スキラ社の画集は大きく分けて、小版・中版・大版の三種があります。『小版』は、普及版として刊行されていました。わたしは古書として購入していましたが、発刊当時も手に入れやすい価格だったと考えています。写真製版で別刷りされた『図版』が1枚1枚手作業で貼り付けられています、丁寧な製本現場を感じさせる『美しい画集』です。『中版・大版』は、資料も多く挿入されていますし、美術史からの視点で編集されたものも多い、テーマ(主題)のある充実した画集になっていると思います。
小松市には、歌舞伎十八番『勧進帳』で知られる史跡『安宅』があります。子ども歌舞伎の指導に、先代市川團十郎さんがよく小松市を訪れていました。・・・その史跡『安宅の関』に特設舞台を組み、歌舞伎十八番『勧進帳』を公演することができれば・・・この『小松市の夢』が実現しました⇒http://www.勧進帳小松.com/。市川海老蔵さん(武蔵坊弁慶)と中村獅童さん(富樫左右衛門)、ふたつの鬼才が、名優競演が、安宅の地で観られることになりました。日本海から吹きあがる風を背景に、鍛え抜かれた『歌舞伎の美』に魅了されることになります。
ブラッサイが遺した書籍・写真・メモから、この時代の雰囲気が詳細に読み取れます。わたしは、卓越した企画力と編集能力をアルベール・スキラに覚えたのも、これらの資料が発端でした。パリという街(異端の文化人が集まっていた街)が果たした役割も大きいのですが、ピカソの隣に住居を構え、銅版画・石版画などの道具を揃え(工房を設置)、画家だけでなく詩人を含めた文化人たちの交流の場を積極的に提供してきた、アルベール・スキラのキーマンとしての能力を高く評価したい。
アルベール・スキラが、最初に企画・編集した本「ピカソが描いた銅版画30点を収めたオヴィッドのメタモルフォーシス」は、美術書の歴史において特別な本になりました。若いアルベール・スキラと50歳のピカソの情熱が結実した美しい本でした。その一年後の1932年には、アンリ・マティスのオリジナル銅版画29点を収録したマラルメの「poesies」を出しています。さらに1933年に、「芸術誌ミノトール」が発行され、シュールレアリストの雑誌が誕生した。ブルトンとエリュアールは、ピカソ、マティス、ブラック、ドゥラン、ローランス、ブランクーシ等の作品だけでなく、ラカンの初期の著作、黒人芸術に関するミシェル・レリスの考察、そしてマン・レイとブラッサイの写真も出版した。アルベール・スキラが果たした役割は大きく、世界の芸術の「意識変革」を加速させたといってもいいぐらいです。
「アルベール・スキラ」といっても、知らない人が多いと思います。
わたしたち(画家やデザイナー)が若い頃、本屋さんの書棚には「美術書」が少なく(日本の出版事情のせいか)、洋書(画集や雑誌)から学ぶことが普通でした。美大図書館に加えて、古書店に足を運ぶ回数も次第に増えていったことを、懐かしく思い出します。
その洋書(画集)の中にスキラ社のロゴ(SKIRA)がついた本があり、わたしはすぐに魅了されました。シルヴァン書房(京都)で、友人の長谷川さん(画家)に「このシリーズいいよ」と、それが1934年創刊スキラ社の「Les Trésors de laPeinture francaise」でした。アルベール・スキラが起業した出版社には、「芸術を美術館から図書館へ」というスローガンがありました。写真、複製、インク、特製の紙、印刷、製本に至るまで細やかな配慮が施され、すべてにクオリティの高さが追求されていました。しかも、ここから出版される美術書はフルカラー(当時は少ない)でした。
河出書房から出版された普及版の画集(正方形に近い)は、スキラ社の画集をモデルにしていると言われます。1973年に亡くなってから、すべての版権が大手出版社(アメリカ)に移り、日本でも美術関係の本が充実するにつれ、次第に忘れられていくことになります。