人と人との関係で、互いに理解し合う、わかりあうことが必要であることは、言うまでもありません。
グローバル時代に入り、今後、日本国内でも海外出身者と仕事でいっしょに働く機会も増えてくるでしょう。
日本国内では少子化が進み、わが国の産業を維持するだけに必要な労働者の絶対数が不足してきます。そこで国内企業が海外出身者を雇用するようになるからです。
そうなると今まで、「日本人」の中だけで基本的におさまっていた人間関係の築きかたが通用しなくなります。
つまり「以心伝心」や「あうん」の呼吸のように、相手の気持ちや意向を感じとり、つきあっていくやり方(HIGH CONTEXTといいます)の限界に、私たちは直面するのです。
「日本人」は、実際に相手と話してわかりあうというLOW CONTEXTをベースにしている海外出身者や外国人といっしょに活動していくことになります。
宗教的・文化的な価値観や考え方・行動様式のちがいに出会い、当然、あつれきが起こってきます。
ですから、いま「多様性」を理解して、自分の立場を明らかにしたうえで、合意点を見つけたり、おりあいを付けたりする「合意形成力」がグローバル社会で生きる日本人に求められます。
しかし、実際に外国人と深く付き合っていくと、すべてを理解しあって人間関係をつくるというのは、それほどたやすいことではありません。
たとえば、宗教的にできないことややらない習慣をもつ外国人もいます。時間の感覚が厳密でない価値観をもち、それを行動様式にしている人たちもいます。すべてを理解しあってと思っていたら、いつ理解できるかわからない。
三中にも、今年度の1学期まで外国人の女子生徒がいました。彼女はラマダンの断食の期間中、給食を食べずに過ごしていました。クラスの仲間たちは、文化のちがいを認め、「そうなんやね」という感覚で自然に受け入れてました。
このように、相手の「わからなさ」を、その人自身である、それが真実である、その人が信じていることであり、どれがいいとか、よくないとかという価値観ではなく、「それがその人」と尊重することが大切でしょう。
たとえば食品にしても、自分はあまり辛すぎるものは食べないが、においだけはがまんするというように、理解できないまま、お互いを認めなければならないということが起こってくるのでしょう。
つまり「そういうものである」と尊重して、認めていくことが多文化理解とか多様性への寛容であり、今後の日本社会を背負っていく子どもたちには、このようなとらえ方、考え方、行動が、よりいっそう求められてくるのでしょう。