中村孝平さんの個展から
先日、京都に立ち寄った折に、中村孝平さんの個展会場を覗いてみた。和紙に鉛筆、丹念に制作された作品を少ない光源が照らし出している。地下鉄の長い通路を駆け抜ける、側面から鉛製の活字が転げ落ちる、そういった背景をふと見てしまう、感覚が優先されている表現行為に先はない。わたしたちは、時代状況から付かず離れず、適度な間隔を測りながら生きている。それでも目測を誤り、ぶつかりつまずきながらの走行になる。子どもの頃から何気なく手にしてきた鉛筆を、わたしたち絵描きは手馴れた用具として使い続けている、魅力的な用具として。中村孝平さんの鉛筆は、時間の集積とその意思の痕跡を、魅力的なマチエールとして見せてくれる。カメラで捉えるには難しいその表現に、戸惑いがあるとすれば、その素材が見せる危うさにあるのかもしれない。そして、そのことが「時代状況」そのものなのかもしれない。
大津の「三橋節子美術館」を訪れる
イタリアの建物と彫刻
日本は「木と紙の文化」、ヨーロッパは「石の文化」とよく言われます。NHKで法隆寺の「大改修」の特集をしていましたが、それを見ていて「ほんとうにそうだなァ」と思います。この写真は、イタリアの有名な教会ですが、このような石の建造物は風雨に強いですから、補修ぐらいで基本的には「放置」する。石と木の違いを耐久性でみるとそうなりますが、視覚(感覚)が受ける違いは相当に大きい。自然の力に負けまいとしている(周囲に抗っている)ように、わたしには見えます。このエネルギーが、ヨーロッパの歴史と文化を、そのままの姿で見せてくれています。悲しいまでに、それは力強いのです。
尾道のアメリカ雑貨店
「いっとく」さんの並びに、アメリカ雑貨店があります。ここは時々寄りますが、わたしにはあまりに似合わない。シャツの柄に合わせて、帽子でもと思い頭にのせると、これが似合いすぎて、かえって変です。まあ、ファッションなんてこんなものです。暇をもてあましている若い店員と世間話などして、そそくさと出る。
尾道の「いっとく」さん
尾道は好きな街のひとつで、よくふらりと行くところ。わたしもお酒が好きで、飲み屋のはしごもする。当然、酔うことでのとらぶるもあります。だから、元大臣中川さんの気持ちもわからないわけではありません・・・。特にイタリアの街ときたら、飲まずにいられないところです。尾道駅の裏にある、この「いっとく」さんも気になる1軒ですが、何故か横目で見やりながら、気がつくと前を過ぎている。昼日中、そっと覗いてみたりする。どうしてだろうか、考えてみたりする。
尾道を歩く19(紙芝居)
尾道の商店街を歩いていると、紙芝居をしているではないか。懐かしさも手伝って、ついついお終いまで見てしまいました。落ち着きのない子どもたちも、それなりに楽しんでいます。いい情景ではありませんか、このようにお話を聞くのも、記憶に残るものです。
尾道を歩く18(古澤紙店)
尾道駅を降りて、左のほうへ2分ばかり歩くと、アーケード商店街に入ります。そこには、古き良き時代が偲ばれる店がいくつもあります。「古澤紙店」もそのひとつです。女将さんと話し込んでいたら、ついつい時間を忘れてしまいます。尾道の街を楽しく知るには、このような方と話すのがいいのです。紙のことはもちろんですが、尾道の文化にも詳しく、わたしの疑問にも丁寧に答えてくれてることがうれしいのです。若い人には、画材を買うだけでなく、雑談をすることで得られる「知恵」も買ってほしいものです。
てっぺんに残した 柿は 神のもの (寺本つねお)
昔は、どこの家にも柿の木がありました。秋の風景には欠かせないものですが、「のどかさ」の象徴でもあり、見ていて飽きないもののひとつです。それにしても、この柿の木は大きいです。見上げていると、寺本さんの「てっぺんに残した 柿は 神のもの ・・・」などが、さわやかな風とともによぎります。