千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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松戸市の戦争遺跡1

2006-05-06 | 松戸市の戦争遺跡
1.陸軍工兵学校址

陸軍工兵学校は、現在のJR松戸駅の東口をまっすぐ東へ進んだ相模台の台地上にあった。すなわち、1919年(大正8年)12月にそれまであった松戸競馬場が中山に移転した後に、陸軍工兵学校は開校した。現在、その跡地は松戸中央公園として、市民の憩いの場になっている。

陸軍工兵学校は、1919年(大正8年)4月制定された陸軍工兵学校条例により、開校した日本で唯一の工兵学校である。すでに陸軍には歩兵、騎兵、砲兵などの兵科学校はあったが、第一次大戦を目の当たりにした陸軍は、軍備近代化に伴う工兵関係学術調査研究、工兵用兵器資材の研究試験、下士官候補者・甲種幹部候補生教育を目的として同校を創設した訳である。
工兵学校の学生は全国の部隊から選抜派遣され、下士官候補生1年、甲種学生半年といった教育期間を経て、原隊に復帰し、工兵として各種任務に従事したが、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にいたるまでの27年間、多くの専門教育を受けた工兵を輩出し、松戸はまさに「工兵の街」であった。

現在も、隊門、歩哨所が、往時そのままで残っているほか、公園内に記念碑がある。

<公園内にある工兵学校の碑>


工兵学校の碑は、松戸中央公園の西側、イトーヨーカドーのある場所に近い台地端にある。「陸軍工兵学校跡」とあり、元陸軍中将宮原國雄の書になる。宮原國雄は、工兵科で陸士、陸軍砲工学校を優秀な成績で卒業し、日露戦争などの戦役に従軍、のちに陸軍省軍務局工兵課長や陸軍砲工学校校長をつとめた人物である。
工兵学校の碑には、「陸軍工兵学校は主として工兵が技術を研究練磨しその成果を全国各工兵隊の将兵に普及する使命をもって大正八年十二月一日景勝の地ここ相模台上に創立せられ逐年その実績を挙げ大正十五年十月二十八日摂政宮殿下の台臨を始めとして幾多の栄誉に浴せしが昭和二十年戦争の終局とともに光輝ある二十七年の歴史を閉じたり。いま台上往年の面影を留めずよって縁故者あい謀り記念碑を建立して後世にに遺す。 昭和四十二年四月 工友会」とある。

<現在も残る隊門>


現在は、松戸中央公園の門になっている。門の横には、歩哨所も残っている。レンガ門であるが、保存状態がよく、工兵学校の看板をかけたフックも残っている。

<よく見ると門にフックの金具も残る>


<歩哨所>


門の横には歩哨所があるが、一人が入ることのできるほどの広さである。

<現在は公園となっている跡地>


工兵学校のあった場所は、現在松戸中央公園となっている。近隣には、検察庁法務局、松戸地方裁判所、公務員宿舎、聖徳学園(大学など)がある。

この相模台の台地へは、西側JR松戸駅のある低地からは、検察庁法務局の横をS字状にカーブした、通称「地獄坂」をのぼっていくのが近道である。一方通行のため、車ではのぼっていくのは出来るが、下ることはできない。

<通称「地獄坂」>


「地獄坂」とは、訓練などの帰途、工兵学校の学生たちが、「学校まで駆け足」という教官の号令のもと、その坂の急勾配を上っていくのが辛いため、この坂をそのように呼んだらしい。この「地獄坂」の途中、写真では車が走っている横のマンション側の電柱と並んで、陸軍の境界標柱があり、「陸軍用地」と書かれている。そのほかにも、近隣には「陸軍用地」の標柱が何本か残っている。

なお、相模台の工兵学校のあった場所は、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の主要な合戦場のひとつであった。この相模台には、その合戦の際の戦死者の塚と伝える「経世塚」が、聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことであるという。

<経世塚~実態は古墳である>


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