りなりあ

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指先の記憶 第二章-10-

2008-11-10 01:04:16 | 指先の記憶 第二章

それは甘く、すぐに私の口の中で溶けていく。
とろりとした感触が、舌の上に広がった。
「香坂先輩。姫野は甘いもの苦手なんですけれど。」
須賀君の言葉の厳しさに、甘さで思わず眉を寄せていた私は、彼を止めようとした。
でも、その前に。
「香坂先輩って呼ぶの、やめるんじゃないの?私、もう香坂じゃないわ。」
私の背中から聞こえる杏依ちゃんの声は、珍しく強く響いた。
「だったら、新堂先輩ですか?今は先輩じゃないのに?」
先輩だよ、須賀君。
杏依ちゃんは私達よりも年上で、同じ中学の先輩なのだから。
私は、そう思ったのに。
「先輩は、いらない。だって先輩じゃないもの。」
杏依ちゃん本人も“先輩”を却下した。
「…じゃ…杏依様。これで如何ですか?」
須賀君の妙に丁寧な口調に、私は噴出した。
似合わない。
どこからどう見ても、“様”なんて、杏依ちゃんには似合わない。
「康太君は、その呼び方をしないで。今も…慣れないもん。」
杏依ちゃんが私の背中で溜息を出した。
「好美ちゃんも変だと思うよね?」
杏依ちゃんの言葉に私は何度も頷いたが、彼女の言葉が気になって、私は自分を抱きしめている腕から抜け出して、振り向いた。
「…誰かが…杏依ちゃんの事、“杏依様”って呼ぶの?」
問うと杏依ちゃんが頷いて、私は座った状態で畳の上を後ろに移動してしまった。
「仕方ないわよ、杏依。新堂さんは“晴己様”って呼ばれているんだし。その奥様は“杏依様”になっちゃうわよ。」
瑠璃先輩の言葉に、杏依ちゃんが頬を膨らませた。
「…だって…慣れないもん。仕方ないかもしれないけれど、晴己君の従姉弟達とか、親戚の人には“様”は嫌だって言っているの。」
似合わない“様”に驚愕している私の背中を須賀君の両手が支えてくれる。
「それなら“いとこ”からは、どんな風に呼ばれているんですか?」
背後からの須賀君の声。
「杏依…さん。」
ポツリと呟いた杏依ちゃんの言葉に、私は再び噴出した。
やっぱり、“さん”も似合わない。
「じゃ、俺も“杏依さん”にするよ。ほら、姫野も。」
「えぇ?どうして私?」
振り向こうとした頭を、須賀君に後ろから両手で固定される。
「…好美ちゃんは今のままで良いよ。」
「そうだよねぇ。変わったのは名字だもんね。」
「でもさ、一応年上だぞ?先輩だぞ?」
先輩じゃないと言ったのは、須賀君なのに。
目の前の杏依ちゃんを見て、不安そうな表情の愛らしさに私は思わず微笑んでしまった。

「杏依ちゃんが年上でも先輩でも、すっごい金持ちの奥様でも。」
周囲の人が彼女の事を“杏依様”と呼んでいたとしても。
「杏依ちゃんは杏依ちゃんでしょ?結婚したからといって何が変わるの?」
杏依ちゃんの頬が緩む。
それは、まるで。
固い蕾が春の暖かさに、その花びらを広げるよう…だった。

◇◇◇

「聞いて、聞いて。カレンさん。私が選んであげるって、杏依ちゃんがね。あ、杏依ちゃんって、施設に時々来てくれる人で、1つ年上の人でね。でもね、この前、結婚したの。その人がね、選んであげるって言うから仕方ないなぁと思っていたら、桜餅を選ぶの!桜餅だよ桜餅。そりゃ、美味しいけど、生菓子だよ?新幹線で移動する私に桜餅だよ?それも私が京都に行くのに、だよ?変だよ。結局新幹線に乗る前にお店に取りに行って。でね、朝も早いから早く眠らなきゃ、って思っているのに、桜餅のお店から帰ってきたら、須賀君が何をしていたと思う?味噌だよ、味噌。味噌作るとか言い出して、お味噌作るって何を考えてるの、って私が怒って当然だよね?そりゃあね、おばあちゃんのお味噌は美味しかったよ。カレンさんも、知ってるよね?でも、同じ味なんて出せるわけないのに、買ってきたお味噌も美味しいのに、自分で作るって言い出して、簡単に出来るセットを買ったって言うけど、手伝えって言うんだよ?簡単なら1人ですればいいのに、私に手伝わせるんだよ?私は、それまで杏依ちゃんの相手をしていて、だって杏依ちゃん我が侭」
カレンさんが私の手を湯飲みへと導いた。
手のひらから伝わる温かさを感じて、私は深呼吸をした。



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