「歩くZ旗」みね姉のひとりごと ~矜持 国を護るということ~

私たちを護ってくれている自衛隊を、私が護りたい!そんな気持ちで書いてきました。今は、自衛隊との日々の大切な記録です

歴史に触れて~後編~   伊勢といせが繋ぐ縁

2015年01月05日 | 護衛艦いせ
…昨年12月、


護衛艦いせによる航空戦艦伊勢の洋上慰霊式に参加させて頂きましたが、


この時、伊勢といせが繋いでくれた


縁というものの深さを、感じずにはいられませんでした。





昨年3月に、護衛艦いせとのゆるやかな会(当時名)を開催したのですが、


その時、ある女性からお申込みを頂きました。


メールには、


おじい様が伊勢の乗組員でいらしたこと、


おじい様が乗っていらした航空戦艦と同じ名前の護衛艦があることを、


フィリピンへの国際緊急支援活動のニュースで知ったこと、


そして、護衛艦いせについての情報を調べていたところ、


私のブログにたどりついた旨が書いてありました。


私は頂いたメールを読んで、


あと二ヶ月早かったら!と思わずにはいられませんでした。


1月に、伊勢の洋上慰霊式があったからです。


ですが、


伊勢の乗員だった方のお孫さんが、


レイテ沖に向かう「いせ」のニュースでその存在を知り、


私にコンタクトしてこられたことは、奇縁というよりほかになく、


ぜひともお越しいただきたいと思い、


参加して頂くことになりました。


その当日、おじい様のお写真をお持ちになっていらっしゃいました。


それで、余計に彼女を洋上慰霊式にお連れできなかったのが、


返す返すも悔やまれたものです。


戦死されたわけではないにしろ、


おじい様の僚友たちが多く眠っていらっしゃる海ですから、


まるで、おじい様から、


ご自身の代わりに孫娘に慰霊に行かせるように、お願いされたかのように、


突き動かされたような感じでした。







すると、存外早くその機会が巡ってきたのですが(笑)


もちろん、


先日の洋上慰霊式にお誘いし、お越しいただく事ができ、


その時、彼女はおじい様が撮りためられたアルバムをお持ちになっていました。


…これがすごかったです!!


この時、私がお誘いした方々は、


日本海軍に造詣が深い方たちがほとんどだった上に、


久野先生もお越しだったので、


皆さんの海軍談義に火を着けるに充分なものでした。


「この写真すごいぞ


「これは、当時の観艦式の写真じゃないのか


「この縦列陣で航行している様子は、絶対そうですよ


と盛り上がった、非常に貴重なお写真がこちらです。


お写真は、御許可を得て掲載させて頂いております。



…が、なにせ、


古いお写真をデジカメで写したものなので、


肝心の縦列陣の艦隊が分かりにくいですが、


実際は、左下にうっすら写っている艦艇の奥に


縦列陣をなした艦隊がたしかにいます。


それにしても、


砲筒の隙間というアングルでこの写真を撮ることができたのは、


おじい様が砲手であったからこそなのでしょう、


と皆で盛り上がりました。


さらに、


「みね姉ちゃん見て見て!山本五十六だよ


と言われるので見てみると、



「あ、ほんとだ


左側が山本五十六長官、


右側は山口多聞中将ですね。


「ここ、靖国ですよね?」


「靖国だね」


山本五十六と山口多聞が揃って靖国神社に参拝しているお写真とは…


…とまぁ、こんな感じで、


いせの士官室で、伊勢ゆかりの貴重なお写真を見て


盛り上がっておりました。


本当に貴重なお写真をありがとうございました。


…洋上慰霊式の時、アルバムを抱きしめるようにしていらした、


彼女の姿がとても印象的でした。





実は、この日、


もう一人お会いできることを期待していたのですが、


残念ながら、御欠席されていた方がいらっしゃいました。


元伊勢の主砲員(一番砲塔五番砲手)だった田部清人さんです。


前回の慰霊式にはお越しだったのですが、


今回は御欠席でした。


…が、久野先生の計らいで、なんと上陸後にお会いできることになりました。


前述した「帝国海軍の航跡」にて、


久野先生が取材をされた方のお1人でもあります。


アルバムを持った伊勢乗員のお孫さんと、


以前、私のFM番組にもゲスト出演して頂いた歴史ナビゲーターの井上さんと、


ご自宅に伺い、お話を聞かせて頂くこととなりました。


御歳90歳の田部さんは、


首にスカーフを巻いていらしてて、とてもオシャレ


「今年も案内をもらったけど、もう、ラッタルを登るのが大変でね…」


と、御欠席された理由を仰いました。


実際、いせの場合、運動不足に人には、相当辛く感じる程ラッタルがありますので、


(見学者みんな、ぜーぜー言いながら登っていました(笑))


足をお悪くされた身であれば、かなり負担が大きいことは分かります。


残念ながら、お持ちしたアルバムには、お知り合いの方はいらっしゃらなかったようですが、


いろいろとお話をしてくださいました。


私自身、戦争体験者と言っても、民間人のお話しかこれまでは聞いたことがなく、


実際に戦いの場にいらした方のお話を直接聞くのは、これが初めてです。


しかも、田部さんは、


あのレイテ沖海戦を戦われた、歴史の生き証人です。


これまで、本でしか読んだことがない戦いを、


実際に、その場にいらしたご本人からお話を伺うと、


そんなに詳細なお話でなくとも、


その方の記憶を通して想いが直に伝わってきます。


いろんなお話をしてくださいました。


「…戦闘機が着艦できなくて、ぼとぼと海に落ちるんですわ」


「熟練パイロットがいなくなったからですね」


「そうです」


「…伊勢は最後、燃料がなくなったため、洋上砲台として使われましたよね」


「そうなんですが、私らは『燃料がなくなったから』とは言われませんでしたよ」


「…それは、作戦の1つとして、敢えて洋上砲台として使うのだと…?」


「そうですよ。そんなことを知ったのは、戦後でした」


これを情報統制という人もいるでしょうけど、


まさかこんな時に、


「燃料がないから動かせない」


などと言うと士気にかかわるので、それはそうだろうなと理解できます。


また、艦内生活についてもお話してくださいました。


「酒保開け!の時でも、我々のような下の者は行けません。

 あれは、上の人や年長者しか行けませんでした(笑)」


「お風呂は、浴槽はありましたがめったに入れませんでしたよ。

 やっぱり水は貴重でね。3年間で本当に1~2回くらいだったかな?

 その時は海水風呂でね、真水を1人当たり洗面器3杯分もらいました。

 それ以外の時は、スコールの時に裸で甲板に出て、体を洗っていましたよ(笑)」






しかし、いろいろお話を伺った中で思わず涙がでたのは、


やはりレイテ沖海戦の話でした。


「瑞鶴が沈むのを見た時は涙が止まらなくてね…。

 だけど、それでもまだ、日本が負けるなんて思わなかったんだよ…」



と仰った時は、なんとも言えない気持ちになりました。


これを「洗脳」だとせせら笑う人もいるでしょう。


ですがそうではなく、それだけこの時代の軍人たちが、


必死で、本気で、最後まで日本を護ることをあきらめなかっただけなのだと思います。


何より、実際にお話を伺うと、


決して洗脳されたが故の言葉ではないことがわかります。


そしてこの戦いは、


囮となった小沢艦隊が、空母四隻の全滅と引き換えに、


狙い通りにアメリカ機動部隊を攻撃を引き受けることに成功したのです。


ですが、囮艦隊の多大な犠牲の上に成功した囮作戦は、


栗田艦隊の謎の反転によって、幻となって終わり残存艦は日本本土へ撤退しました。


そのことに話が及ぶと、


田部さんは、ぽつりとこう仰いました。


「…何のために戦ったのか…」


これは、栗田艦隊をレイテ湾に突入させるためだけに、


艦載機もほとんどない状態で、米艦隊を迎え撃ち、


命がけで使命を果たすために戦った方の、偽らざる本音だと思います。


この栗田中将の反転に関しては、いろんな意見があるようで、


ここではこれ以上言及しませんが…。







田部さんが


「最近の若いモンは偉いなぁと思いますよ。

 私なんかがね、カラオケなんか行くと、お店の人から聞くんでしょうね。

 海自の連中が挨拶に来てくれるんですよ。

 ある式典に呼ばれた時もね、私の席が司令官よりも上座になっていてね、

 いや~びっくりしましたよ(笑)

 ですが、本当に海自の人達は私らを『先輩』だと言って本当に大事にしてくれますよ。

 ありがたいです」


と仰いました。


この手の話は、海自さんとしかしたことがないので、


陸上自衛官や航空自衛官の方たちがどうなのかは、私は知りませんが、


私が知る限り、海上自衛官は、


元帝国海軍人を「先輩」と親しみを込めて呼ばれるところがたしかにあります。


それは、東郷元帥や、山本五十六元帥のことを


「我々の大先輩」


と言われることをよく耳にするからです。


民間人からすると、歴史上の人物、という感覚しかないのですけどね(笑)


また、ネットで広く拡散されている、


こちらの、ある海上自衛官の結婚式での逸話も、その証左だと思います。

直立不動で敬礼 【海軍・海自】 感動する話



田部さん曰く、


海軍魂というものは、育つのに3年かかると教わりました。

 私らは、ちょうど3年経った時に終戦を迎えました。最後の、海軍魂を持っているのが私らなんですよ」


と。


その様子から、田部さんがずっとずっと帝国海軍魂をもっているご自身を、


誇りに思って来られたことは疑いないと思います。


あの時代を生き抜き、


名だたる海戦を目の当たりにし、戦われた方と過した田部さんの夢は、


世界一周なのだそうです。


できたら、練習艦隊で行って頂きたいなぁ…(一周でなくて半周になるけど)


とかちょっと思いましたが。


ぜひぜひ、叶えて頂きたいです!






伊勢といせが繋いでくれた、貴重な貴重なご縁に、


心から感謝します。






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2 コメント

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入隊後三年 (よこすか)
2015-01-06 05:56:24
だったら、日々の生活に付いて行くだけで精一杯で、自分の船が「予備艦」になり、もう出港がないことすら、知らなかったと思います。

現場は忙しいのでそんなもんだと思います。知人で北朝鮮の工作船に対して、初めて海上警備行動が発令され、P-3で爆雷を落としに行った人がいるのですが、フライトが終わって、帰宅したら、奥様に「あなたの航空隊、大変だったみたいよ。ニュースでやってたけど、あなたは何やってたの」と聞かれ、自分は単にヒコーキを言われた通りに飛ばしていただけだったので「う~ん」としか答えられなかったと笑っていました。
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>よこすかさま (みね姉)
2015-01-06 13:32:05
そういう感じでしょうね・・・。

奥様は、御主人がその時飛んでらしたとは思われなかったんですかね?
「何やってたの?」「いや、俺も行ってたんだけど(笑)」・・・とは言えないのかなぁ??
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