図書館でいらなくなった本をくれる(リユースと言うらしい)。
この間も小さな段ボール1箱分くらいの本が並んでいて、私としては珍しく持ち帰ってきた。
「灰谷健次郎を軸として現代児童文学の課題」 竹長吉正著 右文書院 (1990年)
灰谷健次郎といえば、兎の眼、太陽の子、せんせいけらいになれ、とか読んだことがある。
ぐわっと感動したけど、もう読みたくないくらい重くもあった。
偏見や差別、純粋な心、弱い立場と思われている子が教えてくれる大切なこと。
そういったテーマの本を軸とした、児童文学の解説と考察なのだなと解釈し、私の物にしたのだ。
軽い好奇心で読み始めたら、戸惑いながらも新鮮で納得のいく説明が続き、それが曖昧な表現でなく、
具体的な分かりやすい例えでくどいくらい表現されていて、食いつくように読んでいる。
他のある児童文学と比べて、それが芋焼酎だとしたら、灰谷文学はウォッカのようだという例えも面白い。
じわじわと時間をかけて酔える芋焼酎とアルコール度数の高いひと口でカッと体が熱くなるウォッカという対比は、
なんかすごく説得力があるのだが、私はウォッカに酔いしれて癖になっていたのかぁと思うとちょっと恥ずかしい。
それでもって、同時に嬉しいのだ。
どちらにも良さがあって、私の好みはウォッカ的なんだなと安堵して着地できるから。
他には、印象深いシーンを解析して、たったの1センテンスやセリフについて書かれている内容が、
「こういう観点から読み解くとこうだと解釈できるがそれだとこの部分がああだから、誰それさんのあの本で使われていた
この表現に近いのだと結論したが、その言葉自体の持つ厳密な意味とは少し違うので、あくまでもこういう意味合いで、
つまりこういったことなのだといえる。だけど、それは僕が考えた結論で、人によってはもちろん違うと感じるのかもしれない」
というような、まどろっこしい長い長い文が続くのだが、くそ真面目に丁寧に丁寧にそれでいて謙虚に考えているので、
なんだか可愛らしいような気がして、この作者の使う難しい単語も気に入ってしまうのだ。
前後が分からないと面白みが十分に伝わらないと思うが、少しだけ抜粋。
p.59 「つまり、文章が饒舌的拡散的(偶然的)にならず抑制的収束的(構造的)になっているのである。」
こういう表現って、伝える情報があまりにも詳し過ぎて、でも上手くまとめてくれたから納得して進んでいくが、
結局は迷子になる道案内みたいでしょ?一生懸命で丁寧に頑張って伝えてくれているから、受け取っちゃったみたいな。
もう、こういった回りくどいのが癖になりそう(現在は、癖になってしまっている)。
端的な言葉を選んでいるから、おいおい勘弁してくれよとまいりながらも、仕方ないから私が合わせましょって思わせる。
この本は、たぶん論文なので、正しい方法できちんと責任ある表現ばかりなのに、故意に著者の人間性を臭わせているのかしら。
あと、灰谷文学の特徴として、自分の思いのたけを盛んに吐露するエロカンス(雄弁)の現象について、2度目に読むと
(1度目にぎょっとしたのに)それほど驚かなくなる理由は、自分に酔いしれていているからだと書かれている。
話者が自己陶酔していなければエロカンスが完成するのにってケチつけているのだが、読者側からするとどっちでもいい。
でも、それを分かっていてあえて書いているんだろうと思うと吹き出しそうになり、配慮してくれているニュアンスが
何重にも感じられ、まあそういう意見を知っておくのは悪くないかと受け入れやすい。
これが徹底的に非難しているなら、反発から絶対受け入れないと思うのだけど。
この本において著者の取った作戦が、どのくらいの人に読まれ、どのような経緯で図書館の外に出されたのか。
結果的に、読者の一人である私が完全に引っかかってしまい、なんだか人に話したくなってしまったのだ。
あのお酒の例えを借りるならば、この本は、焼酎とウォッカの混ぜ売りなのかもしれない。
しかし、普通そんなこと望まれないだろうことを承知で、時期が過ぎれば廃れる「変わった酒」としても売りだしたくはないのだ。
この酒は、一体誰に読んでもらいたかったのだろうかと素人の私でも思うのだけど、ねらいは学者先生ではなくて、
灰谷文学を熱狂的に支持したり人に押し付けるような輩に警告し、よく考えていなかった読者にはトリックをバラす作用のある
揮発性物質になることが目的であったように思う。
親切なような詐欺で、詐欺に見せかけた親切であるけど、ガラス越しに傷はつけない。
まだ、半分も読んでいないが、悪酔いしない程度に楽しみたい。楽しみ♪
「あべこべの世界」のさとしくんの発想みたいな考えが私にも出来そうな気がしてくる。
空想や本の中は自由で、しかも現実の見え方が変わるという経験を久しぶりに味わっている。
この間も小さな段ボール1箱分くらいの本が並んでいて、私としては珍しく持ち帰ってきた。
「灰谷健次郎を軸として現代児童文学の課題」 竹長吉正著 右文書院 (1990年)
灰谷健次郎といえば、兎の眼、太陽の子、せんせいけらいになれ、とか読んだことがある。
ぐわっと感動したけど、もう読みたくないくらい重くもあった。
偏見や差別、純粋な心、弱い立場と思われている子が教えてくれる大切なこと。
そういったテーマの本を軸とした、児童文学の解説と考察なのだなと解釈し、私の物にしたのだ。
軽い好奇心で読み始めたら、戸惑いながらも新鮮で納得のいく説明が続き、それが曖昧な表現でなく、
具体的な分かりやすい例えでくどいくらい表現されていて、食いつくように読んでいる。
他のある児童文学と比べて、それが芋焼酎だとしたら、灰谷文学はウォッカのようだという例えも面白い。
じわじわと時間をかけて酔える芋焼酎とアルコール度数の高いひと口でカッと体が熱くなるウォッカという対比は、
なんかすごく説得力があるのだが、私はウォッカに酔いしれて癖になっていたのかぁと思うとちょっと恥ずかしい。
それでもって、同時に嬉しいのだ。
どちらにも良さがあって、私の好みはウォッカ的なんだなと安堵して着地できるから。
他には、印象深いシーンを解析して、たったの1センテンスやセリフについて書かれている内容が、
「こういう観点から読み解くとこうだと解釈できるがそれだとこの部分がああだから、誰それさんのあの本で使われていた
この表現に近いのだと結論したが、その言葉自体の持つ厳密な意味とは少し違うので、あくまでもこういう意味合いで、
つまりこういったことなのだといえる。だけど、それは僕が考えた結論で、人によってはもちろん違うと感じるのかもしれない」
というような、まどろっこしい長い長い文が続くのだが、くそ真面目に丁寧に丁寧にそれでいて謙虚に考えているので、
なんだか可愛らしいような気がして、この作者の使う難しい単語も気に入ってしまうのだ。
前後が分からないと面白みが十分に伝わらないと思うが、少しだけ抜粋。
p.59 「つまり、文章が饒舌的拡散的(偶然的)にならず抑制的収束的(構造的)になっているのである。」
こういう表現って、伝える情報があまりにも詳し過ぎて、でも上手くまとめてくれたから納得して進んでいくが、
結局は迷子になる道案内みたいでしょ?一生懸命で丁寧に頑張って伝えてくれているから、受け取っちゃったみたいな。
もう、こういった回りくどいのが癖になりそう(現在は、癖になってしまっている)。
端的な言葉を選んでいるから、おいおい勘弁してくれよとまいりながらも、仕方ないから私が合わせましょって思わせる。
この本は、たぶん論文なので、正しい方法できちんと責任ある表現ばかりなのに、故意に著者の人間性を臭わせているのかしら。
あと、灰谷文学の特徴として、自分の思いのたけを盛んに吐露するエロカンス(雄弁)の現象について、2度目に読むと
(1度目にぎょっとしたのに)それほど驚かなくなる理由は、自分に酔いしれていているからだと書かれている。
話者が自己陶酔していなければエロカンスが完成するのにってケチつけているのだが、読者側からするとどっちでもいい。
でも、それを分かっていてあえて書いているんだろうと思うと吹き出しそうになり、配慮してくれているニュアンスが
何重にも感じられ、まあそういう意見を知っておくのは悪くないかと受け入れやすい。
これが徹底的に非難しているなら、反発から絶対受け入れないと思うのだけど。
この本において著者の取った作戦が、どのくらいの人に読まれ、どのような経緯で図書館の外に出されたのか。
結果的に、読者の一人である私が完全に引っかかってしまい、なんだか人に話したくなってしまったのだ。
あのお酒の例えを借りるならば、この本は、焼酎とウォッカの混ぜ売りなのかもしれない。
しかし、普通そんなこと望まれないだろうことを承知で、時期が過ぎれば廃れる「変わった酒」としても売りだしたくはないのだ。
この酒は、一体誰に読んでもらいたかったのだろうかと素人の私でも思うのだけど、ねらいは学者先生ではなくて、
灰谷文学を熱狂的に支持したり人に押し付けるような輩に警告し、よく考えていなかった読者にはトリックをバラす作用のある
揮発性物質になることが目的であったように思う。
親切なような詐欺で、詐欺に見せかけた親切であるけど、ガラス越しに傷はつけない。
まだ、半分も読んでいないが、悪酔いしない程度に楽しみたい。楽しみ♪
「あべこべの世界」のさとしくんの発想みたいな考えが私にも出来そうな気がしてくる。
空想や本の中は自由で、しかも現実の見え方が変わるという経験を久しぶりに味わっている。