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運動会で思ったこと

2005-09-21 | 堅めの話
「休め、気をつけ、礼」で始まった昔ながらの運動会は、今年もいい雰囲気のうちに終わった。暑い中子どもたちはよくがんばっていたと思う。

少し前に教育関係の掲示板で、運動会という行事に対する根本的疑問が議題にあがったことがあった。
そのとき私は(…その問題提起が学校教育の価値を認めない論者によってなされたこともあって)「運動会擁護派」に与した。
不思議なもので、私自身は運動が得意でなかったせいもあって、運動会はどちらかといえば―いや、明確に―嫌いだった。そんな私が運動会の意義を認める日が来ようとは…感慨深いものがある。

運動会の意義とは、「行動を共にすることで絆が強まる」ということを、文字通りカラダで実感できるということだろうと思う。
「何はともあれ、やってみる」あるいは「案ずるより産むが易し」というヤツだ。
こうして文にしてしまうと単純なことのようだが、人間はほうっておくと「頭」が先にたってしまって、本来「カラダ」で実感しなくてはならないことまでアタマまかせにしがちである。
ある程度強制的に参加させられる運動会は、その順序をひっくり返してくれるいい機会なのではないかと思うのだ。

もちろん、そうは言っても気持ちの面でのかかわり方は人それぞれでいいと思う。何もみんながみんな熱くなって「青春」しなくたってよいのだ。(むしろそれは北朝鮮っぽくて(失礼^^;)気持ちが悪い…)
現に私も「当事者」だったころは、結局最後まで熱くなることはなかった。

ただ、人は「行動を共にすることで気持ちが一つになる」という体験を、一度はどこかですべきなのではないかと思う。それも、できればまだアタマでっかちになりきっていない若いうちに…
この社会が様々な人々の集まりであり、好むと好まざるにかかわらず自分もその集団の恩恵をこうむっている、という事実がある以上、それは「必須科目」なのではないかと思うのだ。
(もちろん、それが「運動会でなければならない」というわけではないけれどね。)


余談だが…
「気持ちが一つになっている」と確認ずみの人々の集まりが行動を共にすることができるのは、至極当たり前の話だ。と、ずっとそう思っていたし、現にそう思っている人も多いだろう。
しかし実際は、同じ理想の下に集まっているはずのものたちの集まりが、いとも簡単に崩壊してしまうのを、私は何度か目の当たりにしてきた。
思想などの「アタマ」でのつながりは、私たちが思っているよりもろいもののようなのだ。
それ故、思想がからむ団体の運営やそこへの参加は、(スポーツなどの)思想のからまない団体におけるそれよりも、かなりの精神的タフさが要求されると思っていたほうがよさそうである。


どうやら「思想」よりも「行動」のほうが、人と人を結びつける力は大きいらしい。
最近特にそう感じることが増えた気がする。

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