愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

上宮寺 岡崎市

2013年08月25日 08時03分13秒 | 岡崎市
松平記で、見てきたように上宮寺は三河一向一揆が起こるきっかけとなったお寺です。現在のお寺は写真のように極めて現代的な建造物になっていました。


上宮寺本堂


上宮寺山門

歴史を忘れてはならない、しかし過去にとらわれてはならない
 いったいどうしてこんな現在的なお寺にかわったのか寺内を散策したら、その経緯を伝える碑がありました。

 普通お寺には、お寺の増改築に寄付を寄せてくれた人の名前を書いたものが張り出してありますが、上宮寺は、立派な石碑になっていました。
 それによると、1988年(昭和63年)8月31日出火し全焼してしまったようです。再建についてどうしたものかと困っているところ、「去る先人の『歴史を忘れてはならない、しかし過去にとらわれてはならない』との指示を受け、目前に迫る21世紀の寺院のあるべき姿を勘案して総額5億円余りの浄財を集めることにした」そうです。
 お寺として21世紀にはどうあるべきかを考えて、このような建物になったといいます。すごい大胆な発想で、感動しましたが、私個人としては古くから伝わる上宮寺の姿をとどめて欲しいと思いました。

往時を偲ばせる鐘楼
 さて、三河一向一揆の時代の上宮寺ですが、その面影をしのぶものは余り残っていませんでした。たぶんその当時のものに近いと思われる鐘楼がありました。


また、現代風の建築ができる前の本堂の写真もありました。


岡崎市の案内板
 岡崎市の案内板にコンパクトに上宮寺について記載してあったので、それを掲載します。

 この案内板によれば、聖徳太子の開基とあります。上宮寺という名前はこのことに由来しているわけです。また、「17世紀初頭の絵図によれば、北東南を妙覚池に囲まれた方形の平地上に建ち、三方には土塁と堀がめぐらされ、西にも土塁があった。その西の堀と溝に囲まれた区画に寺内町があり、全体として守護不入の特権が認められていた。」とありました。
 また、「東方の土塁跡などから往時を偲ぶことができる」とあります。この土塁跡は見ることができるようなので、見てみたいと思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松平記(2) 西三河地方

2013年08月25日 06時37分00秒 | 歴史史料
三河一向一揆の始まり
 さて、松平記には巻二に三河一向一揆についての記述があります。現代語に自分なりに訳したものを記載します。はじめは、事の起こりについてです。

家康の家臣菅沼藤十郎が上宮寺に入り、もみを取って帰る
一 永禄5年(1562)<1>の秋の終わりごろ、三河に住んでいる徳川家康の家臣、菅沼藤十郎定顕<2>というものが砦を作り、その兵糧として佐々木の上宮寺に行き、干してあったもみを取って、城に帰った。

上宮寺ら三ヶ寺が菅沼から取り返す
しかし、この寺は三河国の三ヶ寺<3>の一つである。残る2ヶ寺(野寺本證寺、針崎勝鬘寺)の僧侶たちが寄り集まって話し合った結果、「この寺は、この三河国にもともとあった寺であり、開山したときからずっと税金を取られず、武士が犯罪人を捕まえようとして立ち入ろうとしてもできない不入の地<4>である。このような甲乙人(輩)<5>の乱暴が許せるような所ではない。将来のため戒めなければならない。」として、農民たちを催促して菅沼藤十郎の城へ行き、菅沼の者たちを打ち、雑穀をたくさん取り返して帰った。

家康家臣酒井雅楽助が使いを上宮寺にだすが、きられてしまう
菅沼藤十郎は大いに怒り喧嘩を起こそうとしたが、かなわず、このことを酒井雅楽助政家(うたのすけ まさいえ)<6>に話した。政家はこれを聞いて使いを上宮寺に遣わしたが、その使いが切りつけられてしまった。

酒井雅楽助、上宮寺に行き「狼藉者」を逮捕する
家康はこれを聞いて政家に検断(逮捕)<7>を申し付け、上宮寺の狼藉者を戒められた。

一揆が起こる
それで、寺の坊主の檀那ならびに末寺、末山、土民、百姓らは一丸となって一揆を起こし、駿河衆がいるところにも、お触れを送り家康に対して反抗するよう促がした。また三ヶ寺の寺を城に構えた。家康の譜代衆の中のこの宗旨の檀徒は、一揆の一味となり、家康に逆心をなした。


<1>一揆の起こった年については、永禄5年説と永禄6年説がある。「松平記」「三河物語」は、永禄5年に事件が起こったとしている。ただし、「三河物語」は、本證寺で事件が起こったとしている。「参州一向宗乱記」は、永禄5年(或いは6年)に本證寺で事件が起こったと記述している。新行氏によれば、永禄5年はまだ東三河の国人武士たちと家康が戦っている時で、一揆まで手が回らなかったはずとし、5年に事件が起こり、一揆との戦いは、6年に始まったとしている。

<2>この菅沼藤十郎(定顕・さだあき) 西尾城酒井雅楽助政家(正親)の家臣らしい。菅沼の砦は佐々木(佐崎)にあったらしい。菅沼の存在について、否定する説もある。

<3>有名な三河三ヶ寺であるが、どのような経緯で三ヶ寺と呼ばれるようになったか不明である。

<4>不入の特権は、家康の父広忠が上宮寺・本証寺・勝鬘寺の三河三ヶ寺に認めた検断権(逮捕)の拒否、年貢・諸役の免税であった。
三河の本願寺教団は、この特権をもとに寺内町を形成し、寺内から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、家康家臣に貸し付けたりして裕福な宗教ブロックを形成していた。
三河統一を目指す家康としては、必然的に解体を計らねばならぬ存在であった。(HP「三河松平家臣団の城郭跡」より)

<5>甲乙人(こうおつにん)とは、中世日本で使われた語で、年齢や身分を問わない全ての人。転じて、名をあげるまでもない一般庶民のことを指した。

<6>酒井雅楽助政家 「愛知県史 資料編11 織豊1」では酒井雅楽助を<政家>と解読している。酒井正親と同一人物である。

<7>検断(けんだん)とは、中世の日本においては警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語で、罪科と認定された行為について犯人の捜査と追捕(逮捕)、その後の取調と裁判、判決の執行までの一貫したプロセスを指す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松平記 西三河地方

2013年08月22日 17時27分40秒 | 歴史史料
松平記は三河一揆を知る上で重要な史料
 「松平記」は、三河一向一揆を知る上で重要な史料です。しかし、いつ、だれが書いたものか分かっていないそうです。「愛知県史 資料編11 織豊1」の解説のところでは、慶長年間(1600年~1607年)松平忠吉の清須城主時代ではないかと推定していました。また、この文献の中に、天文13年(1544年)家康の母御大が離別したとき、著者の父が刈谷に護送したという記事があることから、著者は家康のそばで同時代を生きたとみなされると史料の価値を説明しています。

ネットで見れる松平記
 愛知県史資料編での「松平記」は、明治30年刊行の流布本「校訂松平記」を底本としているそうです。ネットで調べたら、ホームページ「近代デジタルライブラリー」で公開されていました。

著者 坪井九馬三、日下寛   
出版社 青山堂雁金屋   
出版年月日 明治30年9月   
シリーズ名 文科大学史誌叢書

ということです。


「松平記」の表紙


三河一向一揆について書いてあるところ

 明治時代といっても、文章は毛筆で近世文書に限りなく近いものなので、それをそのまま読むことは、今の私ではできません。なので、実際は愛知県史に活字となったものを読むことにします。今後こういう文書も読めるようになるといいなあと思っています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三河一向一揆の史料 西三河地方

2013年08月22日 07時44分54秒 | 歴史史料
三河一向一揆の史料
 先月三河のお城などを訪ねたときに、三河一向一揆の話しが出ました。この一揆の中で、野場城では夏目正信が家康と戦っていました。東条城では、東条義昭が家康と戦っていました。
 そこで、三河一向一揆について詳しく調べることにしました。最寄の図書館、徳重図書館に愛知県史があり、その資料集「資料編11 織豊1」に「三河一向一揆特集」としていくつか資料があったので、それを読むことにしました。
 愛知県史の資料は以下のとおりです。
 松平記 巻二(抜粋)
 三河物語 巻中(抜粋)
 渡辺忠右衛門覚書(抜粋)
 水野勝成覚書 下総結城水野家文書(抜粋)
 寛永諸家系図伝 渡辺守綱(抜粋)
 寛永諸家系図伝 内藤正成(抜粋)
 寛永諸家系図伝 松平信一(抜粋)
 寛永諸家系図伝 松平伊忠(抜粋)
 寛永諸家系図伝 高力清長(抜粋)
 寛永諸家系図伝 成瀬正義(抜粋)
 寛永諸家系図伝 松井忠次(抜粋)
 永禄一揆由来 勝鬘寺文書
 読みやすく、書き下し文になっていましたので、インターネットで語句の意味や人物の評伝などを調べながら読みすすめました。
 また、ここには掲載されていませんでしたが、「参州一向宗乱記」(笠原一男 校注(日本思想体系十七 蓮如・一向一揆))も岡崎市図書館でコピーすることができました。

史料の分類
 さて、これらの史料ですが、愛知県史、岡崎市史のどちらの執筆者も同時代のものでないこと、一揆の一方の側(家康側)のものであることなどを述べていました。特に岡崎市史の執筆者新行紀一氏は、これらの史料を以下のように分類していました。
 A 17世紀中葉までに成立したもの
   A1 松平記、三河物語    A2永禄一揆由来
 B 18世紀成立のもの
   三河記異考拾遺録 土呂一揆巻 三州本願寺一揆書 三州一向宗乱記 等
 そして、Bは一揆体験の伝承に基づかないいわゆる研究書の部類に属する二次的史料であるとしていました。上記「寛永諸家系図伝」は寛永とあるので、17世紀に成立したものと考えられるので、新行氏の分類に従えば、Aに属するのでしょうか。さすがは県史ですね。新行氏の分類でAに属するものを選んで掲載していました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔀山城とは 広島県庄原市高野町

2013年08月09日 17時39分43秒 | 広島県
 説明の順序が逆になってしまいましたが、蔀山城とはどんな城なのか、南側の麓にあった「蔀山城由来記」をそのまま転写します。ただし、カメラの写す位置が悪く、部分的に読めないところがありました。すみません。



蔀山城由来記

蔀山おろすあらしのはげしくて
  もみぢのにしききぬ人もなし

後鳥羽上皇承久の乱により、遠く隠岐の島□
御遷行の途次、この山麓を御通輦(つうれん)ありし時□
御諫と伝えられるものである。
正和五年首藤山内三郎兵衛尉通資は、地毘荘地
頭として相州鎌倉郡山内荘より移住。当山に
築城し越田城と称したが武衛繁栄の山なりと
て士冨山城(後に蔀山)と改めた。村の地名
夛賀に本貫地山内を併せ地名家名とも夛賀ノ
山内としたが後に夛賀ノ山(高野山)と称□
るようになった。元享二年積雪寒風烈とて甲
山城に移り当城は弟通俊に譲った。元弘の変
には南朝方に建武中興後には足利方に属し山内
一族一揆の盟約をした。大永六年夛賀山通続
は尼子方を離反した為に享禄二年尼子経久に攻
略された。天文四年毛利元就の軍門に降り以
来尼子毛利両軍争奪の地となり永禄十二年春
尼子軍が当城攻撃中に出雲国造千家氏の勧奨
により和談が成立した。通信の時毛利輝元□
□高松城後詰等の責を問われ天正十九年九□
□□□斯くて築城以来二百七十五年にして□
□やがて廃城となりしは哀れなる事也。
嗚呼今や郷人この山を神境聖域と敬う。されば
秘話物語遺跡は多し永く伝承されん事を


なかなか趣のある説明でした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする