山崎朋子著。S47年初刊。44刷。筑摩書房。
副題「底辺女性史序章」
この本は前から知ってはいたが、未読だった。
今回何かのきっかけで借りた。保存書庫に。
山崎朋子も知ってはいたが、経歴は知らず調べた。
1932年長崎生まれ。女性史研究家。下記にwiki。
本書は研究本というより、紀行本で読みやすいが、
天草弁がわかりにくい箇所もあった。映画化もされている。
映画化で、取材したおさきさんへの中傷が増えたとある。
驚愕のからゆきさんの生活、感想をどう書いたらいいか・・
興味がある方は読むといい。難しくはない。
明治から大正中期頃、全国から、
多かったのは長崎の島原、天草付近の極貧の少女たちが、
アジア、シベリア、アフリカで遊郭に入り海外で売春、
借金を返すまで働いた話。向こうでなくなる人もいた。
唐人行、からひといき。唐は中国のことだろう。
アフリカのことは全くでてこない。
山崎のフィールドワークといっていい。
1968年。初めに長崎のカトリック教会箇所。
私は若いころ1回、長崎へ行ったとき
海辺の畳の教会があり、似ている教会の話から、引き込まれた。
同じ教会ではないだろうが、畳の教会が
残っているのだろう。
偶然、家族の友人も転勤で長崎の田舎町に在住。
地図をみつつ読んだ。
私が高校へ入る時代、日本の片隅では、まだここまで
貧しい暮らしがあったのか!
今も貧富の差があるが、これを読むと、とんでもない、
と感じた。からゆきさんだった、おさきさんは、
M42年生まれ、兄、姉がいる。
崎津のおさきさんの家?に天草への3回目の旅。
初めて山崎はおさきさんの家で3週間暮らす。
その暮らしぶり、おさきさんと繋がりがあった、人々との出会いの本。
家はおそらく二人が寝られる位。ボロボロの畳には
ムカデが張い、トイレ、ふろ、キッチンもない。
壁もぼろぼろ。お情けで、30Wの電球が1つだけ。
常に暗い。そこで、おさきさんは、月4千円で生活。
息子からの送金。
周りにも似たような家があるが、おさきさんの家が一番ひどい。
山崎は、研究を明かすと真実を話してくれないと考え、
彼女に会う。おさきさんも、なぜか、嫁が来たといってくれた。
誰かと一緒にいたい、気持ちからかはわからない。
山崎は東京に一人娘10歳を学者の夫に頼み、3週間いられた。
夫は協力的だった。
旅の決意まで多くを考えた。私なら行かないと思う。
ボロボロの家に一緒に住む、1日で無理だろうと。
著者の心がすごい。行っても本にできるかはわからない。
食事は2食、麦半分と、おいもの煮たの、お塩だけ。
お茶もない。ムカデが這うボロボロ布団で寝る。
猫を何匹か飼っている。
猫のための魚の端をたまに二人で食べる。
一緒の生活をしないと口を開いてくれない。
おさきさんは、周りの人に、息子の嫁が来てくれた、と嘘?をいい、
何事もなく3週間は過ぎる。
バスなどで、何人かの、からゆきさん、その関係者と話す。
手に入れたモノクロ、からゆきさんの写真、
ボルネオの光景も載っている。
おさきさんは、字も書けず読めない。
10歳の時、極貧で、ボルネオ、インドネシアへ行く。
サンダカンはボルネオの大きな港市。
他にも一緒の少女がいた。娘を売り父母はお金をもらった。
はじめはお手伝い、14歳からわけもわからず売春をした。
20歳まで生理にならず、1か月もとまらず、死ぬかと。
知識がない。生理中も売春はさせられた。
35歳くらいで、生理は終わった。
多いと日に30人!人種もさまざま、
SEXは土人(現地インドネシアの人か)はさっぱりしていた、
中国人がしつこく長い。西欧は普通。
日本人もいやらしかった。一晩では10円、寝させてくれず
きつかった。
売春しなければ生きていかれない。よかったことは、
天草では水だけもあった。
ここでは3食、白米(現地の)が食べられ、
おかずもついたこと。それが一番うれしかった。
あとは何もなく、ただ売春だけ、休みはなかった。
ある女衒が死に、女性、おくにさんがトップに。
彼女はよくしてくれた。待遇がよくなり、皆のことを考えてくれた。
その時は悪くない生活とあった。
妻ある英国人の妾になる。SEXは多くはなく、浮気の隠れ蓑だった。
よい家に住め、4年で帰国してもいいといわれ、
天草へ帰るが、売春していたと知られ、居場所はなく、
半年でボルネオに戻る。
その後妾を2年続けるが英国人が帰国した。
日本人と結婚。夫はDVで逃げる。
友人がいる満州へ、そこで再婚、30代で息子を産む。
家ももてた。夫は真面目な人だったがS36年に病死。
仕事もなく戦争に負け、夫のふるさと京都へ。
日本へ帰るが天草へもどった。
ボルネオへは、船で水食事もなく航海で餓死もあった。
給水タンクに隠され、おぼれて死ぬ少女もいた。
おさきさんより悲惨は、多数ありと研究本に書かれている。
何人かの男性の著書から、引用がある。
山崎は3週間の間に、天草の元教師と会い、当時の教え子からも
からゆきさんの聞き取りをした。
東京からきて、何かを調べに来ていると噂になり、
これ以上いても、もう調べられない、真実は語られない。
多数の証言を得たので、戻る決意をする。
それをおさきさんにいう二人のやりとり、
ちょっと泣けてくる箇所。
おさきさんは、はじめから少しは知っていて、山崎を
招いてくれたのか?
「娘が待っているなら、もう帰りなさい、一生、忘れないと」といわれた。
家に戻り、本の出版まで4年。多くを考えた。
果たして書いていいのか?
おさきさんの話はメモをし、夫あてに毎日のように郵送していた。
それら資料を整理し、ようやく出版された。
天草の極貧は、この地域の自然からきている、
平地がすくない、川もなく、港町もない。魚もとれない。
生産力が乏しい。その割に家族の人数が多いので、食べられない。
自然環境が悪いことが、からゆきさんへの1つの原因。
~何という本を読んだかと感じた。
私が高校のころ、日本の片隅では、日々、ごはんもまともに
食べられず、ムカデの布団で生きていた、高齢女性がいた。
現代も経済格差はいわれるが・・
帰るとき山崎は、おさきさんの家を少しでもきれいにと
材料を買い、二人で壁などをリフォーム?する。
ムカデも出ないように。滞在費、お金も渡そうとするが
決して受け取らない。ただ、食費だけはと、ほんの少しだけ
受け取った。
売春の日々、毎日ご飯をしっかり食べられた、
これがうれしかったは、1つでも良かった。
そして結婚し子供もできた。
息子からの4千円の送金で暮らす。生保は申請しないでくれと
いわれたので、受けていない。
本当にひっそりと、毎日、天草の神様にお祈りし
生きてきた、おさきさん。出版は知っていた。
私も読んで。どこかから、見ていてくれるかな~
自殺した女性もいるなか、つぶれず、帰国し
山崎と出会った。
山崎とは手紙の交換(読めないので代筆)をしていた。
信じられないという思いと過去の現実に向き合う本。
男性の身勝手さも十分感じた。
この本のあとに、山崎はサンダカンのお墓、
を書いている。これは別の視点があるとレビューにあった。
副題の「底辺女性史序章」はどうか?という気もした。
なくてもよかったのではと。
からゆきさんは、単なる過去の海外売春、だけでなく
日本とアジアの歴史、男性観、女性の生き方を
考えさせられる。現在でもホストに熱をあげ、
借金をし、海外へ売春のニュースがある。
極貧からではないが、女性という性を利用する
男性、マチズモが明らかに存在する。
山崎朋子
〇1932年、長崎、佐世保市生まれ、広島県呉市と広島市で育つ。呉市立仁方小学校卒(文芸春秋講演会での発言から)。母は歌人で三冊の歌集を持つ大畑晴子。
1940年、父が艦長を務める伊号第六十七潜水艦が沈没し、父を喪う。
1945年、広島市への原子爆弾投下前に母親の郷里福井県に移り終戦を迎える。1952年、福井大学教育学部二部を2年修了。福井県で小学校の教師をした後、1954年、女優となることを夢見て上京、~~
東京大学院生・金光澤と事実婚。済州島生まれの金は20歳で朝鮮から来日し、
東大法学部を経て院を卒業したが、職に恵まれず、
山崎が昼は会社員、夜は喫茶店ウェートレスをして金の民族運動を支えた[2]。
~~ナショナリズムのゆえに在日朝鮮人の間で日本人妻を忌避する風潮が現れ、
金の許を去る。金との同棲は2年ほどだった[2]。
その後喫茶店で働きつつ、写真のモデルなどをしていたが、1958年、一方的に朋子
に執着した男に顔を傷つけられ、女優の夢を断たれる。同年、
新宿の風月堂でウェイトレスをしていて、児童文化研究者・上笙一郎と知り合い、
1959年、結婚。上の本名である山崎を姓とする。(以上は自伝『サンダカンまで』に詳しい)
これ以降、女性史研究者としての勉強を始め、1966年、上との共著『日本の幼稚園』で1毎日出版文化賞受賞[4]。
アジア女性交流史研究会を創立し、1977年まで『アジア女性交流史』を刊行。
1973年、九州地方の「からゆきさん」の聞き書き『サンダカン八番娼館』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞[1]。
同作は映画化され(『サンダカン八番娼館 望郷』、熊井啓監督)[1]、ベストセラーとなり、
家を建てるなど余裕のある生活が可能になった。一方『サンダカン八番娼館』の「からゆきさん」のモデルであるおサキさんは~~