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日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

個性

2006-11-10 | ヤワラカメの話
まだクルマを持っていない若い頃…
私は「日本の道路を走ってるクルマって、白だのシルバーだの、なんであんなに同じような色ばっかりなんだろう?」と不満に思っていました。
それがまるで日本人の“没個性”の象徴のように見えたんですよね。

アメリカの道路を走っているクルマを見てみなさい!
色とりどりで個性的でしょ!
なんで日本人はそんなにみんなと同じがいいのかなぁ?!
私はゼッタイ人と違うクルマに乗るんだから!
…そんな感じでした。(…うわ~我ながらカブれちゃってるな~…^^;)


月日は流れ、我が家にも新車を買う日が訪れました。
迷った末に、やや薄いグリーン(ややメタリック調)という色にしてみたんですが…
これが意外に目立つ色だったんですよ。
というのも、
「midさん、昨日どこそこの道走ってたでしょ~」
「midさんのクルマ、こないだ○○ホームセンターの駐車場で見かけたよ~」
等々、たびたび“目撃証言”をもらうようになったんです。

…これって、意外とうれしくはないんですよ…

というわけで、今度のクルマの色は、わりと無難め(でも流行色かな♪)にしてみました。
目論見どおり、今のところ“目撃証言”は出ていません♪


しかし、クルマの色ごときで個性の主張だ何だとは、昔の私はつくづく肩に力が入ってましたね~…
以前もエントリで書いたように、私の好きな色は「ピンク」なんですが
本当の個性の主張というのは、車の色までピンクにすべき(^^;)とか、そういうことではないんですよね。

知らず知らずのうちに周りとの調和を考えたり(←これは日本人の長所の一つだと思う!)、自分の居心地のよさを追求したりしてなされる選択なら、それが結果的に人と同じ選択になろうと、そんなことは問題じゃないんですよ。

“主張の仕方”を云々しなければならない個性なんて、本当の個性じゃない。
そんなことを思いました。


追記・「国」の個性(お国柄)
先に書いたとおり、アメリカを走るクルマはどれも大変個性的なんですが、それが「アメリカという国の個性」であるというとらえ方もできますね。
似たような車が多いという「日本の個性」よりも、「アメリカの個性」のほうが優れているとか、そんなはずもありませんよね。

頭を使うべき時と場合

2006-11-08 | ヤワラカメの話

以前の私は、家族や友人から
「それって考えすぎだよ。」と言われることがよくありました。
私はそのたびに、
「考えることのどこがいけないの?考えれば考えるほど
いいに決まっているじゃない!!」と反発していました。
今思えばあの頃の私は、ただの“頭でっかち”でしたね…


…というわけで、唐突にめすねこさんのブログの話です。
(いつも引き合いに出してスミマセン^^;)

彼女のブログは、政治・軍事関係の広く深い考察で、いつも
勉強させてもらっているのですが、
今日注目したいのは、別のトコロです。

今5ヶ月?の赤ちゃんのいる彼女。忙しくないはずはありません。
それでなくても最初の赤ちゃんです。自分のときを思い返しても
心身ともに磨り減って疲れ切っているとき…なはずなんですが、
彼女からは何というか、「余裕」のようなものが感じられるんですよね。

 自分のときと比べてどこが違うんだろう?と考えたときに、
タイトルの話に思い至ったわけです。
思うに、彼女は「頭の使いどころ」を心得ているんじゃないか、と。

まだ話がわからない人の為に(…イヤ、これだけでわかる人のほうが
少ないでしょうね^^;)私の体験談を一つ…


昼夜問わずの3時間おきの授乳で、疲れて眠くて死にそうだったとき。
私は、赤ん坊の泣き声にピクリともせず爆睡しているダンナに
助けを求めることはしませんでした。
なぜなら、寝ているダンナから、ありもしないこんなメッセージを
読み取っていたからです。

「オレは明日仕事なんだから起こすな。赤ん坊の世話は女の仕事。」

…本当は、ただ単に熟睡していただけだったのに。
(…それにしても本当に男の人って良く寝るよね^^;)

そうこうしているうちに本当に限界が来そうだったので、
「たまには夜起きてくれないだろうか」とキレそうになりながら
ダンナに切り出したときに、その単純な事実が判明しました。
ダンナはあっさりと「もちろんいいよ。もっと早く言ってくれていいのに…」と …

全く、いらぬときに働く頭脳ほど有害なものはありません…
ゴチャゴチャと考えをまわしたりせずに、シンプルに思ったことを
伝えていれば、余計ないらだちや苦しさを背負わずにすんだのに…

(蛇足ですが…そうは言ってもその後、実際にダンナを起こして
手伝ってもらうことはほとんどありませんでした。
「いつでも助けを呼べる」と思うとそれだけで安心で、
精神的に余裕ができたようです。…) 


話は戻って、めすねこさん。
彼女は頭もすごくいいのですが、加えてその“使うべき時”を
心得ている、そんな気がするのです。
だから、シンプルに子育てを楽しむことができているのでは
ないかと…


たとえば、自称頭のいいキャリアウーマン(←死語?)が
家庭に入ったり子どもができたりしたときに、

「私って社会に取り残されていない?」
「私、こんなところでなにやってるんだろう…」
「母(妻)である前に女性でありたいのに…」
(あるいは「私は女性である前に一人の人間で…」等々)

などと悩むことがありますが…
(私もちょっとこのタイプでした)

子育てのときに、そんな方向に頭を悩ませることは、
百害あって一利なし!
特に女性の皆さん、
せっかくの頭の良さも使うべきときと場合を
間違えないようにしましょう!

ついでの
今ならめすねこさんのブログで、きゅるちゃん(お子さん♪)の
満面の笑顔が見られますヨ


脳内変換

2006-10-01 | ヤワラカメの話
言葉を勝手に脳内変換しちゃう人っていますよね。

たとえば
「護憲」→(変換)→「平和」とか。
つまり頭の中では、「護憲」が「平和」と聞こえているわけです。
…オイオイ、護憲っていうのは「平和」を達成するための
“手段”でしょうが。

他にも
「非武装」
「中立」
「無抵抗主義」
なんて言葉の数々は、本来の意味するところを超越して
「平和」
へ脳内変換されやすい語の代表ですね。


反対に
「改憲」→(変換)→「軍靴の足音」
「軍隊」→(変換)→「人殺し部隊」
なんてのも…
道理で日本語が通じないわけだ…


それから、
「素朴な疑問(根本的な疑問)」→(変換)→「揚げ足取り」「いちゃもんつけ」
っていう変換をされてしまうことも、よくあるんですよね。
不思議です…


でも最近の「脳内変換」のヒットは、やっぱり
「ワンポイント柄の流行」
 ↓
(変換)
 ↓
「右翼系の若者が増えているという事実」
でしょうか

…え、もういいって?
いや~、当分遊べるネタでしょう、これは。

こ、これは…

2006-09-29 | ヤワラカメの話

高度な笑いだ… (元ネタ不明)

 
インタビュアー「第三次世界大戦が起きたら、どんな武器が使われると思いますか?」


アインシュタイン「さあ、想像もつきませんね。でも第四次世界大戦のことなら分かりますよ」


インタビュアー「え、どんな武器が使われるんですか?」


アインシュタイン「



※最近テンプレートが決まんなくって…なんかイロイロ変えてみてますがお許しを


器用貧乏

2006-09-21 | ヤワラカメの話
今日は打ち明け話を一つ…

この話は「単なるジマン話にしか聞こえない」という人もいるかもしれない。そう聞こえてしまったらスミマセン。
でも私は、この事実に気づいたとき、結構なショックを受けた。同時に、自分と折り合いをつけ、「あきらめ」に似た気持ちと向き合わざるを得なかった。
このへんの事情を汲み取って、ご容赦いただきたいと切に願う。

話というのはつまり…タイトル通り、
私という人間は、いわゆる「器用貧乏」ってヤツなんだ、
と気づいたということ。
(…もしかしたら近しい人の中には「今ごろ気づいたの?」と思っている人もいるかもしれないけど…^^;)

あるレベルまでなら、私は人より少ない努力で到達できるようなのだ。(…ただし運動系を除く^^;)
ピアノしかり、英語しかり、パソコンしかり。
知識もそこそこある。文章もそこそこ書ける。物事を論理的に考えることも、そこそこできる。

ただし、どれも「そこそこ」レベルを超えることは決してない。(…「そこそこ」の連呼のしすぎで何かヘンだな^^;)ここがポイントだ。

思えば、ピアノを習っていたときも…
練習らしい練習と言えば、週一度のレッスン日の前日(ヘタしたら当日)に、“泥縄”をやっていたくらいのもの。
それでも、ピアノの先生からは「武蔵野音大くらいなら行ける。(東京)芸大は無理だけど」と言われるくらいにはなっていた。(結局そっちには進まなかったが…)
勉強のほうでも、あまり努力していなかったにも関わらず、志望校を決めるときに同じようなことを言われた。

こういった経験を通して、結局私は「一生懸命努力しなくても、物事何とかなるもんだ」ということを学び続けてきてしまったのだ。
結果どうだろう。才能がないというわけではないにも関わらず(自分で言うか~!^^;)どの方面でも「プロ」になれなかった自分がいる。

逆に言えば、
その道で大成している人というのは、才能のあるなしよりも、「努力し続けることの大切さ」を知った人、なのではないかと思う。
子どもたちにも、こういうことを伝えていきたいと強く思っている。
後悔に満ちた自分の半生から出る言葉だから、きっとそこそこの(?!)重みはあるだろう…

もちろん、今ボーイスカウトなどでピアノを弾いたりして役に立つ機会があると、器用貧乏も悪いもんじゃないかな、と思ったりもするんだけどね。(もしも世界で活躍するピアニストになってたら、こういうふうに役にたってないもんね!!と負け惜しみ…

「場」の芸術

2006-08-13 | ヤワラカメの話
「音楽」も「美術」も同じ芸術活動なのだから、そこには通じるものがある…
と長年思っていた。
しかし最近では、「そんなものでもないようだ…」と思い始めている。

美術は「オリジナリティ」が勝負の世界だ。
「自分」をいかに表現するか、が全てだと言ってもいい。
制作活動の中では、他人とことさらに交わる必要もないだろう。もちろん「外」からインスピレーションを受けることはあるだろうが、その表現基準はどこまでいっても「自分=個」ではないだろうか。
「美術屋さん」にマイペース人間が多いような気がするのは、このためだろうか…

これに対して音楽は、他と「関わる」こと抜きでは成立しない。
(「音楽屋さん」に、否応なく人と関わろうとするタイプ=ワガママ?!が多いのもむべなるかな…^^;)
音楽は「個」では完結できないのだ。
音楽の醍醐味は、作曲家・演奏家・聴衆全てを巻き込む、二度とは出現しない空間に身を浸す…ここにこそあるという気がする。
それはもはや、「人」ではなく「場」に帰属する性格の芸術活動と言ってもいいかもしれない。

同じ芸術と言いながら、「美術屋さん」と「音楽屋さん」の間には、本質的に相容れない感覚の違いがあるような気がするのは、このためかもしれない…


「場の芸術」という意味では、音楽は美術よりはまだ「スポーツ」のほうに近いものがある
…と、「音楽屋」である私は思う。

たとえばサッカー。
「神がかり的な一刹那」とでも言うのだろうか、まるで後ろに目があるかのようなパス回しなどに見る、「自」と「他」との感覚が溶け合ったかのような瞬間は、息の合った演奏中に訪れるものと同じだと思う。
本当に誇張でなく「鳥肌が立つ」瞬間だ。

ところで「音楽」と「スポーツ」と言えば、ゼンゼン違う話になるが…
音楽をやる人なら、無味乾燥?な基礎練習(「ハノン」とか「テクニック」とか「バイエル」とか…)を続けることの大変さ、そしてその重要性をよく知っていることと思う。
これなどまさにスポーツにおける「基礎練」そのものではないか。
何度練習してもテクニックが向上せず、泣きながらピアノに向かったという人も、少なからずいるのではないかと思う。
これも、どちらかというとスポーツをやっている人と話が合いそうな経験談だ。
(…美術作品の製作中にそんな経験をしたという人は、あまりいないんじゃないかな…?と思う^^;)


※追記
「練習に練習を重ねたのに、本番で力を出し切れなかった…」
この理不尽なくやしさも、音楽とスポーツでは通じるものだよね…

戦場のピアニスト

2006-08-11 | ヤワラカメの話
以前に、私の映画の好みは、イコール「音楽の好み」だということを書いたが…
先日その法則が成り立たない映画を見た…いや、見てしまった。
その名は「戦場のピアニスト」。
一部からは評価も高い映画だが、私にとっては期待はずれもいいところだった。
その理由は…

1.まず、音楽の扱いが物足りない。
結局じっくり聞ける場面は、ドイツ将校を前に弾く有名な最後のシーンだけ。
あとは「これはドキュメンタリーか…?」と思うほど、ホロコーストのシーンが延々と続く。
余計な音楽も演出も一切ない。
「そこがいい」と評価する人も、もちろんいるのだろうが、私が見たかったのは「戦争記録映画」じゃなくてただの「映画」だったのに…

2.そのホロコーストのシーンも、ただ恐怖感を煽るためにやたらと殺しまくっていただけのような気がする。
そこには一人ひとりの「人生の重さ」なんて微塵もなく、
まるで人から冷静な判断力を奪うかのように「戦争ではこんなに理不尽に殺されるんですよ~こわいですね~」という、底の浅いメッセージの押し付けしか感じられない。

そうは言いながら、実は私も見ている間じゅうずっと
「自分や家族がこんな恐ろしい目に合うのだけはゴメンだ!!」と恐怖感に押しつぶされそうになっていた。
こんなときに誰かが「戦争反対!」と叫んだら(それがいつもは軽蔑している「平和原理主義者」でも)何も考えずついていくかもしれない。あるいは逆に、「敵を皆殺しにせよ!」と過激な活動に走るか…

まあ、ちょっとした戦争擬似体験にはなったかもしれない。どんなときでも冷静さを保つことの大切さ、難しさが少しわかった気がする。
(実はちょうど北朝鮮のミサイル騒ぎの直後だったので、見た時機も悪かったのだが…)


3.そして何より「主人公に感情移入できない」。
これが致命的だった。主人公の「生きたい」という意志に裏づけが感じられないのだ。
愛する人の存在もなく、家族を見捨てることになっても一人でも生き延びようとする芸術家っているのだろうか。音楽への執着も特に感じられなかったし…
(まあ実話に基づいてるものをいろいろ言ってもしょうがないんだけど。)

生への執着といえば、極端な比較だが
「ボーン・スプレマシー」の主人公の本能的・条件反射的な生への執着は、自分で自分の人生を何とかしようとする男の強さがあったが、「戦場のピアニスト」の主人公は、ただ助けを借りまくるだけで、どんな手を使っても自分だけでも逃げ延びようとしているだけなのだ。
「助けてくれた人の娘と恋に落ちる」なんていうドラマの一つでもあれば、まだ彼の「生きたい」という意志を応援したくもなるのだが…

結局のところ、彼の「生への執着」は、「人との絆の強さ」から来るものでもなければ、「一匹狼的強さ」でもないのだ。
では何から来ているものかというと…全くわからないとしか言いようがない。

気分の「前倒し」現象

2006-06-19 | ヤワラカメの話
その昔は「花金」なんて言葉があって(年がバレるな^^;)土日直前の金曜日の夜というのは気分も浮き立っていたものだ。

それがいつの頃からか、木曜日の夜くらいから何となく週末気分が訪れはじめるようになった。「花木」なんて言葉も生まれたくらいに…

そして今の私にとって一番気分がいいのは、ナント水曜日の夜だったりする…^^;
でも、これにはちゃんと理由がある。実は子どもたちの習い事関係が全部月~水曜日に集中しているんだよね。
で、それらが終わると、近づく週末と相まって気分も高揚するというわけ。

これだけなら「おめでたいヤツ」というだけなので別にいいのだが…
困ったことに、一方でいわゆる「サザエさん症候群」(週末の終わりが近づくと訪れる憂鬱)も、「前倒し」で来るようになってしまったのだ。

「楽しい週末が終わってしまった…」という憂鬱は、普通日曜日の夜に訪れるものだが、これがいつの頃からか「あ~あ、今日で週末も終わりかぁ…」という日曜日の朝の憂鬱になり…
最近では、土曜日の夜にはもう「祭り」も終わってしまったかのような気分になることがある。
(日曜日にはボーイスカウトの活動が入ることが多いので実質休日とは言い難いということも、この現象に拍車をかけている…)
これって、楽しいはずの週末を100%楽しめていないみたいで、ちょっと損している気がするんだよね。

まあ、「お祭りの前の高揚感」というのは誰しも多少はあるだろう。でも、「祭の後の寂しさ」を何も「祭の真っ最中」に感じなくてもねぇ…
「気分の先取り」にもホドがあるってものだ。


p.s.前エントリでお知らせした「めすねこ」さんですが、無事ご出産されました!
出産直後にブログで報告があってビックリ!ホントにおめでとうございます~!

政略結婚

2006-05-23 | ヤワラカメの話
「政略結婚」というと、どんなイメージがあるだろうか。
普通は、
「本人の意思を無視しての、意に沿わぬ相手との不幸な結婚…」
みたいな暗い感じを思い浮かべるのではないだろうか。

「意に沿わぬ」というのではないけれど、「恋愛感情からのスタートではない」という意味では、お見合い結婚も同じだ。
「恋愛至上主義」のようなものが幅を利かせている今の世の中では、お見合い結婚は多少肩身が狭いのではないだろうか。

でも、本当にそうなのかな…?と思うんだよね。

大河ドラマ「功名が辻」では、「政略結婚は不幸せなもの」という固定されたイメージでは描かれていない。
むしろ逆だ。結婚する相手や結婚の経緯がどんなものであっても、連れ合いを思いやり、力を合わせて乱世を乗り切ろうとする姿は、恋に浮かれた現代の男女にはない絆の深さを感じさせる。

またおのろけっぽい話になってしまうが…
私は、結婚を半分「はずみ」で決めたようなものだった。(詳しい経緯は省略^^;)
最後の最後まで、どころか、結婚してからも「この人でよかったんだろうか…」と、往生際悪く思い悩んでいた。

しかし今振り返ってみると…
結婚後に二人で築いてきたモノの「かけがえのなさ」といったらどうだろう。
幸せな結婚というのは、「めぐり合ったり」「降ってきたり」するものではなくて、「二人で作り上げる」ものだったのだ。

もちろん私はここで、「見合い結婚賛成!恋愛結婚はダメ!」と言いたいわけではない。
ただ「政略結婚」だから不幸だったと決め付けるのは早計だろうと思う。
実際のところは、政略結婚の8割、いや9割は幸せな結婚生活だったのではないだろうか。
少なくとも、今の恋愛結婚全盛時代における「結婚幸せ率」に、決してひけはとらなかったのではないかと思う。

結婚相手に限らないことだが、いろいろなものを「選べる」からといって、必ずしも「幸せ」に結びつくとは限らない。むしろ、与えられた運命を懸命に生きることでしか得られない幸せもある…ということをつくづく思ったりしている。
結局「幸せ」というのは、どこまでいっても自分の見方しだい、なのだ。