この道の果てまで・・・

ただ純粋に ただ一途に歩む時
突如として それまでとは まったく違う
次元の異なる大地が あなたの目の前に姿を現す。

★あなたの愛が 永遠の愛と成る為に 280★

2007-06-10 14:44:30 | Weblog


◇シンプルな事実◇





私が本当に伝えたいのは
昨日伝えた そんな愛ではなく。


全面的な 理解
すると 必然的に やってくる信頼
またもや 必然的に やってくる時の この愛。

例えば
私が 1人の人を 愛する。

その時 
全存在を
かけた愛ならば

部分的な
愛ではなく
全面的な 愛ならば
私は まったくの別人と化す。

その
愛した人が 私
そして 私が その人に成ったなら
一挙に 此処(真理)に
到達してしまう。

けれど 
人は そうはしない。

その 
変わりに自分で
自分を騙す様な 小細工をしてしまう・・・。

外側では 
全面的な愛の様に演じて・・・
表面的な部分では そうしておいて
 
自分自身の 
その外側の
振りの 演技の部分を見て

自分は 
愛している
自分は 全面的に 
愛しているんだと思い込む。 


それは
まだふりでしかない

では
その事に
何故 気づきにくいかと言うと

この
外側と言うのは
普段の思考領域ほど
外側ではない。

調度 中間点
この奥に 一番の奥に
本人には まるでご存知ない

無の領域
空の領域がある・・・。

普段の 
日常の生活で
人と接している時の
がっちりと自我を守っている
一番の外側の部分に 比べたら
この中間点は 内側に属する。

ところが
本当の内側ではない

一番外側に比べたら
ずっと奥に入っている。

だから
それはまさに 本当の事
内なる 叫びの様にも聞こえる。

その声に 
忠実に従がうと
皆の言う所の 愛は起ってくる。

この中間点の
心と言う部分に 従がって行けば
それが起こる。

そして
これを愛と 思い込む
それは 部分的な 愛でしかない。
我欲愛 
利己的愛でしかない。

何故なら
これでも 巧妙にコントロールできる
範囲が 残っていて
人は それをちゃんとする……。

何もかも 
全部 その場で捨てられる事。

持っているものの一切
手の中に 握っている一切だけを
捨てるんじゃない

その手が
ついている
自分自体をも捨てるという感覚だ。

一挙に
そうした時に
それは 起こってくる。

その時
全面的な愛
コントロールも 何も効かない
生まれて始めて
体験する本当の ひとまとまり。

ひとつの考えが
こっちにあって
もうひとつの考えが あっちにあると
言う様に,バラバラじゃない。

その バラバラの考えの
出どこまでも 捨てた
まったくの無 何にもない。

今までは
あっちにあった考えが
こっちの考えを
こっちの考えが あっちの考えを
と言う様に

考え自体が
考え同士を
互いに縛り合って
押したり 引いたり
コントロールし合っていた。

そんなものの
出どこを拾ててしまうと
もう 全面的に違った人になってしまう。

これが愛!
あなたは 
どの考えでもなかった事に気づける。

そして
あの内なる叫びは
満たされた事のない
考え自体から出ていた。

そんなものに
中間点に合わせていたなら
狂って来てしまう

だから
人はそれが恐くなって
中間点である この心から
また 一番の外側である頭の領域に
戻ってしまう・・・。

本当の愛は
この中間点を達し 一番の奥の
「空」の領域に出た時起こる。

それはもう
誰を 愛すというものじゃない
その人の前に来た人なら
誰でも愛す。

選ばない
特別な人は 居ない
ひとたび 空の領域に出たら。

そこに 
溶け去ってしまったら
それは 愛の塊りになってしまう。

理解の塊
信頼の塊
受容の 塊りに成ってしまう。

「空(くう)」 空(から)だったら
その中に 吸い込まれえる。

それは
ひとつの引力だ。


何かしら在ったら
それ自体が 邪魔をして
入いる事は 不可能だ。

本当の 
愛が起こっていたら
「空」になる。

1人の女性を愛したら
私は その女性であり
その女性は 私となる。

もう 
ふたつではない 
ひとつだ 一体だ
これは 何も 人問だけにじゃない。

仕事を
している時は 仕事だ
これで 一体になれている。

「仕事をしている人」だとしたら
「仕事」と「仕事をしている人」
そのものと 自覚の ふたつになっている。

駄目だ
自覚が邪魔をしている。

御飯を 
食べている時は 御飯
御飯を 食べている人じゃない。

酒を
飲んでいる時には 酒
常に ひとつだ そこに自覚など 無い時

それを している時は
それと同体で 
ひとまとまりになれてしまう。

だって
「無」は「空」は 何にでも成れる
どこか一ヶ所に固まって
それを持ち運んだりしたら
バラバラになってしまう。

対象物は 
人だけじゃない
それと いつでも同じに成れて
そして違う。

すると
ただの「空」なんかじゃない
100% 常にそこに生きられる。

今 
起っている事の中に
何ひとつ 持ち歩かない。

いつも 
空(から)っぽで 流れていて
そして 満ち満ちている。

自由だ。


自由と言うのは
こちらは その対象となるものに対して
執着しない
執着したくても 出来ない
どっちでも いいと言う事。

無選択だ 
選ばない
あちらが 選んでも
こちらは 選ばない。

だって
「空」に 到達する以前に
真理となる以前に

そんなものは
全部 放棄してしまっているのだから。

ここで
選ぶ事をしたり 執着したら
あなたは まだ空に至っていないという証拠だ。

すると あなたは
そんな事をしていたら
愛は壊れてしまうと思うだろ?

違うよ!
愛は 理解なしでは 起こらないし
理解は 自由を与える。

もしも 
縛られていたら
発散が 必要になる。

自由じゃないから
自由が欲しいし
自由に したくなる。

もし 自由でいたら
自由に したくなどならない。

だって
自由なのに
自由にしたり したかったり
する必要も 訳もない。


それを
山にたとえると……
ひとつの山を 征服するのは 難しい。

とても
出来るものじゃない
人とは 調度 この山の様なものだ。

あなたが
ひとつの山を 征服したかったら

あなたは 
まず 
あなたと言う山を
征服しなければならない。

その山さえ
征服していなければ
他の どの山も征服する事など 不可能だ。

あなたは
あなたと言う山の一部分
ほんの 表面を征服しただけ
理解しただけだと言うことを
理解しなければいけない・・・。

そうだとしたら
他の山の理解も
多分 表面だけの事だろう。

山の表面を 
見ていてごらん
コロコロ変わる
まるで カメレオンの様だ。

季節が来ると
緑が青く
また 
季節がくると 茶色に

そして 
無くなる
あなたは 山なんか 理解しちゃいない
それは 葉っぱだよ 山じゃない。

人で言ったら
それは その人の考えだ
それも その人の あるひとつの考え。

その人なんかじゃない。

それは 木だ。
それは 土だ
それは 岩だ
それは マグマだ。
山なんかじゃない 山が消えてしまった
と 突然 山など どこにも
無かった事に気づく。

まったく
無かった
色々な物の集合体を 山と呼んでいた。

あなたも同じく
色々な考えの 集合体。

それが
それ自体で
あなたと言う感覚を あなたに与えていた。

あなたなんて どこにも居なかった
辞書で 空というところを
引いてごらん……(空こそ あらゆるものの
本来の姿であると言う 仏教の基本的な考え方)とある

これは
考え方なんかじゃない。

真実だ
ブッタは 遥か2500年も前に
現代科学がやっと
辿り着こうとしているこの領域に

内観と言う
自己の内側を見る方法を使い
やすやすと見破ってしまっていた。

あらゆる
万物の本未の姿は
「空」だ
これ以上の真実は どこにもない。

私は
この真実を通過して
あらゆる万物の 源に帰りつき

それと 
一体だという所まで
まずは あなたを連れて行きたい。

この地点で
始めてあなたは あなたを
そして それ以外のものを 理解出来る。

愛が起こる
無と無
実体と 実体の結びつき
虚飾なるものは 一切含まれていない。

だから 
壊れうるものは無い
何もない空と空が 触れ合い
そこで 無くなる物が
何か有るだろうか・・・?

何も 無くなりはしない
無くなるものなど何ひとつ無いのだから。

そして 
終りなき愛が起こる。
空間は 広がるばかりで 終らない。


終りなんて無いんだ。


永遠の愛
永遠の理解
深まる一方だ 止まらない。