金沢の「芝寿司」を知る(中日新聞記事から)
子どもの頃、お祭りの前日には押し寿司をつくる習慣がありました。家族全員で作る「柿の葉寿司」は、今も思い出す家庭の味でした。甘酸っぱくとてもおいしいのです。それも、作らなくなって何年になるか。今や私にとって、押し寿司というと「芝寿司」です。手軽なせいか、見ると食べたくなる、ついつい買ってしまう。こだわりでしょうか、本物の笹を今も使っている。「食の感触」がいつまでも変わらないのがいい。
金沢の「芝寿司」を知る(中日新聞記事から)
子どもの頃、お祭りの前日には押し寿司をつくる習慣がありました。家族全員で作る「柿の葉寿司」は、今も思い出す家庭の味でした。甘酸っぱくとてもおいしいのです。それも、作らなくなって何年になるか。今や私にとって、押し寿司というと「芝寿司」です。手軽なせいか、見ると食べたくなる、ついつい買ってしまう。こだわりでしょうか、本物の笹を今も使っている。「食の感触」がいつまでも変わらないのがいい。
犀川沿いの神社で見た絵馬
金沢は神社仏閣が多く、時間があればちょっと寄り道(道草)をします。前にも書きましたが、私は宗教心が薄いのですが、宗教に満ちた場所がやたら好きなのです。特に人のいない境内とか、薄暗いなにやら異様なにおいのするところに惹かれるのです。子どもの頃から空想癖があり、思ったことがまぶたの裏に映像化されるのです。そのことで困ることも多いのですが、絵描きには都合がいいこともあります。いや、だから絵描きになったのかも知れません。犀川を歩いても興味を惹くものは少ないのですが、今日は絵馬を紹介しましょう。(さしさわりがあるといけませんので)神社の名前は書きませんが、見てくださいここの絵馬はなかな勇壮でいいでしょう。古代、馬は神の乗り物と考えていて、神に祈願するときは生きた馬を神社に奉納していたらしい。しだいに神に生馬を奉納できない人が、木馬や馬の絵を描いた木板を奉納するようになり、室町時代以降は、馬の絵でないものも「絵馬」と呼ぶようになったそうですよ。絵馬にも、それなりの歴史があるのですね。いけない、あの馬に乗ってるのは私ではないか?ってね。
田淵俊夫さんの絵「秋立つ」「めひしば」
日本画家の田淵俊夫さんは、何気ない植物(草むらなど)を描いています。私の好きな画家の一人です。田淵俊夫さんは、江戸川の河原を歩きながら、目にした雑草をスケッチするそうです。それらのスケッチを手がかりに、作品を構想していくのです。目の前の草むらを、ただ模倣するのではありません。考えてみれば、私たちは何気ない自然から多くのことを学んでいるのです。田淵俊夫さんの絵は美しい。自然の中に、ものごとの真理があることを再認識させられます。「雑草を描くことは、直接自然に触れることです。」これは田淵俊夫さんの言葉です。
彫刻家ワグナーの「哲学の庭」(中日新聞の記事から)
彫刻家ワグナーさんの「哲学の庭」は、私たちの間でも「再評価」されてきています。ワグナーさんは、ハンガリーから日本の益子に移り、永住した彫刻家です。益子の自然とおだやかな生活を愛し、そのなかで創り続けたのが「哲学の庭」です。東洋の哲学にも深く影響されたその作品は、高潔なたたずまいを見せています。記事の中にも書かれているように、世界は危険な様相を見せている。民族紛争が続いていますし、宗教の対立も際だっています。だから「再評価」なのかもしれませんが、私たち美術・音楽・演劇など表現活動をしているものには、国家意識があまりありません。もともと、平和の中でこそ活動できるものですから。それぞれの民族の歴史文化は尊重しますが、それが戦いの要因になるなんて、ましてや救いを糧にする宗教を担いで戦うなんて、表現に理想を掲げる私たちには、ないのです。ワグナーさんの作品を、何かのシンボルに担がないでほしい。それがたとえ「平和」であっても。
ルドン(redon)の絵の魅力
この絵は、左が「海底の幻想」右が「夢」というタイトルが付けられています。ルドンの絵は神秘的だとよく言われます。人も、植物や動物と同じレベルで配置されている、この象徴的な画面からそういわれるのでしょう。若い頃は木炭を使っていましたが、触感のにているパステルを使い始めてからは、画面がずいぶん美しくカラフルになりました。生命の神秘に興味を持っていたルドンは、水彩で描いた絵の上にパステルをのせているようです。デリケートな画面からは、今にも命の鼓動が聞こえてくるような感動を覚えます。初めてルドンの絵を見たときは、これほど美しい作品はないと思いました。
ハーゼンクレーヴァー「感傷的な娘」
今日は時間がありますので、絵画の表現について書きます。若い頃、ロマン派の絵画展を観ました。ひととおり観た後に、どうしても気になる作品がありました。それがこの作品です。絵描きなら一度は夢見る「少女のポーズ」が、そこにあるのです。これに近いイメージで絵を描きたいと思ったことが、私にも一時期ありました。月を眺めるなら窓越しに、斜め後ろのポーズで物思いにふける少女。それは映画のワンシーンのように共通している場面です。だからこそ、絵にしたときに通俗的になるのです。絵描きの危うさがいつもそこにあるのです。何をどのように描いてもいいのですが、描いてる本人の意識がそれを拒否するのです。何故だと思います。たしかに一枚の絵と、時間の経過の中で表現する映画とは自ずと違うのですが、それだけではないのです。造形上の課題がそこにはあるのです。難しくはありません、この絵を見ればわかるのです。月を見ている娘の後ろに、あなたが居ることが、絵画の目的ではないのです。若き頃、何故か私はこの絵の写真を買いました。そして今も、大切に持っている。
童話「ひげよさらば」上野瞭・作の紹介
野良猫たちが織りなす夢と冒険の物語です。記憶喪失の猫ヨゴロウザ(主人公)が、ナナツカマツカの丘に迷い込むところからお話が始まる。正義感の強いこの野良猫が、さまざまな出会い(場面)の中で、自分を確かめようと試みる。正義感が強すぎると、猫の世界でも、つらい状況に立たされることが多いのですね。真正直に対応すると、心も体も傷だらけになる。この要領の悪さが、私とダブってしまい、ついつい読みながら苦笑してしまう。小学生向けに書かれたものでしょうが、魅力ある1冊です。
絵本「あかいくつ」の紹介
この絵本も、神沢利子さんの文に岩崎ちひろさんが絵をつけています。教会にはいてきてはいけない赤い靴をはいてきたばかりに、踊り続ける少女のお話です。貧しい少女がはいた赤い靴は、何かの象徴でしょうか。この絵本は、アンデルセンのお話を元に創られました。アンデルセンのお父さんは靴の修理をしていましたが、家は貧しかったそうです。そこで育ったアンデルセンがつくった「哀しい物語」です。
東茶屋街を歩く
金沢の浅の川周辺を歩くと、卯辰山近くに情緒ある街並みに行き着く。ここが観光客が必ず訪れる東茶屋街です。金沢市は、ここをさらに整備していく計画です。金沢市には、時代を感じさせる美しい建物が多い。特に浅の川周辺を歩くと、それらの一部を目にすることができます。卯辰山を少し上の方に歩くと、古いお寺をいくつも見ることができますが、その多くは荒れ寺と言っていい。「この荒れ方がいいのだよ」という友人もいますが、このあたりもいづれ整備されるものと思われる。
絵本「ひさの星」(斉藤隆介・文+岩崎ちひろ・絵)の紹介
絵本の紹介が続きます。この絵本「ひさの星」は、哀しい物語が描かれています。絵は岩崎ちひろさん、淡い色調で描かれる一人の少女のお話です。絵本は、子どもたちのために書かれるのが通常ですから、あまりに哀しいお話は嫌われる傾向があります。この絵本は数少ない例外になります。お母さんたちには人気がありますし,実際よく買われています。おそらく、岩崎ちひろさんの絵がすばらしいからだと思います。子どもたちが生き生きと描かれていますし、主人公の少女の表情に心打たれます。