こんなに後編を書くのが遅くなる予定ではなかったのですが、
お待たせしてしまい、申しわけございません…(←最近こんなのばっか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/namida.gif)
さて、引き続きチャンネルNipponの方と
ヴェルニ―公園を抜けて、三笠記念公園に行き、
それから、
京浜急行に乗って次の目的地に行きました。
駅を降り、しばらく歩いてたどり着いたその先は…
馬門山。
…そう、知る人ぞ知る(になるのかな?)海軍墓地です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/0e/b9728cdbe094019bf8b5423408548226.jpg)
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海軍墓地は、呉、佐世保にもありますが、
この2か所と比べると、
馬門山が規模が一番小さい、ということが、ちょっと意外でした。
ちなみに、海軍墓地とは、
1枚目の写真にある立て札にもある通り、
戦死者や殉職者を埋葬するための墓地です…
…が、ここ馬門山は、書いてある通り一般市民も埋葬されています。
この立て札があるところから、
なかなかの傾斜になっている坂道を登っていくと、
途中で、工事作業中の若者が二人いたのですが、
この二人が、
「こんにちは~」
と気持ちの良い挨拶をしてくれたので、
我々は、
「今時珍しい、感心な人たちだ」
と互いに言いあい、なんだか清々しい気持ちになって、
急傾斜の坂を登ることができました
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
道すがら知らない人と挨拶を交わす、って
結構大事な習慣だと思んですよね、私は。
さて、
登り終えると…
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なんだか、学校の校門みたい。
奥に行くと、
だだっ広い広場という感じです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/37/1fd5c975c57200521c39625c2ae1725f.jpg)
中央奥にうっすらと、段差があるのは見えますか?
ここで毎年慰霊祭が行われます。
そう、ここでは、慰霊「祭」とちゃんと言う…というか、
言っていいのだそうですね。(理由は忘れましたが…)
えっ?と思ったアナタに少し説明しますと、
海上自衛隊が行う洋上慰霊式は「祭」ではなく「式」
と言わねばならぬのですよ。
なぜなら、政教分離がど~たらと、小うるさい輩がおりますのでね。
まぁ、そういう事です。
で、
周辺に各墓地がある感じでした(←うまく表現できない…)
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こちらは、入口近くに建つ礼拝堂…なのだそうです。
見た目的には礼拝「碑」って感じですけども…
昭和7年8月に海軍が参拝者の一括礼拝に便利なように建設したものらしく、
正しくは「拝靈堂」というのだそうです。
高さ約250㎝、幅180㎝、奥行135㎝のコンクリート製の舟型のお堂…
…だから、こういう形なんですね。
正面の子扉内には「馬門山旧海軍墓地合祀者靈位」と書かれたお位牌が安置してあるようです。
海軍ならではの、簡素かつ洗練された、モダンなデザインですね。
そして、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/83/7b70e987ce64dd8cfe9e4117928119db.jpg)
整然と並んだ戦死者のお墓…明治20年代のお墓が多いようです。
日清戦争の英霊かと思われます。
こちらは、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/20/7756c4ae352d69dfe22e5d5eb241095e.jpg)
上海事変戦死者之碑。
昭和7年、満州事変の後、抗日運動が激化した上海で、
日本托鉢僧襲撃事件が起こりました。
これがきっかけで、日本海軍は陸戦隊を出動させ中国軍と衝突しことを、
上海事変といいます。
この戦闘で戦死した59柱の英霊を慰霊するために、
昭和8年1月に馬門山墓地に建立されたのが、この碑です。
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軍艦河内殉難者之碑。
軍艦河内は、明治45年、横須賀海軍工廠で建造された、
排水量20800トンの日本初のド級戦艦です。(←「超ド級」の語源)
河内は、大正7年7月12日、山口県徳山沖で火薬庫の爆発によりに沈没しました…。
軍艦筑波爆沈の翌年でもあり、乗組員1059人の内、死者621人という大惨事で、
碑は、翌大正8年2月に建立されました。
揮毫の正木義太とは、爆沈当時の河内艦長のことです。
台座の周囲には殉難者のうち行方不明者の階級・氏名が刻まれていて、
多くの遺体が流れ着いた、徳山湾の仙島にも慰霊碑が建てられているのだそうです。
ちょっと、戦艦陸奥を彷彿とさせる事故です…。
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特務艦関東殉職者碑。
特務艦関東は、日露戦争で拿捕したロシア艦艇です。
大正13年12月9日、舞鶴に向け兵員物資を輸送するため呉軍港を出港したものの、
12月12日、暴風雨のため、福井県糠浦海岸の二ッ栗岩に激突し、座礁、沈没しました。
殉職者は96名または97名と言われていて、この碑には68柱が合祀されています。
この、1人増えているのは何なのかはすみません、分かりません。
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軍艦築波殉難者之碑。
大正6年1月14日に横須賀軍港内の箱崎付近で沈没した、
軍艦筑波の殉難者152柱を供養する碑です。
死者数は72人、73人、305人といくつか説があるようです。
筑波は明治38年呉海軍工廠で完成した巡洋戦艦で、
排水量13,750トン(日本初の1万トン級)の大型艦でしたが…
…こちらも、火薬庫の爆発が原因で沈没しました…。
なんか、こういう事故が多いのは一体ナゼ???
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/33/c75a219f3af39231527c72cbbc54cbfb.jpg)
側に錨があるのは、北京籠城軍艦愛宕戦死者之碑。
明治34年5月に小屋の台の忠魂祠堂の境内に建立された後、
大正大震災により堂宇が破損したため、
昭和7年8月に馬門山墓地に移されたものでだそうです。
碑前面には伊藤祐享大将による題額と、
愛宕艦長竹内平太郎中佐の撰并書による碑文が刻まれています。
明治33年の北清事変の際、北京の公使館区域の籠城戦に軍艦愛宕の陸戦隊が参加、
死者5名、重軽傷者多数を出したが奮戦し、帝國海軍の栄光を高めました。
…戦艦愛宕と、北京籠城が全く結びつかなかったのですが、
なるほど、陸戦隊のことかと、調べて納得。
そして、碑の前面左右には砲弾があったようですが、
写真撮り忘れた私…。
規模が小さいながら、
帝国海軍の様々な悲劇に思いをはせ、
様々な犠牲の上に、今日の平和が成り立っていることを感じることが充分にできます。
こういう海軍墓地は、馬門山に限らず、
戦後は放置され荒れ果てた時期もあったようなのですが、
現在は、遺族や元海軍人だった方など有志によって、
整備され清掃され、慰霊祭が続けられるようになりました。
こういう活動を続けてこられた方たちは、
当然ながらご高齢者がほとんどです。
ですので、我々世代がこのような志を受けついで、
後世に繋いでいく必要があると思います。
ちなみに、
護衛艦いせは、昨年の戦艦伊勢の洋上慰霊式の翌日、
藤原艦長以下乗員一同で、
呉の海軍墓地にある、
戦艦伊勢之碑の清掃活動を行いました。
…私が海上自衛隊を大好きな所以です。
今年は戦後70年。
今年の私は、どうやら自衛隊のイベント参加だけでなく、
英霊への慰霊顕彰という活動が増えそうです…。