雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  花の御所

2013-01-02 08:00:42 | 運命紀行
          運命紀行

             花の御所


足利義満が「花の御所」と呼ばれることになる豪壮華麗な邸宅の造営に着手したのは、北朝暦永和四年(1378)、彼が二十一歳の時である。

義満が父義詮から譲り受けていた三条坊門の邸宅は、武家の棟梁らしく質素なものであった。幼くして足利氏の棟梁となった彼は、この頃すでに天下掌握の自信を固めていたのであろうか。
義満が新しい邸宅の地として白羽の矢を立てたのは、北小路室町にある院の御所の跡地を申請して賜ったもので、広大な土地に鴨河の水を引き入れ、一町(百米四方ほど)をこえるほどの池を作り、華麗な公家風の殿舎を数多築き、庭には、近衛家の糸桜をはじめ有力公家たちの邸宅から銘木を所望し、四季の花木や銀杏や槇などで埋め尽くされ、短期間のうちに「花の御所」と呼ばれる景観に造り上げていった。

永徳元年(1381)三月、新装完成した邸宅に、後円融天皇の御幸を仰ぎ、天盃を賜り、舞楽・蹴鞠・和歌御会・詩歌管弦など壮大な祝宴が開かれた。
この年の六月、二十四歳の義満は、父祖の官位を超える内大臣に任ぜられた。そしてこの頃から、家司や職事の規模を摂家と並ぶように整備していった。十一歳で、武家の棟梁である征夷大将軍に任じられている彼は、公家社会においても頂点を目指し始めたのである。

この「花の御所」で政務を執り始めた義満は、その地名に因んで室町殿とも呼ばれるようになる。
やがて、「室町殿」という呼び名は、足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた「花の御所」をも指すようになり、今日私たちがごく自然に用いている「室町幕府」あるいは「室町時代」という用語は、この「花の御所」に由来するのである。

そして今一つ、足利義満という人物を語る上で避けることのできない建築物がある。金閣寺である。
現代の京都観光において、旅なれた人であれ、初心者であれ、京都の観光地を語る上で「金閣寺」を除くことは出来ないであろう。この華麗な建物もまた義満ゆかりの建物なのである。

義満が、西園寺氏が代々所有していた山荘、北山第を譲り受けて大改装に着手したの、応永四年(1397)、彼が四十歳の時である。
この北山第は、鎌倉時代の元仁元年(1224)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を建築したことに始まる。その後子孫は西園寺氏を称し、鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務め朝廷内で勢力を保っていたが、鎌倉幕府滅亡直後、当主の公宗が後醍醐暗殺の謀反に問われ処刑されている。
このため、西園寺氏は没落し、西園寺も山荘もしだいに荒れていっていた。

応永元年(1394)に義満は征夷大将軍職を譲り、「花の御所」の当主は新将軍が引き継ぐことになり自らの居住地を、この西園寺に着目したのである。
山荘を含む広大な寺領は、義満の河内国の領地と交換したと記録されているが、当然権力にまかせての入手であることは当然と思われる。

新たな北山第の造営には、米百万石を越える巨費が投入されたという。
そこには、義満の居館である寝殿、仏教施設である護摩堂や七重塔など多数が配置され、衣笠山を背景とした鏡湖池のほとりには建物全体に漆を塗り金箔を張った三層の楼閣・舎利殿が燦然と輝いていた。
「金閣」の誕生である。

この北山第は、将軍職を譲った後も実権を握っていた義満の政庁となり、政治・経済・文化の中核となっていった。世にいう北山文化の全盛期である。
およそ十年後、義満が没すると義持が移ったが、翌応永十六年(1408)に北山第の一部を破却して三条坊門第に移っている。その後、義満未亡人北山院の御所となっていたが、応永二十六年(1419)に北山院が亡くなると、舎利殿以外の建物の大部分が解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。
その翌年、北山第は義満の遺言に従い禅寺となり、義満の法名「鹿苑院殿」に因み鹿苑寺と名付けられた。

昭和二十五年(1950)、鹿苑寺舎利殿「金閣」は放火により焼失してしまった。惜しむ声は高く、昭和三十年(1955)には再建され、再び燦然たる姿を今日に伝えている。
北山文化の栄華も放火による焼失という屈折も包み込んでいるかのように、水に映る金閣の姿は今もなお荘厳である。


     * * *

足利義満は、北朝暦延文三年(1358)八月、二代将軍義詮の実質的な嫡男として誕生した。母は側室紀良子である。
義詮には正室に男子がいたが三年前に亡くなっており、後継者としての誕生であった。
室町幕府の創設者とされる足利尊氏は、義満誕生の百日ばかり前に死去している。
三代将軍を約束されての誕生ではあるが、幕府の体制はまだ盤石といえるものには程遠いものであった。

先立つ鎌倉幕府の三代将軍は源実朝であり、後代の江戸幕府の三代将軍は徳川家光であるが、彼らと室町幕府三代将軍足利義満を比べてみるとなかなか興味深い。
実朝は、時には悲劇の将軍とも呼ばれるように、ロマンに満ちてはいても武家の棟梁としてはいささか柔弱さが過ぎるような感じを受ける。
反対に家光は、幼少の頃は気弱な面があったとも伝えられているが、生まれながらの将軍であることを強く認識した上での強権政治で、徳川長期政権の礎を築いている。

しからば、義満とはどういう人物であったのだろうか。
義満は風流豪奢を好む性格であったと評されることが多いが、実際に花の御所や北山第は贅を尽くした豪華絢爛な造営で知られているが、同時に、和歌・連歌・管弦、あるいは蹴鞠や舞楽などの公家文化の復調に寄与し、禅宗文化の興隆に寄与し、さらには観阿弥・世阿弥という天才を出現させて能を舞台芸術に完成させたのも義満の後見あってのことといえる。これらの北山文化ともいわれる文化面の貢献が目立つが、そこに脆弱さなどみじんも見られない。
むしろ、諸豪族を押さえ、南朝を押さえ、公家社会さえ押さえこんでいった剛腕さこそが、彼の特徴のように見えるのである。

義満の父二代将軍義詮は、「太平記」では愚鈍な人物として描かれているが、決してそうではなく父尊氏と共に戦いに明け暮れ、それらを生き抜き足利政権の成立に少なからぬ功績を残した人物である。また、父尊氏と同様文才にも優れていた。
しかし、三十八歳で世を去った時には、義満はまだ十歳であった。
翌年には三代将軍に就くが、足利政権はまだ幕府というほどの基盤を固めていたわけではない。父は死に臨んで、幼い嫡男の将来を管領細川頼之に託したが、頼之は幼将軍をよく補佐し、足利将軍の権威を高めることに尽力したようである。義満が、時には尊大な性格であったとも評される一因には、頼之の過保護があったのかもしれない。

義満が政治の実権を握るようになるのは、十五歳になって印始(インハジメ)の式を行い、自ら花押の使用を始めてからで、以後五十一歳で没するまでの三十五年間に渡って足利政権を盤石なものに仕上げていったのである。
その前半は、南朝勢力との戦いや山名氏など有力豪族との争いに奔走したが、ついには南朝勢力を制圧し南北朝廷の統一を実現させている。
また、室町幕府という呼称が義満が造営した花の御所に由来することはすでに述べたが、室町幕府の政権体制が武家政治の形態としてその多くが徳川幕府にも影響を与えていることを考えれば、政治面の非凡さも高く評価されよう。

現在私たちは、金閣寺(鹿苑寺)の美しさに足利義満という人物を思い浮かべることが多いが、その生涯は、波乱に満ち、中世におけるわが国の戦乱・政治・公家社会・文化などに大きな足跡を残した歴史上の第一人者の一人であることは間違いあるまい。

                                      ( 完 )





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