千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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習志野市の戦争遺跡2(習志野騎兵と大震災時の虐殺)

2006-11-14 | 習志野市の戦争遺跡
1.日露戦争で有名になった習志野騎兵旅団

前に「習志野市の戦争遺跡」で述べたように、1873年(明治6年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられて以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた一環であるが、1899年(明治32年)日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。1901年(明治34年)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。第一旅団は第一旅団司令部と騎兵第十三連隊及び騎兵第十四連隊によって編成されており、平時は近衛師団に属した。日露戦争の折には、当時最強といわれたロシア帝国のコッサク騎兵部隊に対し、秋山好古騎兵第一旅団長が率いる騎兵部隊は、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う、工兵などとも連携するという戦術を駆使して戦った。その戦い振りは、習志野の地名を全国に広めるきっかけとなった。

<秋山好古旅団長:前列中央(写真:アイザワスタジオ)>


<騎兵第一旅団司令部址の記念碑(右にあるのは「軍馬之碑」)>


秋山好古は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場し有名になったが、日露戦争において騎兵第一旅団長として出征した。秋山率いる第一旅団は、金州、南山、大連と転戦、得利寺の戦闘ではロシア騎兵とはじめて戦って、これを破り、遼陽会戦でミシチェンコの大騎兵軍団と交戦し、健闘している。閑院宮が旅団長であった第二旅団は、遼陽会戦後に参戦し、沙河会戦で活躍した。1905年(明治38年)3月の奉天会戦では両旅団が秋山支隊となって、ロシア軍のコサック騎兵部隊と戦った。戦争末期の黒溝台の戦いでは、最左翼の秋山支隊はロシア軍の攻撃をうけ、一時騎兵を馬から降ろして歩兵編成とし、塹壕に入ってかろうじて陣地を維持する激戦ぶりであった。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された長沼挺身隊は、小説『敵中横断三百里』のモデルとなった。元教員という珍しい経歴や酒豪でも知られる秋山自身の個性や、実弟である海軍参謀秋山真之の日本海海戦での活躍とあわせて、国民の間に日露戦争の勝利のエピソードとして強く印象づけられた。

このように、騎兵第一、第二旅団は日露戦争に出征し、さらに日中戦争時には第一旅団が派遣された。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。

<騎兵第十四連隊の隊門>


<「満州事変」に出動した騎兵第十三連隊(写真:アイザワスタジオ)>



2.騎兵第十三、十四連隊の記念碑と遺跡

正確には殆どが船橋市の範囲にあるため、習志野市の戦争遺跡に入れているのもおかしいかもしれないが、騎兵旅団司令部址は習志野市側にあるので、ご容赦ねがいたい。騎兵十三連隊は今の東邦大学、十四連隊のほうは日大生産工学部の敷地内にあった。
守衛さんに断って、日大構内を行くと、南西隅の方に各種記念碑が建っている。

<「騎兵第十四聯隊跡」の碑>


上記の左側の小さな折れた碑は、騎兵十四連隊のオリジナルともいうべき隊碑で、右が復元されたもの。
「明治34年11月創立、昭和7年6月満洲移駐、昭和8年5月建立」とあり、是永浩留守部隊長が建立した石碑である。
昭和7年(1932)満州移駐とは、満州事変への出動ということであり、以来旧満州を中心として、1933年(昭和8年)1月には海拉爾に移り、各種作戦や討伐に参加、そのなかで騎兵という時代にミスマッチな形から機械化が志向され、1940年(昭和15年)1月には自動車化部隊に改変され、1942年(昭和17年)6月のオルドス作戦に参加後、10月騎兵十三連隊とともに解隊、機動歩兵第三連隊として編成される。以降、中国での作戦や警備に明け暮れて、浙川地区警備にあたっている折に終戦を迎える。

他に戦後建てられた「騎兵第十四聯隊発祥之地」の石碑などがある。この石碑の傍らには戦友会が献納した馬の模型が添えられている。

<馬の模型が添えられた石碑>


1933年(昭和8年)満州に移駐した騎兵十四連隊のあとに、戦車第二連隊が入ってきて、これも日中戦争の泥沼に落ちてゆく1937年(昭和12年)7月に動員下命、中国北部で保定会戦、徐州会戦等に参加、さらに翌1938年(昭和13年)7月には戦車第八連隊に改編され、中原会戦、旧満州、中国北部警備等の後、1942年(昭和17年)秋にラバウルへ移動となっている。
留守隊も習志野で再編成され、蘭印作戦に参加、各地を転戦し、そのなかで独立戦車第七、第八中隊は19年夏フィリッピンに派遣され、レイテ島、マニラ飛行場周辺で全員戦死の憂き目にあっている。

<「戦車第ニ聯隊跡」の碑


この騎兵第十四連隊関連の石碑群のある西側、東邦大学薬学部敷地内には、騎兵第十三連隊の石碑など遺跡がある。東邦大学の方も、守衛さんに断って、構内へ。

まず、体育館裏に古い木造の柔道場があるが、これが東邦大学に唯一残る軍関連の建物である。かつては、東邦大学だけでなく、隣の日大にも兵舎を利用した校舎や寮などもあったのだが、随分前に立て替えられ、現在はこれくらいになった。今なお残るのは、この東邦大学の柔道場と習志野学校跡地に残る兵舎を利用した民家のみであろう。

<東邦大学に唯一軍関係の建物として残る柔道場>


そして、日大生産工学部の石碑群のちょうど対面に、第十三連隊の石碑群がある。
A級戦犯として処刑された陸軍大将南次郎揮毫の文字「武勇・信義・質素・忠節・禮儀」を角錐型の塔に書いたものがあるが、南次郎という名前で少しく拒否反応を感じるため、これ以上紹介しない。
また、「騎兵第13聯隊発祥之地」という船橋市の大橋元市長揮毫の石碑(1994年建立)があるが、最近建立されたにも関わらず復古的な文章で以下のようにある。

「日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治32年騎兵第1、第2旅団の編成に着手、我が騎兵第13聯隊は騎兵第14聯隊と共に騎兵第1旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治34年12月19日軍旗を拝受す
明治37年2月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 5月遼東半島塩大澳に上陸第2軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコザック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す
(以下略)」

騎兵第十三連隊も、前述の第十四連隊同様、その後満州事変への出動、中国北部での各種作戦、討伐へ参加し、のち自動車化編成となり、昭和17年(1942)10月解隊、機動歩兵第三連隊として編成されている。

面白いのは、坂の上の雲の司馬遼太郎の石碑があるのと、石碑にある場所に近いお稲荷さんに大正時代に除隊記念の手水鉢や玉垣が兵たちによって奉納されており、今も名前が刻まれているのが判読可能で残っていること。

<司馬遼太郎の石碑>


司馬遼太郎の石碑は、本人の自筆で、ちょっと読みにくいが、「かつて存在せしものに、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」と書かれている。

<稲荷の玉垣に除隊記念の文字が刻まれている>


稲荷には、小さな社殿に手水鉢、玉垣があり、石で出来た手水鉢や玉垣、狐の台座にまで満期除隊になった兵らの名前が刻まれている。玉垣に刻まれた兵の階級も、「一等卒」などとなっているのが、時代を感じさせる。また兵だけでなく、軍曹、伍長といった下士官の名前もあった。

3.関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺への騎兵隊の関与

日露戦争における秋山支隊の活躍など、勇名を馳せた習志野騎兵であるが、1923年(大正12年)9月の関東大震災において、朝鮮人および日本人虐殺に関与していることが、軍隊、警察内部、民間人目撃者の証言、日記などから明らかになっている。
また、9月3日午前8時15分には、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と無線打電しており、流言蜚語を取り締まる側の官憲が騒動を煽ったことが分かる。
地震の起きた9月1日の翌2日には千葉県南行徳村下江戸川橋際で騎兵第十五連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺したのをはじめ、東京の四つ木橋周辺でも騎兵連隊の兵による朝鮮人虐殺があり、さらに9月10日頃には高津廠舎に拘束した朝鮮人たちを自警団に引渡し、虐殺させている。千葉県内では、現浦安市、市川市、船橋市、習志野市、八千代市などを含め、約200名(350名余という説もある)が虐殺されたが、そのなかには朝鮮人に間違われた日本人(大阪出身者など)が多数混じっている。

当時の状況に関しては、区長をしていた人物の日記で、「夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。」(『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編) 6頁)とあり、役場からの伝達も自警団を結成し、「不逞鮮人」を取り締まるという一連の動きのきっかけになっている。船橋での自警団による虐殺については、船橋海軍無線電信所長の大森良三大尉が流言におびやかされて「SOS援兵たのむ船橋」の電文を連送したことが一つの要因になっているが、狂気にかられた自警団が北総鉄道の工事をしていた朝鮮人を襲撃したというのが真相である。

<船橋海軍無線送信所跡>


しかし、現八千代市の高津辺りで起きた虐殺では、むしろ軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末しようとしたのが明確である。それは、一旦朝鮮人たちを習志野の旧捕虜収容所に保護するような形で収容しながら、その中で反抗的なもの、反帝国主義的で「思想的に」問題のありそうなものを、近隣の自警団に払い下げ、殺害させたことによくあらわれている。一方、高津、萱田、大和田などの、朝鮮人を払い下げられた側は、好んで朝鮮人たちを殺害したのではなく、猟銃などを使える人に頼んで射殺したのだという。
対照的に、船橋市街地で朝鮮人虐殺のなかから子供2人を助け出し、保護して船橋警察署に連れて行った消防団員の話や、同じ船橋の丸山地区で朝鮮人たちと日常交流のあった集落の人々が、朝鮮人を差し出すよう迫る近隣の自警団から文字通り身体をはって彼らを守った話もある。丸山地区の住民の行動には、地区の指導者が社会運動家で差別的な考えがなく、他の住民にも同じ考え方が浸透していた、元々貧しい地区で、日本人、朝鮮人の区別なく、助け合いながら生活していたのが、その背景にある。

一方、東京では江東辺りで続発した自警団主体の朝鮮人虐殺のほか、南葛飾、今の亀戸周辺では200名ほどの中国人を虐殺した大島事件、在日中国人指導者の王希天殺害事件といった軍の直接関与によるものなど、各種の虐殺事案がおきており、そのなかでアナキスト系活動家である平澤計七、南葛労働会の幹部で共産青年同盟委員長の川合義虎など10名の日本人労働者、およびそれに先立って自警団員4名が亀戸警察署で虐殺されるという亀戸事件がおきた。このうち平澤、河合ら10名の労働者については、亀戸警察署に拘束された彼らを騎兵第十三連隊の兵が殺害したものである。

このように、大地震のあとの社会不安、異常心理が「不逞鮮人が井戸に毒をまいた」などといった流言蜚語となり、またそれを軍、警察当局が利用して、社会主義者や在日中国人指導者などの抹殺にいたった。アナキスト大杉栄と妻の伊藤野枝、そして6歳の甥の橘宗一を虐殺した甘粕正彦大尉は、軍法会議にかけられたが、結局たしいた罪にならず、昭和天皇の即位に伴う恩赦で釈放されている。甘粕は、のちに数々の謀略を実行し、満州事変の立役者になったのは、現代史の暗黒を象徴している。

<高津観音寺にある朝鮮人犠牲者慰霊の鐘楼と慰霊碑>


なお、高津の慰霊碑(写真右の白い菊が供えられている黒い石碑)の下には、付近で虐殺された犠牲者(虐殺された六名のうち朝鮮人が六名か朝鮮人五名に大阪出身の日本人一名かは不明)が眠っている。慰霊碑には明確に「関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれているが、ことの経緯や犠牲者の名前は書かれていない。本当は、高津の誰が殺したのか、その時の様子はどうだったのかは、最近まで分かっていたはずであるが、皆口に戸を立てて語らず、銘文だけの慰霊碑とあいなった。しかし、このようにきちんと埋葬されているのは、まだ良い。無縁仏にされていたり、墓標もなく埋められ、その土地がただ嫌悪物件として建物などが一切建たない、習志野自衛隊近くの某所など、抹殺された多くの人々は死後も差別され続けている。

<高津観音寺の虐殺者慰霊碑>


(参考文献)
『習志野市史』 習志野市教育委員会  (1995)
『いわれなく殺された人びと』 千葉県における関東大震災犠牲者追悼・調査実行委員会 青木書店 (1983)
『関東大震災人権救済申立事件調査報告書』  日弁連 (2003)
 http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html
 
(参考サイト)
 船橋の大震災:
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/hack/sinsai.html

 ⇒具体的な虐殺場所や人数まで書かれているのは、上記HP位で、習志野市役所や船橋市役所など官庁のHP、また間違っても「お子様軍隊オタク」のHPには書かれていないでしょう。
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2 コメント

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長沼挺身隊を知りたくて (平野直樹)
2010-02-28 10:09:49
貴重な写真を拝見させて頂きました。極寒の満州で日本の為に戦った先人の勇敢な姿を知り命の尊さを再認識し、今ある自分の価値を一人一人が高めてこそ戦死していった先祖への感謝の気持ちが届くのではないかなと思いました。知らなかった戦争の事実、実際の戦いの状況を知る事は先祖への想いを深くし、日々の生活の襟を正す事に目覚めさせて呉れたような気がします。61歳森様有り難う御座いました。
日露戦争当時の軍人 (森兵男)
2010-03-20 23:30:45
日露戦争も日清戦争も、日本が帝国主義として拡大しようとした戦争にかわりませんが、太平洋戦争の頃の日本軍人が、捕虜を殺害したり、卑怯未練な行為が目に余るのに対し、なにか日露戦争当時は、人間として立派な人が多かったように思います。日露戦争を闘った軍人には、敵として戦ったロシア人にも敬意を払う気風があったようです。
なお、小生は61歳ではなく、もっと年寄りです。

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