「歩くZ旗」みね姉のひとりごと ~矜持 国を護るということ~

私たちを護ってくれている自衛隊を、私が護りたい!そんな気持ちで書いてきました。今は、自衛隊との日々の大切な記録です

うちの大叔父  ~後編~

2015年01月20日 | 日記


…前回から、えらく続きを書くのに時間がかかってしまい、


誠に申し訳ございません…。


別にこんなに引っ張るつもりはなかったのですが、


東京に行っている間、


思っていた以上に時間がなく、


なかなかブログの更新ができませんでした…。


本当にごめんなさい…







さて、


叔母様とかなり久しぶりの対面をした私は、


仏様である大叔父様に御挨拶をと、仏壇の所にすぐに行きました。


手を合わせ、お礼や今自分がやっていることへのご報告を述べて、


ふと、頭上の遺影に目をやると…



凛々しいです。


そして、ん?これって陸上自衛隊の制服では???


叔母様に聞いてみた。


「叔母ちゃん、叔父ちゃんって、陸上自衛隊だったの??」


「そうよ。戦後は先に陸上自衛隊ができたから、陸自に入ったのよ。

 あとで、海上自衛隊ができた時は、移るかどうするか、かなり迷っていたみたいだけどねぇ…」


「ん??ってことは…?」


「そう、戦争中は志願兵で海軍にいたから」


来た


「そこなんだけど、叔父ちゃんは何に乗っていたの?」


つい興奮気味に質問。


「潜水艦に乗ってたのよ」


まぢですか


まさかの潜水艦


では、その潜水艦は、伊号なのか呂号なのかということが気になるわけだけだけども、


それから先は叔母さまに質問したところで無意味だということは、


重々承知していたので、


「アルバムある


と鼻息を荒くして尋ねると、いろいろ出してくれました。


そして、


大叔父が聞いていた通り几帳面で厳しい人だったので、


アルバムにも事こまかにコメントが書いてあったため、


とても貴重なことが分かりました。



「波号第203潜水艦上で(佐世保)」


…波号…????


えぇ、この時点で私、波号潜水艦の存在を知りませんでした


ウィキペディアで調べてもあんまり出てこないのですが、


日本初の国産潜水艦ということは分かりました。


もともと、大叔父はあまり仕事のことを話さない人だったようで、


叔母さまは、聞かされていないことも多いようです。


ですが、


15~6歳くらいで志願して海軍に入り、


戦後も自衛隊ができるとすぐに入隊した叔父は、


間違いなく愛国心に満ちた人だったと思われ、


「終戦直後の放心状態」


というコメントがなんとも切ないです…。


この短いコメントに、


どれほどの想いが込められているのか…。


ちなみに、海軍時代の大叔父さま。



あ、よく言われるんですが、似てます???(笑)








「…どこだったかしら…潜水艦の中の写真もあったのだけど…」


と言って探してくれた写真がコチラ。



貴重な当時の潜水艦内の写真です。


「…爆破前日」


と書いてあります。


この時の乗組員の方々の忸怩たる思いは、いかほどかと思わずにはいられません。


この波号は初の国産だったということで、


実践配備には使われていないという話を、


詳しい方たちから教えて頂きましたが、


「魚雷がすぐ側をかすめて行ったって言ってたわよ」


とのことだったので、危険な事ももちろんあったようです。


ちなみに、海軍時代の写真がかなり少なかったのですが、


それは、


「佐世保の空襲で他の写真は全て燃えてしまった」


という記載がありました。


返す返すも残念でなりません。


その後、



機雷掃海の任についていた模様です。


掃海部隊は、戦後まで海軍の歴史を細い一本の糸のようにつなげてきてくれた存在です。


その中の1人に大叔父がいたとは、


いや~びっくり。




その時の掃海艇がコチラ。








その後、自分で商売をして失敗したり、


民間で仕事をしていた時もあったようですが、


潜水艦 ⇒ 掃海部隊 と海軍にいたにもかかわらず、


陸上自衛隊が発足するや否や、直ちに入隊したところを見ると、


とにもかくにも国防に従事したい、という想いが、


相当強かったのだろうと推察します。


それにしても、元海軍で陸上自衛隊に入隊する、ということは、


それ相応の苦労があったろうとも思いますが、


それでも、


海上自衛隊が発足した時、かなり悩んだにも関わらず、


そのまま陸上自衛隊に居続けたというあたりに、


大叔父の矜持を垣間見た気がしました。


一度きめたことだから、と、


筋を通したのでしょう。


大叔父がもっとも長く勤務した駐屯地が、


私が今、防衛モニターを務めさせていただいている、


久留米の第四特科連隊です。


私が住んでいる地からすると、


なぜここの防衛モニターに?


とずっと不思議だったのですが、


こじつけすぎかもしれませんが、


縁というものを感じずにはいられません。


それにしても、


大叔父が、実の娘以上にかわいがっていた姪っ子の娘が、


今、これほどまでに自衛隊に傾倒していることを、


あの世で大叔父は、一体どんなふうに見ているのだろうと思います(笑)


ですが、


この世界にのめり込んでからというもの、


不思議といいご縁にたくさん恵まれ、


楽しい日々を満喫できているのは、


大叔父が導き、見守ってくれているからだろうなぁと思うのです。


海軍のご縁、自衛隊のご縁を繋いでくれて、


いつも応援してくれているであろう大叔父さまに、感謝です



うちの大叔父  ~前編~

2015年01月09日 | 日記
大正12年生まれのウチの祖父(母方の)は、


9人兄弟の長男です。


その中で、


祖父の何番目かの妹のご主人が陸上自衛官とか、


一番上の妹の娘が実は元WACだったとか、


何番目かの妹の息子が現役陸上自衛官だとか、


祖母の2人の兄が海軍だったとか、


そういう話は聞いていたのですが、


私自身が身近、と感じる中には、


軍人や自衛官がいないと思っていたのですが、


思わぬところにいたことが分かりました。


祖父のすぐ下の弟(故人)が、


元海軍で戦後は陸上自衛官(←間違ってませんよ~)だったことを、


つい最近知りました。


ひょんなことから、


両親とそんな話になったのです。


母「叔父ちゃん、海上自衛官だったよ」


父「志願兵で海軍だったんだよ」


私「え??元海軍で、戦後は海上自衛官だったってこと?
  
  叔父ちゃん何年生まれ?」


父「大正14年。16、7で海軍に入ったみたいだよ」


母「モールス信号??だっけ?あれをしてて、いつもテーブルを、

  指でトントントンってするのが癖だったんだよね」


父「たしか幹部じゃなかったかな?」


私「えええ通信士だったってこと??何の艦に乗ってたの


両親「知ら~~~~~ん」


そんな、中途半端すぎるざっくりした情報を聞いたものだから、


もう、私としては不完全燃焼で(笑)


気になって気になって仕方ないわけですよ(笑)


母「ま~、叔母ちゃんに聞けば分かると思うけど」


私「お母さん明日叔母ちゃんに電話して

  そして、私が会いに行くって言って


母「はぁぁぁ


私「気になって仕方ないからお願い


…かくして、母に無理を言い、


翌朝、母に叔母さんに電話をしてもらい、


お宅にお邪魔することになりました


一体、なんの艦に乗っていたのか、


とにかく気になって仕方なくて、確かめずにいられなくて、


…これで「伊勢」とかだったら、私泣くわ…。


とかいろいろ思いめぐらせていたのだけど、


叔母さんのお宅にお邪魔して、


詳細を伺うと…ちょっと予想外の事実が出てきたのです…。


本当にびっくりした。


元海軍なのに、なぜ戦後は陸上自衛官だったのか


ウチの両親は、その辺の記憶があいまいで、


自衛官だったことは分かってても、海自だと思い込んでたんですけどね。


まさかの陸自でした。


なぜ???


…ということで、次回に続きます(笑)


ちゃお~




乗ってみたい艦艇

2015年01月07日 | 海上自衛隊

今日、スマホの画像フォルダを整理していて、


この2年間、いろんな艦にお邪魔させていただいたよなぁ~


としみじみ思いました


…とはいえ、


もちろん、乗っていない艦艇の方が多いのですが、


そんな中、


気になる艦艇、乗りたい艦艇をちょっと上げて見ようと思います。

(すっごくどうでもいい内容(笑))





DD(汎用護衛艦)は、ほとんどの型にお邪魔させて頂いているのですが、


実は、未乗艦の型がありまして…


それは、なみ型




ゆき⇒きり⇒あめ…飛ばして「つき」に乗ってしまったので、


なみ型はまだ、お邪魔したことがありません。


呉で、外側から見た事はありますけどもね。


そんなわけで、今年の目標その1…


なんかしらの「なみ型」に乗ること







あと、ぜひともお邪魔してみたいのが、


潜水艦艦救難艦ちはや



護衛艦以外の艦をいろいろ見てみたいですしね、やっぱり


実は、昨年タイミング悪くチャンスを逃しちゃったんですよねぇ。


今回は、チャンスがあるかなぁ…。


そんなわけで、今年の目標その2






あとは、補給艦かなぁ、やっぱり


いつも呉で、とわだを見てはいますが、



乗艦は叶いませんので、


いつかはお邪魔してみたい…。


いつも、いせから眺めているだけなので、


眺めるだけだと、乗ってみたいという思いは募ります…。


ましゅうも、舞鶴で見はしました(笑)←でかかった~



いつも見てるだけ…そんな補給艦に、私は乗りたい…







見てるだけ…と言っても、


見えただけでもレアと興奮してしまう艦があります。


それは、音響測定艦ひびき&はりま姉妹です




呉で、いるだけでも


「ひびきがいるぅぅぅ~~~」


と叫びたくなるくらい、めったにお目にかかれない謎の艦。


どれだけ謎かというと、


現役の海上自衛官をして、


「どこで何をしているのか全く分からない」


と言わしめるほどの謎の艦。


ちなみに、ひびきが来島海峡を通過している


貴重な動画がありますのでご覧ください。


海上自衛隊 in 来島海峡 音響測定艦 ひびき



すんごいスクープだと思うんですよね


しかも、このBGMがかなりのナイスなチョイス(笑)


動画でも


「マニアならこのBGMの意味がお分かりだと思います」


と、かいてありますが、えぇ、よくわかりますとも(笑)


これはどうあがいても乗艦させて頂くことは無理ですから、


さくっと、あきらめています。


同じく、謎の艦でこちらも乗艦させて頂くのは無理かと思われるのが…



施設艦むろと。


このあたりは、ひょっとして、


潜水艦以上に機密性が高いのではないかと思うのですが…、


どうなんだろう???


たぶん、海洋観測艦にちなんもお仲間かなぁ。



このあたりは、見られたらそれだけでラッキーな艦ではなかろうかと思います。





このあたりと比べたら、


まだしも希望が見えるのがコチラ



特務艇はしだて


早い話が迎賓艇で、国内外の来賓を招いての式典等に使われる艇、なので…


…その役割から、乗員はイケメンぞろいのイケメンパラダイスな艇だとのうわさも…


ん~乗ってみたいわ~


だけど、現実的に行けそうな艦で、乗ってみたいのは


掃海母艦ぶんご



おお、ぐっと現実的になった


なぜ乗りたいかというと、


昨年、うらがに乗ったから(笑)


同じ掃海母艦でも、


うらがは主砲が搭載されていなくて、


ぶんごには搭載されているんですよね。


その、ちょっと違う感じを実感してみたい…っていうかんじです






…ここまでいろいろ書いてきたけど、


実は、わたしが今一番乗ってみたい艦艇は


ズバリこれ


くらまです




ちょ~~~~乗りたい


あの渋くて美しい艦に、ちょ~~~乗りたいぃぃぃ


しらねではダメなのか?といわれそうですが、


もう、引退間近なのでチャンスはないと思われるので、くらまに


観艦式で…だなんて、ゼイタクは言いません…が、


願わくば、最後の蒸気タービンで体験航海はぜひともしてみたいところ…。


立神でお目にかかっているんですよ~


昨年の夏、無理してでも北海道まで体験航海行けばよかった…


と、激しく後悔したくらい、乗りたい艦






人と同じで、


艦とも縁がある、と思っているので、


いくら望んでも無理なものは無理、だと思っています。


例えば、私は「いせ」とは縁がものすごく強いのだけど、


「ひゅうが」とは皆無(笑)


なぜか、皆無。


横須賀に行っても、ひゅうがじゃなくて、いせがいるくらい、皆無(笑)


まぁ、縁ってそういうものだよね、と思います。


今年は、どんな艦艇とご縁を頂けるのか、


とても楽しみです




歴史に触れて~特別編~   「忘れてはならない島」

2015年01月06日 | 陸上自衛隊
昨年、北海道に行ってから、


実は、ずっと書きたかった記事です。


北恵庭駐屯地を訪れた際、


戦車資料館を見学させて頂いたことを、


記事でも書きました。
(北海道まで行ってきました  北恵庭駐屯地後編)


この記事の中で、


「後日改めて書きます」


と書いていたことが、


今回の記事の内容です。


なお、記事を書くにあたって、


戦車博物館にあった資料を参考にさせて頂きました。







恥ずかしながら、私がこの時まで、まったく知らなかったことがありました。


不勉強な私が知らないだけで、


ご存じの方も多いのかもしれませんが…。


「日本人が忘れてはならない島」


といえば、


「硫黄島」


をすぐに思い浮かべる方は少ないと思いますが、


実は、もう1つ、


日本人が絶対に忘れてならない島…いえ、


知らねばならない島があるのです。


それは、占守島(しゅむしゅとう)での、帝国陸軍最後の戦いです。



上部の矢印の先が、占守島で、


見て頂ければお分かり頂けると思いますが、


日本領の最北端でした。


当時、スターリンが北海道占領計画を企図し、


参戦の見返りとして、ルーズベルト大統領から


樺太と北方領土を占領する約束を取りつけました。
(ヤルタ会談)


ですが、スターリンの狙いは樺太と北方領土だけでなく、


ここを足がかりにして北海道北部を占領することだったのです。


(↑オレンジの部分)


…私はこの図を見ただけで戦慄が走りました。


日本は敗戦国となったので、こうなることは現実的にあり得ない話ではないからです。


これを目論んでいたスターリンは、


結局、ルーズベルトの死後、トルーマンによって北海道北部の占領を反対されたので、


ならば力づくでと、


日本の無条件降伏のどさくさにまぎれて、火事場泥棒を決め込み、


大軍を送りこんできたのです。


…近代史を読んでいていつも思う事なのですが、


ロシアや中国のような共産国家は、


どうしてこうも、人道に外れたことが平気でできるのでしょうか???


力づくで他人の物を奪いにかかり、


ルールや人道というものをまるきり無視するような人間が、特に多いように感じます。


その背景には、


当時の日本人は、海外と比べて識字率も高く教養が高く、


教育がしっかりしていたので、国民のモラルがたかったのに比べ、


共産国家だと、知識階級を忌避するきらいがあるので、


指揮官レベルでもモラルが低いという事があるのだと思います。


いうまでもありませんが、


これは、マイノリティに関しては言及していません。


極端であることは認識しつつも、これは私のブログなので、


自分の意見を書いているだけです。






話を戻しますが、


スターリンは、その北海道侵略の手始めに、


占守島占領を狙います。


これに際して、


「占守島など1日で占領できる」


と、スターリンは豪語していたようです。


当時、日本軍は、米軍のアリューシャン列島侵攻に備えて、


戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5,000を、占守島に配備していました。


アリューシャン列島といえば、


アッツ島、キスカ島の激戦が有名です。


私もこの2つの事は知っていましたが、占守島のことは知らなかったのです。


8月15日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した日本は、


当然、武装解除を行います。


占守島では電波状態が悪く、玉音放送はほぼ聞こえなかったようですが、


16日に大本営より、


「一切の戦闘行動を停止す。ただしやむを得ない自衛行動を妨げず。

 その完全徹底の時期を18日16時とする」


という命令があり、武器の処分を行うなどの撤退準備を開始していました。


…ところが、8月18日未明に、事態が急変します。


ソ連軍が突如として侵攻してきたのです。


無条件降伏し、武装解除を行い、撤退準備をしているところに、


ソ連軍は侵攻してきたのですから、


いかにやり口が汚いかが分かると思います。


占守島対岸のロパトカ岬から、長距離射程重砲による攻撃が始まり、


現場の通信所からの


「海上にエンジン音聞ゆ


という急報を受け、


第91師団長:堤不來貴(つつみ ふさき)中将は、


解除した武装を急遽整え、戦闘することを決断します。


それから、


「的輸送船団らしきものを発見!」


「敵上陸用舟艇を発見!」


「敵兵上陸!数、数千!」


と、急報が続々ともたらされ、


不意打ちを喰らった日本軍は、


充分な戦闘準備が整わぬまま、各個戦闘を余儀なくされたのです。


ただこの時点では、


ソ連の侵攻ではなく、米軍の侵攻だと考えていたようです。







ソ連軍の上陸地点である


島北部、竹田浜の独立歩兵第282大隊村上大隊わずか600名が、


圧倒的多数のソ連軍2万を迎え撃ちました…


…が、圧倒的な兵力差の前に、全滅する部隊も続出し、


ついに、ソ連軍の上陸を許してしまった、


その時に、


濃霧の中駆けつけた、援軍の戦車隊が間一髪で間に合い、


日本軍は、ソ連兵を押し返すことに成功します。


この戦車隊は、


戦車の神様と呼ばれた池田末男大佐を指揮官とした、


第十一連隊(97式中戦車と95式軽戦車を装備)で、


「十一」を合わせて「士」とし、


通称士魂戦車隊と呼ばれた精鋭部隊でした。


出陣に際して、池田大佐は戦車隊の部下にこう問うて曰く。


「緒氏は今、赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を奉ぜんとするか、

 あるいは白虎隊となり、玉砕を以って民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。

 赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。

 白虎隊たらんとする者は手を挙げよ!!」



その場にいた全員が、喚声と共に諸手を挙げて大佐の想いに応えました。


「ありがとう…」










完全撤退期限である、18日16時を、


50分すぎた時、


池田大佐より、師団司令部宛に打電があります。


「池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。

 祖国の弥栄を祈る」



この言葉を最後に、


約40両の戦車で攻撃を開始します。


池田大佐は、敵の戦車砲によって戦死、


連隊長以下、96名と27両の戦車を失いながら、


士魂戦車隊は奮戦し、


ソ連軍をあとわずかで日本軍が殲滅、というところまで追い詰めたものの、


停戦命令が届き、21日に停戦となったのです。


周知の通り、終戦記念日は8月15日なのですが、


その後も、日本を護るための戦いが続いていたのです。


…もし、この占守島にいた部隊指揮官が、


民族の防波堤となることよりも、


大本営の撤退命令に従う事を是とするタイプの人間であったなら…


北海道がソ連の手に落ちていたのは間違いありません。


命令に背いてでも、命をかけて


日本を守ってくれた士魂戦車隊には、


どれだけ感謝をしてもし尽くせないものがあります。






そして、この島には若い女工員が約400名いました。


この女工たちが、ソ連兵に見つかるとどうなるかは、


今さら言うまでもないことと思います。


ソ連兵は、血眼になって女工を探していたようですが、


占守島司令部は、女工たちをさっさと離島させていたのです。


島を死守し、民間人を保護し、祖国を護りぬいた彼らは、


英雄として奉られてしかるべきなのですが、


悲しい事に、彼らは戦闘終了後は、


シベリアに抑留され、多くは命を落とされたのです。


…なんともやりきれない気持ちになります。


この話だけにとどまらず、


終戦後、捕虜となった日本の軍人は、


筆舌に尽くしがたい凌辱を味わった方たちが多くいらっしゃいます。


ソ連兵からだけでなく、米兵からも、英兵からも、豪兵からも…。


日本とアジアの尊厳のために、命がけで戦われた


多くの誇り高い軍人が、


生き残った後になお、辱めと苦しみの中で過さねばならなかったことを知った時、


苦しみとも怒りともつかない感情が襲ってきました。


英霊となられた方はまだ幸せだったように、思ってしまいます。


称えられるべき人が称えられず、


苦しみながら生きねばならないような、


そんな世界に、なぜなってしまっているのか…


そう思わずにはいられません。


今さら何をしても、彼らが安んじられるようなことがあろうとは思えません。


でも、何かせずにはいられない。


せめて、そういう人達がいたのだ、ということを、


少しでも多くの人に知って頂くために、


伝えることしか、私にはできません。


せめて、


より多くの方に伝わり、彼らに感謝をささげる人が、


1人でも多く増えてくれますように…。



歴史に触れて~後編~   伊勢といせが繋ぐ縁

2015年01月05日 | 護衛艦いせ
…昨年12月、


護衛艦いせによる航空戦艦伊勢の洋上慰霊式に参加させて頂きましたが、


この時、伊勢といせが繋いでくれた


縁というものの深さを、感じずにはいられませんでした。





昨年3月に、護衛艦いせとのゆるやかな会(当時名)を開催したのですが、


その時、ある女性からお申込みを頂きました。


メールには、


おじい様が伊勢の乗組員でいらしたこと、


おじい様が乗っていらした航空戦艦と同じ名前の護衛艦があることを、


フィリピンへの国際緊急支援活動のニュースで知ったこと、


そして、護衛艦いせについての情報を調べていたところ、


私のブログにたどりついた旨が書いてありました。


私は頂いたメールを読んで、


あと二ヶ月早かったら!と思わずにはいられませんでした。


1月に、伊勢の洋上慰霊式があったからです。


ですが、


伊勢の乗員だった方のお孫さんが、


レイテ沖に向かう「いせ」のニュースでその存在を知り、


私にコンタクトしてこられたことは、奇縁というよりほかになく、


ぜひともお越しいただきたいと思い、


参加して頂くことになりました。


その当日、おじい様のお写真をお持ちになっていらっしゃいました。


それで、余計に彼女を洋上慰霊式にお連れできなかったのが、


返す返すも悔やまれたものです。


戦死されたわけではないにしろ、


おじい様の僚友たちが多く眠っていらっしゃる海ですから、


まるで、おじい様から、


ご自身の代わりに孫娘に慰霊に行かせるように、お願いされたかのように、


突き動かされたような感じでした。







すると、存外早くその機会が巡ってきたのですが(笑)


もちろん、


先日の洋上慰霊式にお誘いし、お越しいただく事ができ、


その時、彼女はおじい様が撮りためられたアルバムをお持ちになっていました。


…これがすごかったです!!


この時、私がお誘いした方々は、


日本海軍に造詣が深い方たちがほとんどだった上に、


久野先生もお越しだったので、


皆さんの海軍談義に火を着けるに充分なものでした。


「この写真すごいぞ


「これは、当時の観艦式の写真じゃないのか


「この縦列陣で航行している様子は、絶対そうですよ


と盛り上がった、非常に貴重なお写真がこちらです。


お写真は、御許可を得て掲載させて頂いております。



…が、なにせ、


古いお写真をデジカメで写したものなので、


肝心の縦列陣の艦隊が分かりにくいですが、


実際は、左下にうっすら写っている艦艇の奥に


縦列陣をなした艦隊がたしかにいます。


それにしても、


砲筒の隙間というアングルでこの写真を撮ることができたのは、


おじい様が砲手であったからこそなのでしょう、


と皆で盛り上がりました。


さらに、


「みね姉ちゃん見て見て!山本五十六だよ


と言われるので見てみると、



「あ、ほんとだ


左側が山本五十六長官、


右側は山口多聞中将ですね。


「ここ、靖国ですよね?」


「靖国だね」


山本五十六と山口多聞が揃って靖国神社に参拝しているお写真とは…


…とまぁ、こんな感じで、


いせの士官室で、伊勢ゆかりの貴重なお写真を見て


盛り上がっておりました。


本当に貴重なお写真をありがとうございました。


…洋上慰霊式の時、アルバムを抱きしめるようにしていらした、


彼女の姿がとても印象的でした。





実は、この日、


もう一人お会いできることを期待していたのですが、


残念ながら、御欠席されていた方がいらっしゃいました。


元伊勢の主砲員(一番砲塔五番砲手)だった田部清人さんです。


前回の慰霊式にはお越しだったのですが、


今回は御欠席でした。


…が、久野先生の計らいで、なんと上陸後にお会いできることになりました。


前述した「帝国海軍の航跡」にて、


久野先生が取材をされた方のお1人でもあります。


アルバムを持った伊勢乗員のお孫さんと、


以前、私のFM番組にもゲスト出演して頂いた歴史ナビゲーターの井上さんと、


ご自宅に伺い、お話を聞かせて頂くこととなりました。


御歳90歳の田部さんは、


首にスカーフを巻いていらしてて、とてもオシャレ


「今年も案内をもらったけど、もう、ラッタルを登るのが大変でね…」


と、御欠席された理由を仰いました。


実際、いせの場合、運動不足に人には、相当辛く感じる程ラッタルがありますので、


(見学者みんな、ぜーぜー言いながら登っていました(笑))


足をお悪くされた身であれば、かなり負担が大きいことは分かります。


残念ながら、お持ちしたアルバムには、お知り合いの方はいらっしゃらなかったようですが、


いろいろとお話をしてくださいました。


私自身、戦争体験者と言っても、民間人のお話しかこれまでは聞いたことがなく、


実際に戦いの場にいらした方のお話を直接聞くのは、これが初めてです。


しかも、田部さんは、


あのレイテ沖海戦を戦われた、歴史の生き証人です。


これまで、本でしか読んだことがない戦いを、


実際に、その場にいらしたご本人からお話を伺うと、


そんなに詳細なお話でなくとも、


その方の記憶を通して想いが直に伝わってきます。


いろんなお話をしてくださいました。


「…戦闘機が着艦できなくて、ぼとぼと海に落ちるんですわ」


「熟練パイロットがいなくなったからですね」


「そうです」


「…伊勢は最後、燃料がなくなったため、洋上砲台として使われましたよね」


「そうなんですが、私らは『燃料がなくなったから』とは言われませんでしたよ」


「…それは、作戦の1つとして、敢えて洋上砲台として使うのだと…?」


「そうですよ。そんなことを知ったのは、戦後でした」


これを情報統制という人もいるでしょうけど、


まさかこんな時に、


「燃料がないから動かせない」


などと言うと士気にかかわるので、それはそうだろうなと理解できます。


また、艦内生活についてもお話してくださいました。


「酒保開け!の時でも、我々のような下の者は行けません。

 あれは、上の人や年長者しか行けませんでした(笑)」


「お風呂は、浴槽はありましたがめったに入れませんでしたよ。

 やっぱり水は貴重でね。3年間で本当に1~2回くらいだったかな?

 その時は海水風呂でね、真水を1人当たり洗面器3杯分もらいました。

 それ以外の時は、スコールの時に裸で甲板に出て、体を洗っていましたよ(笑)」






しかし、いろいろお話を伺った中で思わず涙がでたのは、


やはりレイテ沖海戦の話でした。


「瑞鶴が沈むのを見た時は涙が止まらなくてね…。

 だけど、それでもまだ、日本が負けるなんて思わなかったんだよ…」



と仰った時は、なんとも言えない気持ちになりました。


これを「洗脳」だとせせら笑う人もいるでしょう。


ですがそうではなく、それだけこの時代の軍人たちが、


必死で、本気で、最後まで日本を護ることをあきらめなかっただけなのだと思います。


何より、実際にお話を伺うと、


決して洗脳されたが故の言葉ではないことがわかります。


そしてこの戦いは、


囮となった小沢艦隊が、空母四隻の全滅と引き換えに、


狙い通りにアメリカ機動部隊を攻撃を引き受けることに成功したのです。


ですが、囮艦隊の多大な犠牲の上に成功した囮作戦は、


栗田艦隊の謎の反転によって、幻となって終わり残存艦は日本本土へ撤退しました。


そのことに話が及ぶと、


田部さんは、ぽつりとこう仰いました。


「…何のために戦ったのか…」


これは、栗田艦隊をレイテ湾に突入させるためだけに、


艦載機もほとんどない状態で、米艦隊を迎え撃ち、


命がけで使命を果たすために戦った方の、偽らざる本音だと思います。


この栗田中将の反転に関しては、いろんな意見があるようで、


ここではこれ以上言及しませんが…。







田部さんが


「最近の若いモンは偉いなぁと思いますよ。

 私なんかがね、カラオケなんか行くと、お店の人から聞くんでしょうね。

 海自の連中が挨拶に来てくれるんですよ。

 ある式典に呼ばれた時もね、私の席が司令官よりも上座になっていてね、

 いや~びっくりしましたよ(笑)

 ですが、本当に海自の人達は私らを『先輩』だと言って本当に大事にしてくれますよ。

 ありがたいです」


と仰いました。


この手の話は、海自さんとしかしたことがないので、


陸上自衛官や航空自衛官の方たちがどうなのかは、私は知りませんが、


私が知る限り、海上自衛官は、


元帝国海軍人を「先輩」と親しみを込めて呼ばれるところがたしかにあります。


それは、東郷元帥や、山本五十六元帥のことを


「我々の大先輩」


と言われることをよく耳にするからです。


民間人からすると、歴史上の人物、という感覚しかないのですけどね(笑)


また、ネットで広く拡散されている、


こちらの、ある海上自衛官の結婚式での逸話も、その証左だと思います。

直立不動で敬礼 【海軍・海自】 感動する話



田部さん曰く、


海軍魂というものは、育つのに3年かかると教わりました。

 私らは、ちょうど3年経った時に終戦を迎えました。最後の、海軍魂を持っているのが私らなんですよ」


と。


その様子から、田部さんがずっとずっと帝国海軍魂をもっているご自身を、


誇りに思って来られたことは疑いないと思います。


あの時代を生き抜き、


名だたる海戦を目の当たりにし、戦われた方と過した田部さんの夢は、


世界一周なのだそうです。


できたら、練習艦隊で行って頂きたいなぁ…(一周でなくて半周になるけど)


とかちょっと思いましたが。


ぜひぜひ、叶えて頂きたいです!






伊勢といせが繋いでくれた、貴重な貴重なご縁に、


心から感謝します。