえ山荘造営という漠然とした計画は早くから抱いていたとしても、この東山の地に造営を決断したのは直前になってのことだと思われる。この地の選定は、むしろ、義政が逃げ込む場所として選んだという方が的を得ているように見えるのである。
幼くして将軍職に就いた義政は、過保護という言葉さえ及ばないような環境で育てられてきた。義政に限らないが、早くから妻妾を持ち政務より次期将軍誕生を大事として育てられていた。
しかし、そこに、日野富子というとてつもない女傑が正室として登場するのである。
二人が結婚したのは、義政が二十歳、富子が十六歳の時であるから、最初から富子が女傑であったのではあるまい。ただ、どろどろの義政の後宮を容認するほどしおらしい女性でもなかったらしい。
やがて富子は、後宮はもちろん、政務の分野でも義政以上の影響力を持ち始め、どちらが先か後かはともかく、その分義政は文化や遊興の分野に傾注するようになっていった。
当然の成り行きとして、義政は富子に公私両面において頭が上がらなくなっていった。
そういう関係も、二人の仲が睦まじい間はそれなりの平安が保たれていたが、そこに隙間風を感じ始めると出来過ぎた妻が負担に感じ始めるのは古今ともに変わらない。
二人は室町御所で起居を共にしていたが、応仁の乱で軟禁状態にされていた後土御門天皇ら皇室の人々も同御所で生活をしており、退廃的な宴会も再三開かれていた。その過程で、富子と二歳年下の天皇との仲について艶っぽい噂が立ったのである。
多くの妻妾を侍らせている義政ではあるが、富子の浮き名は気に入らないらしく、小河に新邸を建てさせて別居してしまったのである。
結局、天皇の真の相手は富子の侍女であることが分かり、富子の疑いは晴れたが、賢妻とも恐妻ともいえる富子のもとを離れることの自由を知った義政は、再び同居しようとはしなかったのである。
ところが、室町御所が焼失したため、富子たちが小河の邸で再び同居することになってしまったのである。
室町御所が焼失したのは文明八年(1476)十一月のことで、富子と九代将軍となっていた義尚は北小路邸に避難していたが、その後富子・義尚親子が同居すべく小河邸に移ってきた。
数奇三昧を夢見ていた義政は、再び逃避先を求めなくてはならなかった。
おそらく義政は、自分の思い描く世界の実現のために、最後の逃避先を探したのであろう。
そして、それが東山の地だったのである。
義政は、東山山荘の造営に着手すると、その完成を待つことなく翌年には移り住んでいるが、義政の心境をよくあらわしている行動といえる。
早々と移り住んだ義政は、疲弊した庶民に厳しい段銭(臨時の税)や夫役を課しながら、彼が没する前年まで八年間も工事は続いたのである。
東求堂・観音殿を中心に、義政が没頭できる環境を整えていったが、同時に、北山山荘には遠く及ばないまでも政務も行っている。
そして、この東山山荘が義満の北山山荘を意識していたと考えられる一番の根拠は、楼閣建築である観音殿の存在である。現在、銀閣と呼ばれているこの建物が、何故そう呼ばれるようになったのかは少々謎がある。
そもそも、義政にはこの楼閣を銀閣と名付けるつもりがあったのかどうかということが、よく分からないのである。外壁には黒漆は塗られているが銀箔は張られていないからである。
義政が造営にあたって金閣を意識していたことは確かだと考えられるが、銀閣と呼ばれるようになるのは、江戸時代に入ってからのことなのである。
では、何故銀閣と呼ばれるようになったのかについても、諸説がある。
「銀箔を張る計画であったが資金が続かなかった」あるいは、「義政が亡くなったため計画が打ち切られてしまった」というものがある。
「漆の塗られた壁が日光の加減で、銀色に輝いて見えたから」というのもある。
「当初は銀箔が張られていたが、剥がれ落ちてしまった」という意見もあったが、これは、後世の調査で否定されている。
いずれにしても、現在の私たちは、銀箔が全く張られていなくても、「銀閣」と呼ぶのに何の不自然さも感じられない。それは、あの燦然と輝く金閣と対比させても同様で、むしろ好一対のように感じてしまう。
もしかすると、これは、足利義政が仕組んだ、一世一代の仕掛けなのではないかと思ったりするのである。
* * *
室町時代という時代区分を確定させるのはなかなか難しい。
一般的には室町幕府、すなわち足利将軍が存在した期間ということになる。
その場合の開始時期は、足利尊氏が建武式目を定めた建武三年(1336)または征夷大将軍に就いた暦応元年(1338)とするのが通説である。
同じく終末時期は、十五代将軍足利義昭が織田信長により京都から追放された天正元年(1573)と考えられており、この場合の室町時代は、およそ237年ほどの期間ということになる。
但し、義昭が征夷大将軍職を正式に辞任したのは天正十五年(1587)に京都に帰還した後のことであるが、これを重視する説は少ない。
しかし、実際の政治体制をみた場合、この二百数十年間を足利政権の時代とするには少々無理があるように思われる。
つまり、その初期は、北朝政権(実体は足利政権といえる)と南朝政権が激しく対立しており、各地の有力守護大名も足利将軍の勢力下にあったとはとても見えない。従って、明徳三年(1392)に南北朝が統一されるまでのおよそ六十年間ほどを南北朝時代とする説も有力である。
終末期にしても同様で、応仁元年(1467)の応仁の乱の勃発を戦国時代の始まりとする説は有力であるが、これ以後を戦国時代と区分し、さらにその後半部分の安土・桃山時代を一つと時代とするならば、室町時代はさらに狭められる。
これらの前後の時代を除いて、南北朝の統一から応仁の乱の勃発までを室町時代と限定するとその期間は僅かに七十五年ほどということになるのである。
そして義政は、この時代区分さえ確定の難しい混乱期の足利将軍なのである。
足利義政は、永享八年(1436)、六代将軍義教の次男として生まれた。母は日野重子である。
父の義教は、室町幕府の全盛期を築いた三代将軍義満の子であるが、兄義持が後を継ぎ弟の彼は出家していた。ところが、将軍職を引き継いだ義持の子義量は十九歳で没したため再び義持が政権を担っていたが、後継者を定めることなく亡くなった。
そのため後継者選びは難航し、結局石清水八幡宮におけるくじ引きにより四人の候補者のうちから義教が将軍職に就いた。
新将軍となった義教は、混乱のなか沈下を続けていた幕府を浮上させるべく、有力大名たちにも強い態度で臨んだ。政治手腕に優れていたようであるが強引すぎる面もあり反感を受けることも少なくなかった。
その結果、有力家臣であったはずの赤松満祐に殺害されてしまったのである。嘉吉の乱と呼ばれる事件である。
その後は急遽嫡男義勝が継いだが何分まだ八歳であった。管領畠山持国ら幕府首脳は政権維持に努めたが、足利将軍の権威は大きく失われていった。しかも、二年後には義勝も死去してしまったのである。
その後を継ぐことになった義政は、この時九歳。義勝と変わらぬ政権体制が敷かれたものと考えられるが、いかなる政策よりも義政の健康が何よりも優先され、一日も早く次代の将軍を誕生させることが最優先の課題となった。
「絶対に死なせてはならない」という目的のためには、おのずから義政の周囲を固めるのは女性が中心となり、過保護を絵にかいたような環境が築かれていった。
幕府政権の体制は義満の時代に確立されていて、管領以下の有力大名たちで運営され、義政は先祖の供養などの祭礼などの行事が中心となり、身の回りには見目麗しい女房たちが仕えていた。
その中の第一のお気に入りの今参局(イママイリノツボネ)は、もともと乳母であったがいつの頃からか一番の寵妃となり女の子を儲けている。
義政を語る時、必ずといっていいほど「政治的には無能」と表現されている。
しかしそれは、環境が成させたもので、無能というより関心や指導を受けることなく成長したためと考えられる。
そういう将軍のもとに日野富子という女傑が正室として嫁いでくるのであるから、数多くの軋轢やドラマが誕生するのは当然のことである。残念ながらそれらはここでは割愛することとなる。
京都を語る時、東山文化を避けて通ることは出来まい。義満の築いた北山文化は絢爛豪華であるが、義政が育て上げた東山文化は奥深いものを感じさせる。
一般に、文化の繁栄期は、政治的・経済的繁栄期と一致するものである。悲惨な生活や暗黒期といわれる時代からも優れた芸術や文化は誕生するが、何々文化と呼ばれるほどの繁栄に至らないのが歴史上の事実である。
もしこの仮定が正しいとすれば、東山文化と呼ばれる文化は極めて例外的なものであるということになる。そして、しかも、少なくとも政治的には落後者のように言われることが多い、義政がその担い手なのである。
銀閣寺の醸し出す幽玄さは、現代の人々を魅了してやまないが、義政の生き様やその時代もまた不思議な魅力を持っているのである。
( 完 )
東山に逃げる
室町幕府八代将軍足利義政が、東山山荘の造営に着手したのは、文明十四年(1482)二月のことであった。
義政が着目したこの地は、もとは浄土時のあったところであるが、応仁の乱で焼亡し荒地となっていた。
京都の町の多くを焼き払い、全国至る所に飢饉をもたらした応仁の乱はようやく収束していたが、幕府にも義政個人にも大規模な山荘を造営する余裕などなかったはずである。
しかし、義政は、東山文化の中心として今日まで伝えられることになる東山山荘の造営を強引なまでに推し進めたのである。
そもそも、義政はこのように大規模な山荘造営の構想をいつ頃から抱いていたのであろうか。
一説には、二十年近くも以前から構想を抱いていたともいわれている。それは、彼が尊敬し憧れていた祖父義満が創建した北山第を訪れ、金閣に代表される圧倒的な存在感に魅せられて、いつかは自分も同じような山荘を造営したいと考えたというのである。
十分有り得ることだと思われるが、この東山の浄土寺跡地に山荘の造営を構想したのは、とてもそれほど以前からの計画とは思えないのである。
その理由の一つは、浄土寺は応仁の乱でその大半を焼失し荒廃したのであって、それ以前は立派な伽藍を誇っていたのである。創建時期を確定することができないが、醍醐天皇など皇室との縁もある天台宗の古刹なのである。
その寺院が健在な段階で、いくら室町将軍といえども、強引に移設させて個人的な山荘を造営するなどという計画は、大義名分が立たないであろうし、義政にそれほどの力もなかったはずである。
たとえ山荘造営という漠然とした計画は早くから抱いていたとしても、この東山の地に造営を決断したのは直前になってのことだと思われる。この地の選定は、むしろ、義政が逃げ込む場所として選んだという方が的を得ているように見えるのである。
幼くして将軍職に就いた義政は、過保護という言葉さえ及ばないような環境で育てられてきた。義政に限らないが、早くから妻妾を持ち政務より次期将軍誕生を大事として育てられていた。
しかし、そこに、日野富子というとてつもない女傑が正室として登場するのである。
二人が結婚したのは、義政が二十歳、富子が十六歳の時であるから、最初から富子が女傑であったのではあるまい。ただ、どろどろの義政の後宮を容認するほどしおらしい女性でもなかったらしい。
やがて富子は、後宮はもちろん、政務の分野でも義政以上の影響力を持ち始め、どちらが先か後かはともかく、その分義政は文化や遊興の分野に傾注するようになっていった。
当然の成り行きとして、義政は富子に公私両面において頭が上がらなくなっていった。
そういう関係も、二人の仲が睦まじい間はそれなりの平安が保たれていたが、そこに隙間風を感じ始めると出来過ぎた妻が負担に感じ始めるのは古今ともに変わらない。
二人は室町御所で起居を共にしていたが、応仁の乱で軟禁状態にされていた後土御門天皇ら皇室の人々も同御所で生活をしており、退廃的な宴会も再三開かれていた。その過程で、富子と二歳年下の天皇との仲について艶っぽい噂が立ったのである。
多くの妻妾を侍らせている義政ではあるが、富子の浮き名は気に入らないらしく、小河に新邸を建てさせて別居してしまったのである。
結局、天皇の真の相手は富子の侍女であることが分かり、富子の疑いは晴れたが、賢妻とも恐妻ともいえる富子のもとを離れることの自由を知った義政は、再び同居しようとはしなかったのである。
ところが、室町御所が焼失したため、富子たちが小河の邸で再び同居することになってしまったのである。
室町御所が焼失したのは文明八年(1476)十一月のことで、富子と九代将軍となっていた義尚は北小路邸に避難していたが、その後富子・義尚親子が同居すべく小河邸に移ってきた。
数奇三昧を夢見ていた義政は、再び逃避先を求めなくてはならなかった。
おそらく義政は、自分の思い描く世界の実現のために、最後の逃避先を探したのであろう。
そして、それが東山の地だったのである。
義政は、東山山荘の造営に着手すると、その完成を待つことなく翌年には移り住んでいるが、義政の心境をよくあらわしている行動といえる。
早々と移り住んだ義政は、疲弊した庶民に厳しい段銭(臨時の税)や夫役を課しながら、彼が没する前年まで八年間も工事は続いたのである。
東求堂・観音殿を中心に、義政が没頭できる環境を整えていったが、同時に、北山山荘には遠く及ばないまでも政務も行っている。
そして、この東山山荘が義満の北山山荘を意識していたと考えられる一番の根拠は、楼閣建築である観音殿の存在である。現在、銀閣と呼ばれているこの建物が、何故そう呼ばれるようになったのかは少々謎がある。
そもそも、義政にはこの楼閣を銀閣と名付けるつもりがあったのかどうかということが、よく分からないのである。外壁には黒漆は塗られているが銀箔は張られていないからである。
義政が造営にあたって金閣を意識していたことは確かだと考えられるが、銀閣と呼ばれるようになるのは、江戸時代に入ってからのことなのである。
では、何故銀閣と呼ばれるようになったのかについても、諸説がある。
「銀箔を張る計画であったが資金が続かなかった」あるいは、「義政が亡くなったため計画が打ち切られてしまった」というものがある。
「漆の塗られた壁が日光の加減で、銀色に輝いて見えたから」というのもある。
「当初は銀箔が張られていたが、剥がれ落ちてしまった」という意見もあったが、これは、後世の調査で否定されている。
いずれにしても、現在の私たちは、銀箔が全く張られていなくても、「銀閣」と呼ぶのに何の不自然さも感じられない。それは、あの燦然と輝く金閣と対比させても同様で、むしろ好一対のように感じてしまう。
もしかすると、これは、足利義政が仕組んだ、一世一代の仕掛けなのではないかと思ったりするのである。
* * *
室町時代という時代区分を確定させるのはなかなか難しい。
一般的には室町幕府、すなわち足利将軍が存在した期間ということになる。
その場合の開始時期は、足利尊氏が建武式目を定めた建武三年(1336)または征夷大将軍に就いた暦応元年(1338)とするのが通説である。
同じく終末時期は、十五代将軍足利義昭が織田信長により京都から追放された天正元年(1573)と考えられており、この場合の室町時代は、およそ237年ほどの期間ということになる。
但し、義昭が征夷大将軍職を正式に辞任したのは天正十五年(1587)に京都に帰還した後のことであるが、これを重視する説は少ない。
しかし、実際の政治体制をみた場合、この二百数十年間を足利政権の時代とするには少々無理があるように思われる。
つまり、その初期は、北朝政権(実体は足利政権といえる)と南朝政権が激しく対立しており、各地の有力守護大名も足利将軍の勢力下にあったとはとても見えない。従って、明徳三年(1392)に南北朝が統一されるまでのおよそ六十年間ほどを南北朝時代とする説も有力である。
終末期にしても同様で、応仁元年(1467)の応仁の乱の勃発を戦国時代の始まりとする説は有力であるが、これ以後を戦国時代と区分し、さらにその後半部分の安土・桃山時代を一つと時代とするならば、室町時代はさらに狭められる。
これらの前後の時代を除いて、南北朝の統一から応仁の乱の勃発までを室町時代と限定するとその期間は僅かに七十五年ほどということになるのである。
そして義政は、この時代区分さえ確定の難しい混乱期の足利将軍なのである。
足利義政は、永享八年(1436)、六代将軍義教の次男として生まれた。母は日野重子である。
父の義教は、室町幕府の全盛期を築いた三代将軍義満の子であるが、兄義持が後を継ぎ弟の彼は出家していた。ところが、将軍職を引き継いだ義持の子義量は十九歳で没したため再び義持が政権を担っていたが、後継者を定めることなく亡くなった。
そのため後継者選びは難航し、結局石清水八幡宮におけるくじ引きにより四人の候補者のうちから義教が将軍職に就いた。
新将軍となった義教は、混乱のなか沈下を続けていた幕府を浮上させるべく、有力大名たちにも強い態度で臨んだ。政治手腕に優れていたようであるが強引すぎる面もあり反感を受けることも少なくなかった。
その結果、有力家臣であったはずの赤松満祐に殺害されてしまったのである。嘉吉の乱と呼ばれる事件である。
その後は急遽嫡男義勝が継いだが何分まだ八歳であった。管領畠山持国ら幕府首脳は政権維持に努めたが、足利将軍の権威は大きく失われていった。しかも、二年後には義勝も死去してしまったのである。
その後を継ぐことになった義政は、この時九歳。義勝と変わらぬ政権体制が敷かれたものと考えられるが、いかなる政策よりも義政の健康が何よりも優先され、一日も早く次代の将軍を誕生させることが最優先の課題となった。
「絶対に死なせてはならない」という目的のためには、おのずから義政の周囲を固めるのは女性が中心となり、過保護を絵にかいたような環境が築かれていった。
幕府政権の体制は義満の時代に確立されていて、管領以下の有力大名たちで運営され、義政は先祖の供養などの祭礼などの行事が中心となり、身の回りには見目麗しい女房たちが仕えていた。
その中の第一のお気に入りの今参局(イママイリノツボネ)は、もともと乳母であったがいつの頃からか一番の寵妃となり女の子を儲けている。
義政を語る時、必ずといっていいほど「政治的には無能」と表現されている。
しかしそれは、環境が成させたもので、無能というより関心や指導を受けることなく成長したためと考えられる。
そういう将軍のもとに日野富子という女傑が正室として嫁いでくるのであるから、数多くの軋轢やドラマが誕生するのは当然のことである。残念ながらそれらはここでは割愛することとなる。
京都を語る時、東山文化を避けて通ることは出来まい。義満の築いた北山文化は絢爛豪華であるが、義政が育て上げた東山文化は奥深いものを感じさせる。
一般に、文化の繁栄期は、政治的・経済的繁栄期と一致するものである。悲惨な生活や暗黒期といわれる時代からも優れた芸術や文化は誕生するが、何々文化と呼ばれるほどの繁栄に至らないのが歴史上の事実である。
もしこの仮定が正しいとすれば、東山文化と呼ばれる文化は極めて例外的なものであるということになる。そして、しかも、少なくとも政治的には落後者のように言われることが多い、義政がその担い手なのである。
銀閣寺の醸し出す幽玄さは、現代の人々を魅了してやまないが、義政の生き様やその時代もまた不思議な魅力を持っているのである。
( 完 )