グミの実のお味

私はグミの実を食べたことはありません。こちらは双極性障害の主婦、グミの実のブログです。

ちょっと上がってる?

2009-01-23 18:10:28 | Weblog
ここ数日、掲示板に投稿したのをきっかけに
インターネットに熱中している。
母に話しかけられても「いま手が離せないから手紙を書いて!」
と突っぱねた。
母は、相当心配していた。
父も、事あるごとに「焦らなくていいからな」と言う。

約1年前の躁転は、ネットにはまり込んだことが引き金となった。
自分でもくたくたになりながら投稿を続ける有様に躁転を疑ったが、
主治医でも見逃した。
激躁を見ていない主治医。
軽躁を覚えていない私。

ある日、手がしびれてキーボードがうまく打てなくなった。
リチウム中毒だと思った私は、夫に汚い字で手紙を書き、
帰ってくると泣きながら説明し理解して欲しいと訴えた。
翌日、実家へ父の運転する車で帰った。
父が言うには「神様の話」ばかりしていたという。

翌々日、一睡もせず、躁鬱年間グラフを完成させた。
薄く細い字だったのが、太く荒々しくなり、色をつけ派手派手しくなっていた。
なんだか躁の時描いた絵に似ているなあと思った。

夫は前日ライブに参加していたので、朝は起こしたらよくないと
連絡はしなかった。

昼頃になり、感情的になり涙を流しながら、母を人格障害だと罵った。
母が精神科を受診しないと、安心して子供が産めないと批判した。
また、自分で考えた心理テストを両親に出題し、それが当たっているので
きっと本が書けると思い込んだ。

段々と、自分でも感情がコントロールできていないことを感じ、
通院していたクリニックに電話してもらった。
どこにかけても「先生はいません。別のところに連絡してください」
という返答で、たらいまわしにされた。
私は、感情がセーブできなくて救急車を呼んだ。

時間は4時。
躁転じゃないかと主治医に相談した丁度2日後のことだった。
受診したときに検査したリチウム濃度の結果がわかる1時間前だった。

救急隊は、受診先を聞いたり、他にも記入しなければならないこと(忘れた)を
紙に書き込み、なかなか病院に連れていってくれなかった。
ようやく救急車に乗ることになって、
「私が乗るの?」なんて聞いてしまった。

病院に着くと、どうしてもタバコが吸いたくて、強引に父のタバコを奪い
救急隊や主治医を待たせた。
病室につくと、私は自分がどう躁転しているのか立って説明した。
主治医のペンが追いつかないので、少しゆっくりしゃべったり休んだりした。
「とりあえず座って」と言われると、
「あなたがここでは一番偉いのですか?」と聞き、
そうだと言われると、それならと言うことをきいた。

「取り合えず、落ち着く注射を打ちましょう」と言われ、断固拒否した。
私を囲む看護士はゆうに10人を超えていた。
四方八方から手が伸びて、私は大声で叫んだ。

主治医も諦めて、「それじゃあ、飲み薬にしましょう」と言い、頷いた。
リスパダール液は苦いと聞いていたが、水で薄めてあったので無味だった。

「保護室は普通の部屋だから安心して」と看護士は言ったが、寒くて
暖房がひとつも入っていなかった。
病院のパジャマに着替えさせられ、看護士は去っていった。
しかし、私は気づいた。
トイレットペーパーがない。
大声をあげるが誰も返事をしない。
ドアを叩いても、監視カメラ(どこにあるかは分からない)に手を振っても。
最悪だと思ったが、布団が2枚あったので、その1枚で用をたした。

私は眠った。
起こされると配膳があったが、また眠った。
翌日も眠った。
ペットボトルの水が渡されたが飲まずに眠った。
ようやく夜になって、ご飯を食べた。
残さず平らげた。
すると、翌朝、看護士がやってきて、部屋が変わるという。
保護室を出ると「あれが騒いでいた人だよ」とからかわれたが
嫌だなと思うだけで、あれこれ騒がなかった。

私の部屋は保護室のあった一つ上の階で、一番奥にあった。
4人部屋だったが、同室者は誰もいなかった。
しばらく友達もできず一人でいたが、一人親切な看護婦さんがいたので救われた。

週末になり、外泊。
暗証キー付きのロックが解除され、ようやく病室を出られた。
実家に帰るとほっとした。
もう入院したときのような感情のぶれはない。
「少し痩せたんじゃないの?」と言われ、鏡を見ると
顔のむくみが無くなりスッキリしていた。

翌日、隣町のモールへ行き、スタバでコーヒーを飲んだ。
外泊の報告をすると、まだ外出は許可していないと怒られた。

病院は実家の近くにあるので、両親がまめに面会に来てくれた。
まともな人と話せるのが嬉しくて、早く退院したいと思った。
でも、その頃はまだ躁で「病院のパジャマを自宅用に買って欲しい」
などと言っていた。
入院するときいた看護士に挨拶しようと「あの時はご迷惑おかけしました」
と言ったら、「まだいたの」と言われ、頭にきた。
先生に「保護入院から任意入院にして下さい。退院します!」と訴えた。

週末に外泊するという生活を続けて1ヶ月半後、落ち着いてきたのが
自分でも分かってきた。
週末からクリスマスにかけて外泊4日というのを試した。
何日もお風呂に入れない病院よりよっぽどいい。
年末に退院したいと両親に訴えた。
両親は、主治医が「3ヶ月は入院させたい」と言うのを遮って、強引に退院させてくれた。

実家は平和だった。
しかし、私の体重は8kgも増えていた。

2月になり、父が「K市に帰りたいと焦っている」と言ったことで
リスパダールが入院中よりも増量した。
私はこれで鬱になった。
一日中、布団の中で過ごし、どうしてあの時躁転を防げなかったのだろうと後悔した。
5分の散歩も限界だった。
私の姿を見た人全てが私を不審に思うと思っていた。

7月に友人の結婚式があったが、話せないし楽しめなかった。
薬を飲んでいる理由を聞かれたら、どう答えようかとばかり考えていた。
名残惜しいのが普通なのに、早く帰ろうと駅に急いだ。

8月、乳汁分泌の副作用が表れた。
オフ会に参加したが、楽しめなかった。

9月、リスパダールからルーランに変わる。
私は、生まれ変わったように明るくなった。
20分のウォーキングが30分にのびた。

10月、コアリズム開始。
本格的に痩せたいと思うようになった。

11月、オフ会が充実していた。

12月、新しい服を買う。おしゃれが楽しくなる。

現在にいたる。

振り返れば分かるけど、現在って分かりにくい。
取り合えず、睡眠時間が短くなったら、即手を打とう。
しかし、今日のブログ長いな・・・・。