おかげさまで生きてます

日々の暮らしのなかで

近畿=関西?

2011年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
110625_125657
 
昔のようなことはなく、テレビやネットのある現代では、
情報の共有はさほど難しいことではなく
個性を維持するのは、逆に難しいことなのかも知れない
 
と、
 
青空の写真をバックに書き出す内容ではないような気がするが、
関西人が会話にオチを求めるというのは
地域性が現れたことなのか?と
セルフ疑問符をつけてみた
 
関西人は会話にオチをつける
 
これは都市伝説のひとつなのではないか?
確かに、関西人はほぼすべての話に
オチを付けたがるし、相手の話にオチを求める
 
会話の妙もある
 
折角のオチも、構成次第では
随分つまらないモノになる
しかしこの逆は殆どなくて、いくら素晴らしい構成力を
駆使したところで、オチのない話は、
聞き終えたときに、一抹の寂しさと
脱力感と喪失感と、時間を無駄に過ごした事への
懺悔の念しか残らない
 
ほぼ全ての会話にオチをつけると書いたが、
もちろん、オチの無い話も存在する
それに、関西人だからと言って、
関西に住む民が、笑いのセンスを持っているわけではない
ブラジル人が皆サッカーが上手いのか?と言うのと
同義である
 
そう思って突き詰めていけば、
地域性や個性と言ったモノではなくて、
それは固定概念と言うか、
関西人に求められるプレッシャーにも似た
期待感かも知れない
 
関西に住んでいれば無効なプレッシャーだけど、
関西出身者として地方で住む場合は、
感じることも出来るんだろう
 
と、ひとり卒論も書いた事のない人間が
レポートでも書いているような論調でキーボードを
叩き、
そのうちオチが浮かぶだろうと思った文章ではあったが、
まったくオチが浮かばないまま、
ここまで行間を詰めてしまった
 
そう、関西人は
時には喋りながらオチを探す時もある
 
いや、関西人だけに限らないか?
って、そもそも関西人ってどの範囲なの?
 
 
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする