特別なファンではなかったが、聴いていたクイーン。
最後、20分のライブシーンは圧巻。
曲ができるまでの経過が映像化され、興味深かった。
フレディはハーフかと思っていたら、インド人だったのは驚いた。
出自は秘密にしていたかったそうで、クイーンのwikiには書かれていない。
最後に、フレディのwikiを。
超階級社会インド、父はある程度富裕層の中にいたと思う。
家庭の感じ、規律を守り生きる、息子にも厳しく教えていた。
インドのホワイトカラー家庭なので、ピアノも習え、美術も勉強できたのだろう。
家族は英に移住する。フレディ、17歳の時。
学生バンドへ参加し売れなくても、何とかなっていた日々。
メンバー、ロックなので、格好、行動はすごく、めちゃもあるが
高校を卒卒業し、専門の勉強もしている。
ブライアンは物理専攻?ロジャーが歯科医?
高校中退でロックをしていたわけではない。
ある程度ゆとりがある生活でないとできない気がした。
フレディはメアリーと知り合い、一緒に暮らす中、
ベッドでゴロゴロしつつ、ボヘミアンラプソディーの、
初めの2フレーズを
ピアノで弾く、
ここからあの名曲は生まれたと知った!
YouTubeで指をみると、それほどは習っていない弾き方ではあるが
ふっとメロディが浮かび、それを弾く、またそのフレーズに足していく、
自由な作曲だったろう。
4人全員が作詞作曲ができたとあるが、半分以上フレディらしい。
冒頭、20世紀フォックスの初めの音も変えられていた。
ドラムの上に液体を流し叩く、あれはお水?、そうでないと楽器傷むね。
Gピアノの弦の上に何かを置き弾いたり、楽しんで作った!
まさにロックをしていた彼ら。
他の3人は家族がいるが、フレディだけ、ゲイ、バイセクシャル、
遊ぶ仲間はよってきても、常に孤独感はあった。
寂しい曲想もあるのは、そのあたりからか~
認めてくれない父との葛藤、このあたりは、マービンゲイを想った。
彼は、新興宗教の牧師の父に射殺されて亡くなった。
なくなったの同じくらいの年かな~
ライブエイドで、マイクを持って言葉を叫ぶ、みなと一緒にと。
この辺りは、山下達郎ライブのマイク無し、舞台の奥へ行き、ライドオン~など
2千人のキャパだが、最後列まで届く声で叫ぶのと似ている(^^♪
達郎、フレディのまねかも。年は4歳くらい下。
FM達郎のサンソン、リクエストなどでクイーン、かけてると思う。
フレディは猫好きだったのね。
子供の代わりのように部屋も与え飼う。
メアリーとは、初めはブライアンが付き合っていたとある。
彼女とフレディの長い関係は、私には考えられない。
別れても一生、彼を気遣い支えになっていたということが。。
それだけ、魅力があったのだろう。
45歳、エイズでの死は乱交パーティ、薬で自業自得といえる。
映画は、若き日に燃焼した彼の華麗な歌声勢いと孤独を描き、
ラストは父にも理解され、家族とも仲良く、ジムを紹介、
友達という言葉を使う。
晩年はエイズでもジムと穏やかに過ごせたのだろう。
王様の時期も経験、短くてもよい人生だったと思う。
ゾロアスター教!火の神、で火葬とクレジットされた。
ローリングストーンズ誌が、この映画と事実との違いをいくつかあげていた。
音楽は素晴らしいと改めて思う映画。
無人島に持っていくなら音楽、ウォークマンに好きな曲を3千くらい入れて。
本、DVDより、1つ選ぶなら絶対音楽。
wikiより。
フレディは、当時イギリス領だった、東アフリカ・タンザニアにあるザンジバル島のストーン・タウンで生まれた。両親のBomi(1908〜2003)とJer Bulsara(1922〜2016)は、
ペルシャ系インド人であるパールシー。
彼の名字のバルサラは、インド・南グジャラートの町であるバルサードに由来する。
植民地のオフィスで会計係として働く彼の父親が仕事を続けるため、ザンジバルに移った。
彼の妹にKashmiraがいる[2]。
フレディが住んだザンジバルの家
フレディは、インドで幼少期の大半を過ごした。7歳の頃にピアノを習い始める[3]。
1954年、8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外のパンチガニ(英語版)にある
全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う[4]。
この頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当した。
ボリウッド歌手のラター・マンゲーシュカルが彼のミュージカル形式に影響を与える[5]。
12歳で、彼はスクールバンドの「ザ・ヘクティクス」、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバー・ロックンロール・バンドを組織する[6]。
当時の彼の友人は、フレディは「ラジオを聴き、その後で聴いた曲をピアノで再現する、異様な能力」を持っていたと振り返る[7]。
1963年にザンジバルに戻り家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年ザンジバル革命が起こり、
アラブ人とインド人の多数の死傷者が出た。当時17才のフレディとその家族は、安全上の理由でザンジバルから逃れた[8][9]。
家族は、イングランドのミドルセックス州フェルサムにある小さな家へ移り住んだ。
フレディはウェスト・ロンドンにあるアイルワース工業学校(現在のウェスト・テムズ・カレッジ)に入り、芸術を学んだ。その後、イーリング・アートカレッジへ進み、芸術とグラフィック・デザインの修了証書を受け取る。
彼は後に、クイーンでこれらの技術を用い衣装をデザインしている[4]。
卒業後、フレディはバンドに参加しながら、ガールフレンドであるメアリー・オースティンとロンドンのケンジントン・マーケットで古着を販売していた。
彼はさらに、ヒースロー国際空港でも職に就いた。当時の友人は、彼を「音楽に対して関心を示す、静かで内気な若者」として記憶している[10]。
1969年、彼はレッケイジと改名し、バンドのアイベックスに参加する。
しかし、このバンドは上手くいかず、サワー・ミルク・シーという別のバンドに加わる。しかし、このグループも、1970年前半には同様に解散した[11]。
1970年4月、フレディは、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド、スマイルに加わる。
メイやテイラー、それに当時彼らのマネジメントに携わっていたトライデント・スタジオが難色を示したものの、フレディの選んだ「クイーン」を新たなバンド名とした。
このバンド名について、フレディは「間違いなく堂々としているし、響きもいい。それに力強さもあって、どこでも通用するわかりやすいネーミングだ。
ゲイを思わせるような名前だとわかってはいたが、それはほんの一面にすぎなかった」と語っている[12]。同じころ、
フレディは名字をバルサラからマーキュリーに改めた[13]。 ~~