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浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2021-02-18 00:35:16 | 明来闇去

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る


不思議なユリの現象
自然現象であったとしたなら、ユリの蕾は必ず一つずつ別々に、
時間の間隔をおいて開花するはずです。
それが同時に全部そろって咲くのですから、奇跡としかいいようがありません。
「今話させてもらったことを神様がその通りだとおっしゃって、その正しさを
証明してくださったのです。
もし、お話が間違っていたら、こんな現証は見せていただけるはずがありません」と、
お話させて頂きました。

そういう不思議なことを見せていただくことはよくあります。
浄心庵を訪れた方は必ず目にされるでしょうが、やはり講演中に百合の花が
垂直に立ってしまったという不思議な現証の写真が額に入れて飾ってあります。
ふつう釣鐘状の花は上を向くことはありません。
上を向いて咲くと花の中に雨水がたまり腐ってしまうからです。
それが茎と同じ方向にピンと上を向いて咲いています。
茎とオシベが一つづきのように直立をしています。
正しい神理を語る時は、神の力が言葉の中に宿ります。
これを言霊と呼びます。

その言霊に自然の植物も動物もすべて感応してくれます。
念力でもなければ、霊能力でもないし、
また神様以外の霊的な存在の応援による力でもありません。
自分の力で起こしているものではなく、
神様が証しを見せてくださっているのです。
山に入って護摩を焚くとか、何もそういう厳しい行をしなくても、
日々の生活の中で正しい法をよりどころとして調和された
安らかな心で生きていけばいいのです。
もっと具体的に言うと、反省と与えられた環境への感謝です。
無償の愛の実践です。

ウィスキーの空き瓶にたまった皆さんの愛の真心の募金を寄付できたのを
神様が喜んでいらっしゃると、お話させてもらっていると、ユリに奇跡が起きた
―――ということをもっとわかりやすく説明すると、以下のようになります。
神様はこの物質や肉体の目には見える現れの世界では、
御姿を現わして直接人助けなどの善い行いをされるわけにはいきません。
神様は肉体も声もお持ちにならず、ふつう私たちには見えない存在です。
しかし、「人の目を通して語り給う」という言葉があります。

「我が行為 神の御心あらわさん 父の御心世に示さんがため」(弘)


明来闇去

2021-02-17 00:11:02 | 明来闇去
 
   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

           心の教えを正しく行うと証がついて回る


不思議なユリの現象

安らかな気持ちで正しい法の中に生活していると、自然界さえもその証明を
見せてくれることがあります。
これは或る会場で起こった出来事で、その場にいたたくさんの人々も同時に
体験したことですが、だいぶ以前に大阪の柏原市という所でお話をさせて
もらった時のことです。
細長いかたい蕾のユリを何十本も生けていただいておりました。
ユリは頭が重いですから、茎が曲がって首を垂れたように四方へ
開いた形に生けていただいていました。
「まあ、綺麗なユリを生けていただいたのですねえ」と、
感動は思わず声になりました。

当時自宅には大きなウイスキーの空き瓶がおいてありました。
その瓶には「あなたさまの愛を恵まれない不幸な方々にどうぞ、
私も実践しております」と書いて貼ってあるのですが、
そこに五円、十円、一円あるいは
千円と思い思いに皆さんが喜捨をしてくださいます。
空き瓶にいっぱいになると、福祉施設から身寄りのないお年寄りや赤ちゃんの
世話をしていただいている施設に寄付させてもらいます。
幸い大きな瓶二本が一杯になりましたので、
これを柏原市の福祉の方に使ってもらってくださいといって預けました。
そのことを例にあげながら、奉仕と愛の実践についてお話をさせていただきました。
神様は私たちに何をいちばん望んでいらっしゃるでしょう。

私たちよりもさらに恵まれない不幸な人々のために、愛の手をさしのべた時、
神は、「よくやってよくやってくれました。私はその思いでいっぱいであるが、
それを形に表すことができない。
私の思いをあなたはよく行ってくれました」と、神様はおおせられ、
お喜びになるにちがいありません。
そのように話しておりますと、何十本も生けてあったユリの、
それまでは細長くかたく閉じた蕾であった花が、いっせいに全部開いたのです。
曲がっていた茎も一度全部垂直に立ち上がりました。

みなさんがいっせいに驚きの声をあげました。
ただ一本だけ、さっきの状態を証明するかのように茎が曲がったままでした。
実際にすべての蕾が同時にパーッと開いたのです。
わたしの今のお話は間違っていない。
そんな確信を与えるように、植物も喜んで応えてくれたと思います。
二部屋向こうの鏡台の上に一輪ざしで生けてあったユリもいっしょに開きまいた。
大勢のみなさんが見ている目の前で起きた出来事です。


明来闇去

2021-02-16 00:43:02 | 明来闇去

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る


お釈迦様やイエス様の心身の癒しは反省を重ね、
自らの心を徹底して見つめるとともに、
太陽にも等しい神様の御心を行ないに現わしていく。
そうした善い原因の種を蒔いていった結果として、
神がいとし子である人間の肉体を使い、
多くの人々の心身を癒す無限なる力を授け給い、
いとし子たちは神様の愛と、その有り難さを身をもって知らされます。
これは私の体験をとおして知った、法と人間、神と人間の関係です。

自分の外界の現象ではありません。
神と人間との関係は自分の内なる事実として発見すべきものです。
ここに紹介するのはあくまで一個人の体験です。
真理は、たとえ悟りを得た宗教指導者の場合でも、
あくまで個人の体験によってのみ知りうるものであるという現界があり、
その人の実践を見る以外に誰かと分かち合うことも証明することもできないはずです。
ところが、不思議な出来事というものを通すと、
私たちの心の奥底に秘められた神の力は物質化され、
目に触れる形に現わしていただけますから、
どのような否定論者であっても否定することはできません。
昔から奇瑞とか霊験譚とか、所謂不思議な兆しやお陰話しの類はよくあります。

高度な法の話しや厳しい修業だけでは、なかなか多くの人々を救うのは困難なために、
こうしたものの存在意識があります。
これらはみな神が人間の心を正しく導くための方便として使われるものです。
日夜起きている出来事もそういう性格のものです。

なぜこのような出来事が起こるのかについても、真に人間の心が調和した際には、
神の分け御霊、分け命として生命を与えられている私たちに神の本源からの生命の光、
愛の光が障りなくそのまま流れてきて、
ふつうなら考えられもしない奇跡的な出来事が起きてくるという、
原因と結果の法則から理解することができると思います。
お釈迦様もイエス様もできる限り嘘をつかない、
言ったことは命をかけて守る言行一致の実践をされ、不惜身命の努力をもって示し、
愛行を日々行じてくださったにちがいありません。

地球社会を理想の世界に立て替えるため、今の時期に生まれてきた私たちは
偉大な人類の大指導者であり、尊師であり、大先生である、聖者方の、
遠きにありても近き弟子として、その実践をとおして生きて行きたいと思います。
自らの行いが神の御心とズレていないか、少しの狂いも赦さぬように、
毎日毎瞬、己れを見つめ反省を欠かさないように努力していきたいものです。
これは私たちが自らに課せられた魂の修行でもあります。
そして、その結果、私たちは神様から愛され、信頼される人間として、
多くの人々の下僕となって生き抜くことです。
正しい法の教えの実践とともに、与えられた調和の役目を果たしていきたいと
思います。


明来闇去

2021-02-15 00:43:37 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

     奇跡の真の目的――地球の波動の次元上昇する
             二十一世紀に向けて


先の続き・・・

心というものがここに現れている環境、物質世界を生みだしている原因であれば、
自分の心を自由自在にコントロールすることができれば、いつも自分の
望ましい楽な世界に安住することができます。
想念はエネルギーであり、思いは力だと言われます。
そして、たとえ粗悪な環境に落ち込んでも、人間は思い一つで、
また心の用い方一つで、一転して高い世界に行くこともできるので、
心は錬金師でもあり、マジシャンのようでもあります。
自分の運命さえも自分の心がつくっているのですから、
私たちは原因と結果の法則を知り、
自分の想念行為に責任があることに気付くべきです。
過ちを犯し、人や自分を傷付けたまま、反省もせずに自らの運命のわるさを
嘆き、自らの心を苦しめていくか。

自分の過ちに気付いて素直に改め、正しく自然の法則にかなった調和した
生活を行うことによって、多くの人々の心に明るさや希望や勇気を与え、
自らが幸せになるとともに、他をも幸せに導いていくか。
そのどちらも神から与えられているのが人間の心です。
そして、この本に縁ある方々が、原因と結果の法則を理解して正しく生きた時には、
こんな有り難い出来事の援助も与えられるのだということを知る機会と
してくださったならば、この本の出版目的も果たされると思います。
誰の心にも宿る神我の存在を信じて、それに目覚めようという情熱が一人でも
多くの方の胸に喚起されることが、神の喜びともなります。
そもそも、奇跡は興味本位で見たり聞いたりするものではありません。

テレビでもやたらと興味本位の番組として霊能者を紹介したり、
UFOや不思議な現象をつかったりしすぎます。
商業ベースで利益さえ上がれば何でもよいという考えは反省すべきです。
奇跡とは、物質世界の常識にとらわれた人々が、
科学ではもはや証明できないほどの不思議な現象が、
心の在り方や用い方によって起きるのだという事実
に目覚めるために現わされているものです。
心が主導権を握り、物質世界を思いのままに動かしていくのです。
こういうことが、これから人々の心が調和してまいりますと、
可能になってくると思います。



明来闇去

2021-02-14 00:19:56 | 明来闇去

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

    奇跡の真の目的――地球の波動の次元上昇する
          二十一世紀に向けて


先の続き・・・

この物質世界のすべての現れには、必ず原因があります。
どのような出来事も例外ではありません。
その原因となる心に気付くべきです。
この心というのは不思議なものです。
一念三千という仏教用語があります。
思い方が三千通りあるとすれば、
それに応じて現れてくる世界が三千あるという意味です。
また、一念にして三千の思いが起きるとも言われます。
たった今、私たちの置かれている世界は、
私たちが抱いている思いによってつくられている世界です。
次の瞬間にはもう別の思いが呼ぶ別の世界に行っています。

さっきまで美しい景色を見たり、友達と笑いあって楽しんでいたと思ったら、
ちょっとしたことで腹を立て、クシャクシャしている。
この時は、上のほうから下へと住む世界は一気に下降し、
レベルダウンしていることになります。
ここで誰かのせいで腹を立てさせられたなどと思わず、
自分で自分の心を苦しめていることに気付いて、思い方を変えると、
また新たに調和した楽な心の映し出す世界へと瞬間的に移動することができます。
物質化現象世界(この世であり、目に見える世界)は実在界
(あの世であり、目に見えない世界)と渾然一体となって存在しています。
肉体は見ることはできますが、心は見ることができません。

この目に見えない心こそ目に見える肉体を動かしているエネルギーだと言えます。
心は主であり肉体は従とも言います。
主であるべき心を苦しめますと従である肉体も苦しんで当然のことです。
自分の心を苦しめない生活こそ私たちの日々の修行でもあります。
心の苦しみにも数多くありますが、怒り、妬み、謗り、愚痴、うらみ、
憎しみ、貪欲、取越し苦労などが代表的なものです。
この様な思いをできるだけ自分の心に入れない練習の積み重ねこそが
健康で平安で幸いへの道であると思います。
又、人にも苦しみを与えてはいけません。
それは必ず自分に返ってくるからです。


明来闇去

2021-02-13 00:23:06 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

      奇跡の真の目的――地球の波動の次元上昇する
            二十一世紀に向けて


先の続き・・・

私たちの心が調和し愛の生活の実践を重ねますと、
今迄は考えられなかったようなことも起きてまいります。
あまりにも多くの不思議と思われる自分の体験をとおして太古の昔も、
人類の未来もこのようであればと思います。

神の癒し、自然治癒能力のお手伝いをさせていただくとともに、
「大自然の法則にかなった神様のお心を我が心にいただき日々実践した時、
このように考えられぬような出来事が起きました」という事実を
世にお伝えするのが私の使命かもしれません。

世の中で起きる信じられないようなひどい事件の報道が後を絶たず、
特に若い人々は何を信じていいのかわからない時代です。
自信とか希望の持てるような生き方をお互いに追求していきたいものです。
世のすべての人々が大自然の法則(正法)を日々の生活の中に実践した時、
神の光は私たちの心身に燦然と輝き、安らぎと調和を与えずにはおかないでしょう。
今の時代は正しい心の在り方のために照らし合わせるべき基準が影を薄くしてしまって、
どこにあるのかもわかりません。

世の中で最も大切なことは、私たちが生まれる前にかわした神との約束である
大調和、「人々と手を取り合って幸せに健やかに生きます」という約束を忘れ
「法則」に反して生きてきた人生を反省することです。
過ちがあればこれを悔い改め、神の御心と自分の心を照らし合わせ、
正しい心に修正します。

あとはこれを行いに現わしつつ生活していけば、
必ずどんな形であれ、その人の天命にふさわしい形で完全なる力が発揮でき、
与えられた天分を現わして
地球や人類社会のお役に立つ人間になれるはずです。
これから紹介する奇跡の事例は、従来のオカルトものと同様に扱われたり、
又、好奇心の対象とされ、興味本位でとらえられることは、まったく本意ではありません。
あくまでも愛の実践の結果です。
表面の現象に目を奪われず、なぜこうした不思議な出来事が起きるのか、
徹底的に疑問追究してください。



明来闇去

2021-02-12 00:08:05 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       奇跡の真の目的――地球の波動の次元上昇する
             二十一世紀に向けて


先の続き・・・

神の御心と等しい質を持つ本来の自分が神我です。
私たちはもともと神の愛し子として幸せで健康になって当然の存在として、
誕生しています。
しかし、自己保存や自我我欲などの想念が心を曇らせ、
神我との間に隔たりと分離をつくってしまい、
不完全な現象が出来事として現れてきます。

それも表面が不完全なように見えるだけで、
本当の私たちというのは神の子として完全な存在なのです。
今は地球がたいへんな変革期を迎えています。

物質文明から精神文明への大転換はもうそこまで来ています。
アセンションとか次元上昇ということも言われています。
すでに地球より進化し、調和した魂と高度な文明を持った先輩星が、
これからの地球の次元上昇を見守っているという情報が
書店を通し一般に読まれてきています。

それらの星々のレベルに近づいていく過程で、
私たちの世界はだんだん物質文明から精神文明へと移行していくでしょう。
そうすると、何もないはずの空間に物が突然出現したり、
瞬時にして思った通りに体が違う場所に移動したりということが
常識になる時代もそう遠くないかもしれません。

奇跡が驚異の対象だったのが、だんだんとこういうことも
当たり前になってくると思われます。
環境問題に対応した宇宙エネルギーとかフリーエネルギーなどと
呼ばれるものが開発されつつあります。
過去地球に埋蔵されてきた有限な化石燃料に頼らない無限供給の夢のような
エネルギーの時代へと入っていくと言われています。

それと同じものですが、最近では真空エネルギーという呼び方も出て来ており、
これは反重力という力を利用して、恒星間旅行、つまり宇宙旅行を可能にする
第一歩となる画期的な研究に基づき、これまでの科学常識を完全に
超えるものだということです。

一万年以上も太古の昔、地球上にあったと言われる
アトランティス大陸の時代には、
クリスタル(水晶)を用いた優れたヒーリング技術や空飛ぶ円盤なども
存在したと言われています。
今後不可能なことではないかもしれません。


明来闇去

2021-02-11 00:12:02 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

     奇跡の真の目的――地球の波動の次元上昇する
            二十一世紀に向けて


正しい教えを実践した時には、必ず文証 理証 現象が望むことなしに
現れてきます。
文字としての証明、理論的証明、そして目に見える形として起きる出来事の
上の証明です。
これは自分が望む望まないに関係ありません。
正しい法の実践にはこれはつきものです。
ついて回ってくるのです。
言ってみれば、副産物です。
そうして現わしていただく現証は、大宇宙・大自然・
大神霊の御業であると
思います。

では、これにはどんな目的があるのでしょう。
神の癒しである神癒を説明します。
神癒の本当の目的をお伝えするのに、
しばしば用いるのは漁で使う投網のたとえです。
神様が気に入った人を使って放つ投網とは、
現世的なご利益を方便として人々を真理に導こうとするための
道具です。
たとえば貧乏から救われたとか、病気が治ったとか、
商売がうまくいったとか、
良縁に恵まれたとか、そういうことが所謂この世的なご利益です。

これらを励みとし、神仏への感謝の心に目覚め、
また自らの心の過ちに気付いてそれらが生活を
改めるきっかけとなることが、
実は神様の意図であり、神のお計らいであります。
しかし、この投網に残る大きな魚が、
そこから漏れてしまう雑魚よりも圧倒的に少ないうちは、
この世は心では幸せを求めつつも、

まだ幸せになりたくない方が大部分だというとになってしまいます。
これは、幸せになる秘訣がわかっていないのと、
わかろうとする人がいないからです。
ところで、幸せの秘訣となんでしょう。
それは大自然の法則、神の法則から外れた分だけ不幸の大きさが
増すということを知らない自分の心こそがすべての原因である、
という真理を理解し、

自らの心がこの神の法則から外れないように絶えず努めることにあります。
私たちの存在の本質は、完全なる神様から分かれた命であり、
霊(神の分け御霊)であり、明るく素直な善なる心であり、
すべてを可能にする能力であり、無限の可能性を信ずる心です。


明来闇去

2021-02-10 00:23:32 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

     第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       現代によみがえるイエスの奇跡


先の続き・・・

まことの神を知った時、宗教も組織もつくらないことを誓いました。
なんの営利も、この世の名誉も関係なく、講演・癒しなどに来られる
縁ある方々の中で一人でも多くの方が健康で幸せであってほしいという一念です。
全国各地や海外での講演・奉仕活動に必要な経費についても、
人に迷惑をかけない原則を守ってまいりました。
そのことは胸を張って世間に公言できます。

いつも自分の心はオープンですから、
人様の前で自らの現在の生きざまを問われても、恥ずかしいことはございません。
今日までの何の不都合もなく、
行く先々で多くの方々から愛され、大切にされており、
身に余るほどの幸せ者です。



明来闇去

2021-02-08 00:48:17 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

          現代によみがえるイエスの奇跡



そういう自覚と有り難さと、そして厳かな気持ちから、
非常に満足して喜びと平安に満たされた心でおります。
しかも、その「現象」が実は神の証しである「現証」であるということを
十分に知っています。
だから、神との約束であれば、それを果たしていく以外に生きる道がないようです。
かつては多くの過ちを犯してきたこの身であっても、
厳しい反省を通して悪を止め、善を作ることにより、
この世に生を享けた意味と、
お役目ということをはっきりわからせていただきました。
いくら頭で天の理想を理解していても、
この肉の身にそれを体現できなくては、
この地上の生活はよくなりません。

雲の上から降りたら、
今度は神様の愛の心を自分の肉体を通して行為として
具現していく必要があると思います。
ただ、病気を治すだけではありません。
病気を治すのは、あくまでも方便です。
神癒とは、
私たちの一人一人が生まれてきた目的や心の正しい在り方に
気付くために手段の一つであり、
大自然の法則と神の御心に沿った生き方を実践するための
きっかけにすぎません。

最終的な癒しは体だけでなく、心までも安らぎと至福感で満たし、
その人の心を救うものです。
心が救われてこそ癒しは成功したと言えます。
神の御心とはどういうものかを述べ伝えていかなくては
ならないと思います。
ただ言葉や理論だけでなく、生活の中で神の御心を日々実践し
行う努力を続けながら、
自ら人々のお手本として示し現わしていかなくてはなりなせん。
宗教は信じますか、とよく聞かれます。

「宗教は信じません」なぜですか。
「宗教は人が作ったもので神がお作りになったものでないからです」
神は信じますか「神は常に私とともにあられます」
宗教組織はつくりませんか。
「死ぬまでつくりません」後継者はどうしますか。
「私のような厳しい生活を人に強いることはできません」また、
誰もできないでしょう。


明来闇去

2021-02-07 00:43:22 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        現代によみがえるイエスの奇跡


不思議なことが起きだしたのは、四十歳の頃でした。
昭和四十年代後半から昭和五十年代にかけて、
医者に見放された人、捻挫で足が腫れ上がって歩けない人、
腰痛で見動きもできない人、骨折した人などが
次々に治り、さらに癌が治った人まで、あらゆる人が癒されていきました。

今日までに国内だけでなく、ドイツ、イギリス、イタリア、フランス、
オーストリア、スイス、オランダ、ポーランド、オーストラリア、
ニュージランド、インド、タイ、台湾、中国、香港、韓国、ヨルダン、
イスラエル、エジプト、カナダ、アメリカ、ギリシャなど海外各地を回り、
たくさんの人々への奉仕をさせていただきましたが、その間に自分でも
驚くような神癒による奇跡を見せていただきました。

目の見えない人が目を開き、もの言えぬ人が言葉を語り、
足の立たぬ人が立ち上がって歩き、また死せる人が生き返る。
まさに聖書の中でイエス・キリストが行ったと言われる癒しの奇跡は
現実であったということを実感しました。

そればかりか、癌の方でも私と何度か逢ううちに、
病院で検査したらいつのまにか癌が消えてしまい、
ご本人もお医者さんもびっくりされたという事例、
また癌を病みながらも一切の苦痛や恐怖を知らず、
感謝のうちにこの世を去っていくというケースなど、
現実に起きている事柄を挙げたら枚挙にいとまがありません。
こうした心身の癒し奇跡も含めた、
不思議な事や考えられない出来事の数々を
体験させられてきた人間も、
現在の世界にはそんなにおられないと思います。

しかし、別に自分のことをみなさんとは違う特別な人間と
思ったことは一度もありません。
むしろ、こういう出来事に遭遇するごとに、
だんだんと謙虚の大切さが身にしみてきます。
というのも、己れ以外の偉大な神の力というものを思い知っているからです。
神とはコズミックパワーあるいは大宇宙大自然を
つかさどる力と言ってもいいでしょう。
とにかく私たちの生命を生かしてくださっている力を
本書では神と呼ばせていただいています。
癒しの出来事を前にして、人々は目をみはり、感嘆の溜息をもらします。
呆然自失する方々もあります。

一同感涙にむせぶ場面がよくあります。
このような出来事は常に見せていただきますが、
ただの一度も治したと言ったことも思ったこともありません。
それを為したのはけっして自分自身の力にはあらず、
父なる神の偉大なる御業であるということを誰よりもよく承知しています。


明来闇去

2021-02-06 00:24:12 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

           神我の声に耳を澄ませ!


法の伝道のための旅の途上、飛行機の中で瞑想していた時のことです

身は機上にあり 心 天界にありました
そこは地球の成層圏内の雲海というより、
紫雲海とも呼ぶ天上の世界です
金色燦然と輝く世界から放たれる光を浴びつつ
雲海からのぞく遙かな下界を見下ろすと
悠々の大河は地表をうねり 
山の峰々は連綿として連なっておりました
しかしそれはどこまでも大自然そのままの姿を
とどめているのではありませんでした

人間たちが愚かなる小智才覚でもって
山を崩し 川を堰き止め 海を汚し 森林を伐採し
父なる創造神から与えられた自然を破壊して
顧みない哀れな惑星の姿でありました
この人類が恩恵をこうむりながら住んでいる星そのものが
生命の祖(おや)である神の御神体だということも忘れたかのように人類は
これを傷つけ傷つけられ変わり果てた惑星は痛ましい姿をさらしながらも
ただ黙って人類の行為を見守っておられます

広大な大自然の覆う地球から見れば 
人類の住む場所のなんと小さいこととか
山間や川のほとりに沿った狭隘(きょうあい)な場所に 
また海辺に開けた小さな扇状形の平野に群がってそれぞれの集落をなし 
日々の暮らしをつましく営む人間たちの夕ともなれば 
人家からこぼれる生活の灯が 
また乱立する高層ビル群の谷間に蝟集(いしゅう)する
車や人間たちの蠢(うごめ)く

巨大都市から溢れる極彩色のネオンの灯が
雲の上を飛ぶ自在の眼には悲しく映りました
ここに六十億の人間の命が息づいている
その時 愛し子たちの地上生活をじっと見つめておられる
父なる神の視線を同時に感じておりました
心の眼には苦悩の渦中で惑い苦しみ泣き叫ぶ
数知れぬ人々の心の姿が映じてまいりました


明来闇去

2021-02-05 00:15:22 | 明来闇去

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第五章 心の曇りをとるための反省

   幼い頃から今日までの自分の姿を立体映像で見せられる


先の続き・・・

私たちの心の中には肉体の五官により湧き起こる
煩悩がつくる想念帯という心の曇りの場所があります。
それが破れてしまう時、五官の感覚がまったく
なくなってしまいます。
これは後でわかったことですが、
その時の心の状態はこういうふうになったのだなと
知ることができました。
その時の心境は、見るもの見るものすべてがいとおしくて、
いとおしくてたまりません。
そこらに生えている草、大地に生えている苔に腹ばいになり、
ああよかったなあと苔や草に頬ずりをし、
樹に抱きつて頬ずりをして喜びました。
それはなんとも言えない喜びでした。

私たちは通常でも、心の中になんのわだかまりもない時、
晴れやかな気持ちになります。
徹底して反省をし、
心の奥の奥の塵芥まですっかり洗い流すように意識の光で
すみずみまで照らしたなら、
このように喜びあふれる体験が誰にでもやってくると思います。

ああ、私は自然の一部であり、自然と私は一体であったのだ。
私は神の一部であり、神と私は一体であったのだと強く感じました。
また、まことの道を歩み続けたなら、
やがてなんの包み隠しもない心となり、
喜びと感謝の気持ちで本当に神様に向き合うことが
できるところまで行けるはずです。
この時、ついに心に法灯をいただくことができたと思いました。

私は光である、法である、私は道であるという自覚を得ました。
それは素晴らしい喜びであり、法の喜びであります。
それは口や言葉ではとても言い表すことのできない喜びです。
私は自分自身の信念と直観にしたがい、
誰がなんと言おうと自らの決心をもって山にこもり、
そこで何日も坐り反省をいたしました。

これは反省の実践を真剣にやることが、
こんなにもありがたい結果を生み出し、
自分の心を楽にしてくれるのだということを、
身をもって体験させていただきました。
この時、反省とはありがたいものだなあと
つくづく思わせていただきました。
今この世にある自ら尊師、霊能者、占い師を名乗る方々でも、
どんな大神殿や大教会におられる教祖様でも、
その真偽を見通す能力も与えられました。
人の心の中も同じことです。


明来闇去

2021-02-04 06:26:55 | 明来闇去

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第五章 心の曇りをとるための反省

    幼い頃から今日までの自分の姿を立体映像で見せられる


先の続き・・・

行きたい、行きたいと思うのです。
ところが、そこへどうしても行けない。
稲束を渡す役目をしなかったら叱られますから、
その場から逃げることができないのです。
これと同じようにどうすることもできないことが、
十代であれば十代においてあり、
あるいは二十代であれば二十代で、
同じようにしがらみの中で涙を流しながら、
精一杯生きている己の姿をみせられ、
心の底に焼き付けられました。

あまりにも哀れな自分の姿を短い間に全部見せていただきました。
思わず「かわいそうだったなあ」と、
自分に対して涙がとめどなく流れてきて、
こういう厳しい中でよく頑張って生きてきたなあ
という思いが溢れてきました。
そして、その時にやっとこう思いました。

「反省みたいなもの、できてもできなくてもいい。
心に法灯みたいなもの、
いただいてもいただかなくてもいい。
そんなものは関係ない。
とにかく私自身を赦してあげよう。
これほど精一杯生きた己自身に対して赦しを与えてあげよう。
己にやさしく人に厳しいという生き方なら法に背くけれど、
そうではなかったのだ。
もう法も何もない。

とにかく、私は私自身を赦すことだ」と思って、
自分を赦そうと決めました。
「あなたはこの厳しい人生でつらい中、苦しい中をよく頑張りましたね。
私はあなたのすべてを赦させていただきます」と、
泣きながら心の中で自らに向かって語りかけていたのでした。
ところが、この時です。
心がフワッと軽くなったのです。
心が広がって、光り輝く自分をその時自覚しました。
自分を赦した時、どれほど自分が楽かということを
悟らせていただいたのです。
肉体の五官の感覚が完全に消えてしまいました。

意識ははっきりしていますが、頭、手、足、胴はどこにもなく、
何も感じないのです。
肉体はなく、ただ自分が胸のあたりを中心として光り輝いているのです。
こんなことは生まれて初めての体験ですから、
「あら、私の体がなくなってしまった。
私はどこかへ行ってしまった」と思いました。
身が軽いというようなものとはまったく違います。
完全に肉体の感覚が消えてしまいました。

まさに肉体の五官の感覚の消滅です。
私は自分がどこかへ行ってしまったらえらいことだと思いましたから、
顔、頭、胸、手足をしっかりつかんで確認しました。
すると、やっぱり感じがあることが確かめられました。
全身を探り、「ああ、やっぱりついていて」と思ったのです。


明来闇去

2021-02-03 00:54:01 | 明来闇去

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

      幼い頃から今日までの自分の姿を立体映像で見せられる


先の続き・・・

小学校一年の秋のことです。
取り入れで稲刈りをして干し、
乾燥すると田圃の真中にゴザを敷いて脱穀をするのです。
干してある稲束を脱穀する場所まで運ぶと、
父が足踏み機でギコギコ脱穀しては済んだ藁を後ろに放っていくのですが、
その時、積んである束を父に渡すのが私の役目でした。
この稲束を父が最も受け取り易いように一つずつ渡すと、
父はザアーツと脱穀してパッと後ろに放ります。

すると、次の束を渡さなくてはいけないのですが、
父の手許の受け取り易いところへ持っていかないと、
「何をしているのか」と怒られます。
父のしやすいように次々と渡していくのです。

こうすれば、一つ一つ取る時間が節約できるわけで、
父の体も少しは楽になります。
その田圃のすぐ近くは堤防でその上は平地になっており、
友達が来てワイワイ
遊んでいるのです。

その中に好きな女の子がいたのです。
私はちょっとおませでして、
小学校一年でもう好きな女の子がいました。
「あの子、かわいらしいなあ」と、
まあ私の初恋です。

その子もいっしょに遊んでいるので、
行きたくて行きたくてたまりません。
「男女の愛は苦しみである」とはよく言ったものです。
神の愛につながる純粋に精神的な愛、
アガペの愛には苦しみはありません。
しかし、幼い男女でさえも、
男女の愛には苦しみがつきまといます。

女の子のそばに行きたいけど行かれないというつらさ、
そして、
友達が楽しそうに遊んでいるのに、
稲束を父に渡さないといけない。
その時のつらかったこと。
そのうち、だんだんと日が暮れてきます。
友達は帰ってしまいます。

私の好きな子も帰ってしまいました。
私は涙をポロポロ流しながら、稲束を渡していたのです。
すると、父が、「お前は何を泣いているのか」と言うのです。
私の気持ちなどわからないから言うのです。
もし、私の心を知ったら、お父さんは腰を抜かしたかもしれません。
小学校一年生で好きな子がいるなんて。
私は泣きながら叱られながら、稲束を渡したものでした。
夜、暗くなるまで続きました。