「歩くZ旗」みね姉のひとりごと ~矜持 国を護るということ~

私たちを護ってくれている自衛隊を、私が護りたい!そんな気持ちで書いてきました。今は、自衛隊との日々の大切な記録です

横須賀散策  後編

2015年01月28日 | 海上自衛隊

こんなに後編を書くのが遅くなる予定ではなかったのですが、


お待たせしてしまい、申しわけございません…(←最近こんなのばっか





さて、引き続きチャンネルNipponの方と


ヴェルニ―公園を抜けて、三笠記念公園に行き、


それから、


京浜急行に乗って次の目的地に行きました。


駅を降り、しばらく歩いてたどり着いたその先は…


馬門山。


…そう、知る人ぞ知る(になるのかな?)海軍墓地です。





海軍墓地は、呉、佐世保にもありますが、


この2か所と比べると、


馬門山が規模が一番小さい、ということが、ちょっと意外でした。



ちなみに、海軍墓地とは、


1枚目の写真にある立て札にもある通り、


戦死者や殉職者を埋葬するための墓地です…


…が、ここ馬門山は、書いてある通り一般市民も埋葬されています。


この立て札があるところから、


なかなかの傾斜になっている坂道を登っていくと、


途中で、工事作業中の若者が二人いたのですが、


この二人が、


「こんにちは~」


と気持ちの良い挨拶をしてくれたので、


我々は、


「今時珍しい、感心な人たちだ」


と互いに言いあい、なんだか清々しい気持ちになって、


急傾斜の坂を登ることができました


道すがら知らない人と挨拶を交わす、って


結構大事な習慣だと思んですよね、私は。




さて、


登り終えると…





なんだか、学校の校門みたい。


奥に行くと、


だだっ広い広場という感じです。



中央奥にうっすらと、段差があるのは見えますか?


ここで毎年慰霊祭が行われます。


そう、ここでは、慰霊「祭」とちゃんと言う…というか、


言っていいのだそうですね。(理由は忘れましたが…)


えっ?と思ったアナタに少し説明しますと、


海上自衛隊が行う洋上慰霊式は「祭」ではなく「式」


と言わねばならぬのですよ。


なぜなら、政教分離がど~たらと、小うるさい輩がおりますのでね。


まぁ、そういう事です。


で、


周辺に各墓地がある感じでした(←うまく表現できない…)




こちらは、入口近くに建つ礼拝堂…なのだそうです。


見た目的には礼拝「碑」って感じですけども…


昭和7年8月に海軍が参拝者の一括礼拝に便利なように建設したものらしく、


正しくは「拝靈堂」というのだそうです。


高さ約250㎝、幅180㎝、奥行135㎝のコンクリート製の舟型のお堂…


…だから、こういう形なんですね。


正面の子扉内には「馬門山旧海軍墓地合祀者靈位」と書かれたお位牌が安置してあるようです。


海軍ならではの、簡素かつ洗練された、モダンなデザインですね。


そして、





整然と並んだ戦死者のお墓…明治20年代のお墓が多いようです。


日清戦争の英霊かと思われます。




こちらは、



上海事変戦死者之碑。


昭和7年、満州事変の後、抗日運動が激化した上海で、


日本托鉢僧襲撃事件が起こりました。


これがきっかけで、日本海軍は陸戦隊を出動させ中国軍と衝突しことを、


上海事変といいます。


この戦闘で戦死した59柱の英霊を慰霊するために、


昭和8年1月に馬門山墓地に建立されたのが、この碑です。









軍艦河内殉難者之碑。


軍艦河内は、明治45年、横須賀海軍工廠で建造された、


排水量20800トンの日本初のド級戦艦です。(←「超ド級」の語源)


河内は、大正7年7月12日、山口県徳山沖で火薬庫の爆発によりに沈没しました…。


軍艦筑波爆沈の翌年でもあり、乗組員1059人の内、死者621人という大惨事で、


碑は、翌大正8年2月に建立されました。


揮毫の正木義太とは、爆沈当時の河内艦長のことです。


台座の周囲には殉難者のうち行方不明者の階級・氏名が刻まれていて、


多くの遺体が流れ着いた、徳山湾の仙島にも慰霊碑が建てられているのだそうです。


ちょっと、戦艦陸奥を彷彿とさせる事故です…。







特務艦関東殉職者碑。


特務艦関東は、日露戦争で拿捕したロシア艦艇です。


大正13年12月9日、舞鶴に向け兵員物資を輸送するため呉軍港を出港したものの、


12月12日、暴風雨のため、福井県糠浦海岸の二ッ栗岩に激突し、座礁、沈没しました。


殉職者は96名または97名と言われていて、この碑には68柱が合祀されています。


この、1人増えているのは何なのかはすみません、分かりません。






軍艦築波殉難者之碑。


大正6年1月14日に横須賀軍港内の箱崎付近で沈没した、


軍艦筑波の殉難者152柱を供養する碑です。


死者数は72人、73人、305人といくつか説があるようです。


筑波は明治38年呉海軍工廠で完成した巡洋戦艦で、


排水量13,750トン(日本初の1万トン級)の大型艦でしたが…


…こちらも、火薬庫の爆発が原因で沈没しました…。


なんか、こういう事故が多いのは一体ナゼ???









側に錨があるのは、北京籠城軍艦愛宕戦死者之碑。


明治34年5月に小屋の台の忠魂祠堂の境内に建立された後、


大正大震災により堂宇が破損したため、


昭和7年8月に馬門山墓地に移されたものでだそうです。


碑前面には伊藤祐享大将による題額と、


愛宕艦長竹内平太郎中佐の撰并書による碑文が刻まれています。


明治33年の北清事変の際、北京の公使館区域の籠城戦に軍艦愛宕の陸戦隊が参加、


死者5名、重軽傷者多数を出したが奮戦し、帝國海軍の栄光を高めました。


…戦艦愛宕と、北京籠城が全く結びつかなかったのですが、


なるほど、陸戦隊のことかと、調べて納得。


そして、碑の前面左右には砲弾があったようですが、


写真撮り忘れた私…。






規模が小さいながら、


帝国海軍の様々な悲劇に思いをはせ、


様々な犠牲の上に、今日の平和が成り立っていることを感じることが充分にできます。


こういう海軍墓地は、馬門山に限らず、


戦後は放置され荒れ果てた時期もあったようなのですが、


現在は、遺族や元海軍人だった方など有志によって、


整備され清掃され、慰霊祭が続けられるようになりました。


こういう活動を続けてこられた方たちは、


当然ながらご高齢者がほとんどです。


ですので、我々世代がこのような志を受けついで、


後世に繋いでいく必要があると思います。


ちなみに、


護衛艦いせは、昨年の戦艦伊勢の洋上慰霊式の翌日、


藤原艦長以下乗員一同で、


呉の海軍墓地にある、


戦艦伊勢之碑の清掃活動を行いました。


…私が海上自衛隊を大好きな所以です。


今年は戦後70年。


今年の私は、どうやら自衛隊のイベント参加だけでなく、


英霊への慰霊顕彰という活動が増えそうです…。