日々思うこと

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怒りたくはないけれど

2006-11-02 | 今日の出来事。(社会編)

でも怒!!!


いじめで自殺、私に責任…瑞浪中校長が保護者会で謝罪  

岐阜県瑞浪(みずなみ)市の市立瑞浪中学校2年の女子生徒(14)が自殺した問題で、同校は1日夜、臨時保護者会を開き、自殺の原因がいじめにあったことを報告し、自殺を防げなかった学校の対応を謝罪した。  

保護者会で、佐々木喜三夫校長(58)は、「女子生徒が自ら命を絶ったのはいじめにより、深く心を傷つけられたことが原因」と語り、「このような状態にしてしまったのはすべて私の責任」と頭を下げた。
・・・


何に怒っているかって?
学校や校長に対してではありません。
こういう謝罪の仕方に追い込む、メディアに対してです!!

連日連日、
「自殺は、いじめが原因だった」と認めるだの認めないだのと、学校を責める報道が続いていれば、校長はこういう謝罪をする他ないですよ!!
「いじめが自殺の原因の一つとなった可能性がある」なんて言おうものなら、
いじめが原因でした」と断言するまで、責め抜かれますからね。

こういうのを見ていると、メディアは本当の意味で原因を究明しようとなんてしていないんだな…と思います。要は学校を叩きたいだけなんですよ。

こういう報道で一番気が楽になっているのは、当のいじめていた子どもたちでしょう。
いじめの結果自殺に追い込んでしまっても、学校が「責任は私にあります」と全ての責めをかぶってくれるんですから。
これからも「止められない周りが悪い」で済ませようとしても不思議はないですよ。
全くやりきれない思いで一杯です。…


教育について

2006-11-01 | 教育
具体的に論じる前に、私の考え方の変遷を書いておこうと思う。

私が教育の場に関わり、教育について考えるようになってから、6年が経つ。
(つまりは上の子の学年と同じだ。)
厳密には、その前の幼稚園のときから、わが子を通して
いろいろと考え始めていたのだが。

保護者同士意見を交わす機会も増え、考えさせられることが増えた。
また、教育関係の掲示板にも出入りするようになった。
それらの中で、こんな持論展開をひんぱんに見る。

「私は詰め込み(管理)教育によって抑圧された
 →詰め込み(管理)はよくない!」

「うちの子は学校でいじめにあった
 →いじめを生む学校というシステムには問題がある!」

要するに、
「自分(の子)に問題が起きた」→「それは悪だから削除せよ」
方式の教育論である。
そして私自身も、それに近い形での持論展開をしてきたと思う。

しかしその後、その方式で戦わせる教育論の危うさ、不毛さを、
長年かけてイヤというほど見ることになった…

それらの経験から今思うことがある。
「個人」の視点だけで教育論を語ることには限界がある、ということだ。


教育問題を語ろうとするときには、好むと好まざるに関わらず、
「なぜ教育が国家によって“義務”とされているのか」
という原点に、時々立ち戻る必要があると思う。

教育には、「個人のため」であるのと同時に
「社会のため」
「国のため」
という側面があるのだ。
ここから目を背けている限り、教育論は永遠に水掛け論で終わるだろう。
日本は長年平和すぎたのか、教育が
「個人的幸せの実現」
レベルで完結してしまっている人が増えているような気がする。

「国のため」
このような表現をすると、
「お国の為の人間を作ろうとするのか」云々という人がいる。
しかし、考えてみてほしい。
自己実現だとか何とか言っていられるのも、国が安泰だからこそ、だ。
国が存亡の危機に瀕しているときに、自己実現もクソも(失礼)ない。


「役に立つ人間になりたい」というのは、人間誰しも持っている願望だろう。
それをうまく生かすことができれば…という視点に立てば、
「国のため」も「個人的な幸せ」とつながってくる。
非人間的なシステムを含まざるを得ない「社会」と
「個人の幸せ」の橋渡しとして、教育を考えてゆければと思う。



追記:
「教育は子どもにとっては義務ではない」とする主張がある。
憲法に謳われた「教育の義務」は
「“子どもが”教育を受けなければならないという義務」ではなくて、
「“親が”子どもに教育を受けさせなければならないという義務」だからだ、
というのである。

しかしこれは詭弁だと思う。
憲法方式の「教育の義務」は、
「親は子どもに教育を受けさせる」
「子どもは教育を受ける」
この二つの義務を一文で表したにすぎない。

教育は、権利であると同時に、まぎれもなく“義務”である。