グミの実のお味

私はグミの実を食べたことはありません。こちらは双極性障害の主婦、グミの実のブログです。

小さな約束

2012-11-07 20:22:14 | Weblog
前回をおさらいすると、同窓会気分で参加した友人の結婚式二次会にて、
誰とも会話が盛り上がらず、挨拶を交わす程度に終わったのに、
他の友人同士とあまりにも温度差が大きく思い悲しんでいた私。

悲しみつつ、当然何がいけなけなかったのか振りかえる。
「私は何も悪くない!」なんて割り切れない。
考えれば考えるほど自分を責め、そして責めきれず考えないようにする。
別に、叩きつけられる打ちしがれている訳ではないが、頭にふっと湧いてはしばらく纏わりつくようだ。
こんなことがきっかけで体調が悪くなりたくない。

まず、その日のうちに、夫にとてもコンパクトな内容にして報告した。
「そんなの気にすることないよ」と言われるも、まだもやもやしていた。
次に、翌日になってから、母に結構弱気な電話をした。
聞いて欲しいのが主なのにも関わらず、すぐに話を自分の過去に差し替え聞かせようとする母。
私はそれをすぐに遮り、他の人には聞かせたくないようなネガティブな考えを、
次から次へと思いつくまま吐き出させてもらった。
その後、帰宅した夫の会社での話を聞いて「へえ」「なんで?」など相槌を打っていたら、
ニコニコ話しかけてくれる夫をとても暖かい存在に感じ、このかけがえのない一人いればいいのだとじんわり思った。
すると、3日目になって急に、起こった出来事についてごく自然に、そう至った理由も仕方がないなと考え始めていた。
ぼんやり考えながら、家の中をくまなく掃除し、不用品も整理し、物が出し入れしやすくなるにはどうすればよいか
出したり組み替えたりしながら、余計な悪い気持ちをなるべく考えないように過ごした。

このことが私にとってのセラピーになったのかもしれない。
気持ちが落ち着いて、そういえば落ち込んだときに読む本があったことを思い出した。
少し汚れているその本は、何度か読んだはずなのに具体的な内容は覚えていなかった。
「自分らしくいられるための50の小さな約束」。
出版されたのは1998年で、いったいいつ買ったのだろうかと不思議に思いながら、
どんなタイミングでどんなことを感じていたのかと、パラパラとページをめくってみた。

驚いたことに、ほとんどのページに織り目のついていて、よく見ると折ったところをまたひらいた様なページもあった。
厚地の紙のページには、見開きの分だけ1つのテーマ(Lessonと題される「約束」)が書かれている。
きっと、このシンプルさとやさしくゆったりした文、そして落書きのような挿絵が好きだったのだろう。
読みながら、「ああ、同じことでつまずいているのか」と過去の自分に思いを馳せた(あまり思い出さないがいい気持ち)。
まるで、本当に大したことではなかったかのように、普段の自分の生活が帰ってきた。

4日目、心配した両親から「今日は仕事がないからそっちに行こうか?」と電話があった。
もう、ほとんどすっかり元気になっていたが、会いにきてくれるのは嬉しいので来てもらうことにした。
来客用の駐車場を借りたり、お茶菓子に評判のいいアップルパイを買って準備をしたが、
それより昼食の時間だったので少し冷蔵庫の中を確認するのがヒヤヒヤした。
だらだらしゃべったり、買い物につきあってもらったり、プランター菜園の間引きを教えてもらったり。
父は、言葉少なく「うん、元気そうでよかった。(ゆっくり頷き)よかった」とお墨付きをくれた。

そんなに心配することなかったのに。
でも、心配されて嬉しかった。



頻度少なきゃそんなもの

2012-11-05 13:41:16 | Weblog
先日、友人の結婚式の二次会に呼ばれた。
もちろん、出席したのだが、誰かに声をかけ一緒に行くとかしなかった。
電話連絡するのも気が引けたのは、たぶん他の仲間は披露宴から出席しているだろうから。
仲の良かった当時は大学生の頃で、それ以後は私は病気であまり会っていなかったし。
でも、それでも懐かしい顔ぶれに会えるのは楽しみだった。
友人の旦那さんがどんな人かも楽しみだった。
きっと、二次会からでもいくつかの輪に入って話も盛り上がるだろうと思っていたのである。

電車を乗り継いで、地図を見ながら会場に向かっていると、女の人に話しかけられた。
同じ二次会に参加するが、友人は皆欠席なので一緒にいてもいいかと。
それは心細いだろうし、私も一人みたいなものだから、じゃあ一緒に行きましょうということに。

会場は、おしゃれなレストランだったのだが、招待客の人数を考えるととにかく狭かった。
同じエレベーターに乗り合わした学生の頃の仲間に、その人を紹介したりもしたのだが何となく盛り上がらず。
私が今でも親しくしている友人は、受付で忙しそうで話に行けないし、盛り上がっている輪はほとんど知らない人だらけ。
スクリーンに映るおそらく披露宴で流した映像は、人が多くてほとんど見えない。
さっき知り合ったばかりの女の人も他の友人のところに行くよう促してくれるのだが、見渡しても向かえる場がなかった。

私だけこんなに疎遠だったんだと思った。
花嫁は次々と他の招待客を相手にしているし、その人と料理を食べながら、旦那さんの印象の話などしてた。
でも、あんまり盛り上がらないで話がすぐ尽きてしまうのだった。
しばらくすると、別の場所から移動してきた当仲間が「久しぶりー」と次々と声をかけてくれた。
嬉しいのだが、当たり障りのない話題だけで特別盛り上がらないで去っていく。
比較的仲の良かった仲間は、当時から現在の繋がりが太すぎて、ほとんど繋がっていない私の情報量では話題が続かない。
なんだか、こんなに懐かしくも楽しくもないのが、隣の今日であったばかりの女の人にも迷惑だろうし、辛く感じた。
申し訳なさと情けなさで、その人と一緒に楽しむというのが上手くいかないのも嫌だった。

ピザやデザートが美味しいとか、面白くもないゲームに夢中になっているふりをした。
たぶん、ああいう時間にもっとお互いの話を出して、花嫁のエピソードに笑って過ごせたらよかった。
あんまり自分に質問を求められたくなかったから、相手の話も盛り上がらないように返していたのかもしれない。
きっと、私と一緒にいることになって、「声かける人失敗したなぁ」と思っているんだろうって隣で感じた。
もしかしたら、そんなことなかったのかもしれないが、私は一人でいるより助かったので、申し訳なく思いながら隣にいた。
二次会が終わって、駅までの帰り道、ほっとしたのかその人と会話が弾んだ。
たった5分程度なのだけど、殻が取れたみたいに素直に笑ったり自然に話せて嬉しかった。

二次会という集まりに圧倒されていたのだろうか。
自分以外は、みんな普段会ったり結婚式に呼んだり呼ばれたりの関係だったように見えた。
所詮、年賀状だけの私とは絆が違うんだろう。
友人関係をおざなりにすると、ただのちょっとした知り合いに過ぎなくなる。
あの頃は、あんなに仲良かったのに、あんなに心地よかったのに。
病気で余裕がなかった時期もあったけど、そうではない時期にちゃんと大事にすればよかった。

そんな中、二人だけだが、もっと話したいなとかまた会いに行きたいと思える友人がいた。
そういう人とは、しっかり繋がっていたい。
なんにもなくなったという訳ではなかっただけよかった。

でも、本当は家に帰った時は鈍器で打ちのめされる程、頭の中がグラグラしていた。
本人としては、もうしばらく元気だし、純粋に仲間に会いたかったし、その自信もあった。
そういう期待が崩れて、疎遠にしたのは失敗だったと気づき、これからの方法を考えていく段階に来た。ということ。

うわぁーー!!それでも生きていくぞぉーー!!
友達が少なくても、その他大勢よりずっと大事にしてみせるぞー!