添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演中を学びの友の方がカメラに収めたものですが、
荘厳されている花々も恩師もご覧の様に歓喜に躍動しています。
恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第一章 或る愚か者の生涯
◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆
十六歳と一か月の時から二十歳までの間は船に乗って、
ただがむしゃらに働きました。
給料の封は切らずに故郷に送っていました。
その間、旅客船でしたからチップなどを結構いただいていたので、
お小遣いにも困りませんでした。
船を降りる時、当時の金で三万円ぐらいあった貯金も
父母に全部差し上げました。
初めて故郷を後にして一般社会に出てみると、
それまでには考えられなかったような厳しい環境のもとで、
いろいろの体験が待っておりました。
親元にいたらなあと思うことがよくありました。
まず、メスルームボーイという船の下士官の身の回りの世話をする
見習いの仕事から入りました。
「メス!メス!」と呼ばれて人に使われました。
長崎の三菱造船所に、戦後まもなくの昭和二十三年にできた
新造船で瑠璃丸と名付けられた
関西汽船の客船がありました。
その船を受け取りに行くのに、乗組員として乗船したのが最初でした。
船の中の狭い社会で上下の人間関係でずいぶん苦労をしている
仲間の姿を見るにつけて、たいへん同情させられたり、
また人の心というもののマイナス面を多く見せられる場面にも遭遇しました。
私はその頃より人生について人間について疑問を持ち始めました。
下船してから染物工場に住み込みで就職しました。
泉大津というところにあり、長姉の嫁ぎ先でした。
そして、姉の嫁ぎ先の染物工場に勤めるかたわら自然と覚えた
ラジオの組み立てのアルバイトでは、
給料以上のお金を得ました。
昭和二十七年の頃です。
姉婿の弟がラジオをさわるのが好きでした。
近所の古いラジオを修繕するといって持ってきて、つぶしてしまったのです。
どうにかならへんかというので、大阪の日本橋の電機の問屋に行って、
ラジオのキットを買ってくることにしました。
組み立て図や説明書も付いていました。
当時は千円程でした。
幼い頃、鉱石ラジオを作ったことがありましたので、
簡単に組み立てられました。
そのキットを利用して壊れたラジオをもとに戻すと、
すばらしい音が出るようになったので、
その噂を聞き付けて近所から次々とラジオを組み立ててくれという
依頼が来るようになったのです。
箱に入れて千五百円ぐらいで組むことができて、それが三千円で売れ、
口コミで注文が殺到しました。
儲かってしようがなかったのです。
一か月の給料よりもこのアルバイト収入の方が余計に入りました。
蓄音器を組めば一万円以上にはなり、さらに高い収入に結び付きました。
何年間かはそんなことをしていましたが、そのうちナショナルや
日立などのメーカーから完成品のラジオが店にでてきたので、
きれいさっぱりやめました。
もう少し頭がよかったらテレビの世界に入って電気関係で
儲けていたかもしれません。