1.ロケット戦闘機 秋水の地下燃料格納庫
秋水は、ロケット戦闘機であり、1944年(昭和19年)9月にドイツから図面を譲り受け、設計開発してわずか1年以内に飛行までこぎつけたものの、1945年(昭和20年)に実際に飛行機が作られ、1945年(昭和20年)7月に海軍が横須賀の追浜飛行場にて初飛行を飛行士(犬塚大尉)搭乗で行い、薬液搭載量が少なかったことによるエンジン噴射停止により300m飛んで墜落したというもの。設計図を譲り受けたといっても、資料を遠路運んできた伊号潜水艦は沈められてしまい、設計陣が手にした資料は少なかった。秋水は航続時間が短く、3分で1万mの高度にまで上昇し、急降下でB29など敵機を迎撃する、その次に上昇する高度は7千mとなり、また急降下で敵を狙える、そして一度攻撃すれば滑空により着陸するというという、終戦間際の追い詰められた状況下、当時の軍部が、まさに名刀で一撃必殺の期待をこめて作ろうとしていた迎撃戦闘機である。
困難な状況下で作られたロケット機秋水であったが、一番の問題は燃料であった。
<ロケット戦闘機秋水も配備された柏陸軍飛行場の隊門>
この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれ、また陸軍専用機でも海軍専用機でもなく、陸海軍の垣根を越えて開発されるという珍しい事例でもあったが、結局燃料生産がうまくいかず、また完成機も上述の状況となった。
そもそも、秋水のエンジンは、甲液(過酸化水素80%と安定剤の混合)、乙液(水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加)を反応させて推力を得るが、過酸化水素の扱いが難しかった。強い酸化作用で容器を溶かしてしまい、いくつかの試行ののち、たどりついたのが鉄分の少ない土を使った常滑焼の陶器であった。また、有機物が微量でも混ざると爆発するため、その取扱には注意を要した。そして、その危険な燃料の貯蔵庫が、陸軍柏飛行場(現柏の葉公園一帯)の東約2Kmの地域にいくつか作られたのである。
<海軍基地内の秋水>
Wikipediaの画像を使用
柏にはこの燃料貯蔵庫が作られたほか、秋水用の飛行場も建設されつつあった。それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、飛行場などの建設は未完に終わった。しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫址は現存している。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、中は中空になっており、出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。
住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのこと。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。
以下の燃料貯蔵庫の写真、上二つについては、地表に露出した址(土を被せる予定であったものか)。その他は、台地斜面を利用して出入口が設けられたもの。
<出入口からは小さなタンク車が出入りするようになっていた>
胴体部分も結構長い(10mくらいはあるか)。
この貯蔵庫自体は国有地にあるようだが、すぐ近くは私有地になっており、奥までは立ち入りできない。
<秋水の地下燃料貯蔵庫址~台地端の斜面に開く出入口>
<秋水地下燃料貯蔵庫址~~下の写真は通気筒として突き出たヒューム管>
台地の縁辺に出入口があり、台地上には通気筒としてヒューム管が斜めにつきだしている。
(低地の住宅街から台地へ上る階段の途中に、燃料庫の出入口のコンクリートが見える)
国家予算を投じて作られた秋水は、着手して1年足らずで5機が完成、1945年(昭和20年)7月に前述のように海軍が横須賀で初飛行を行ったが、不時着大破し、陸軍も1945年(昭和20年)8月20日に阿南惟幾陸軍大臣立会いのもと、お披露目飛行する予定であったが、その前に終戦、阿南陸軍大臣は割腹して自決し、お披露目飛行すらかなわなかった。
註:写真は筆者の親類が地域の催しの際に写したものを一部使用。
参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想』牧野育雄 光人社 (2006)
秋水は、ロケット戦闘機であり、1944年(昭和19年)9月にドイツから図面を譲り受け、設計開発してわずか1年以内に飛行までこぎつけたものの、1945年(昭和20年)に実際に飛行機が作られ、1945年(昭和20年)7月に海軍が横須賀の追浜飛行場にて初飛行を飛行士(犬塚大尉)搭乗で行い、薬液搭載量が少なかったことによるエンジン噴射停止により300m飛んで墜落したというもの。設計図を譲り受けたといっても、資料を遠路運んできた伊号潜水艦は沈められてしまい、設計陣が手にした資料は少なかった。秋水は航続時間が短く、3分で1万mの高度にまで上昇し、急降下でB29など敵機を迎撃する、その次に上昇する高度は7千mとなり、また急降下で敵を狙える、そして一度攻撃すれば滑空により着陸するというという、終戦間際の追い詰められた状況下、当時の軍部が、まさに名刀で一撃必殺の期待をこめて作ろうとしていた迎撃戦闘機である。
困難な状況下で作られたロケット機秋水であったが、一番の問題は燃料であった。
<ロケット戦闘機秋水も配備された柏陸軍飛行場の隊門>
この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれ、また陸軍専用機でも海軍専用機でもなく、陸海軍の垣根を越えて開発されるという珍しい事例でもあったが、結局燃料生産がうまくいかず、また完成機も上述の状況となった。
そもそも、秋水のエンジンは、甲液(過酸化水素80%と安定剤の混合)、乙液(水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加)を反応させて推力を得るが、過酸化水素の扱いが難しかった。強い酸化作用で容器を溶かしてしまい、いくつかの試行ののち、たどりついたのが鉄分の少ない土を使った常滑焼の陶器であった。また、有機物が微量でも混ざると爆発するため、その取扱には注意を要した。そして、その危険な燃料の貯蔵庫が、陸軍柏飛行場(現柏の葉公園一帯)の東約2Kmの地域にいくつか作られたのである。
<海軍基地内の秋水>
Wikipediaの画像を使用
柏にはこの燃料貯蔵庫が作られたほか、秋水用の飛行場も建設されつつあった。それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、飛行場などの建設は未完に終わった。しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫址は現存している。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、中は中空になっており、出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。
住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのこと。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。
以下の燃料貯蔵庫の写真、上二つについては、地表に露出した址(土を被せる予定であったものか)。その他は、台地斜面を利用して出入口が設けられたもの。
<出入口からは小さなタンク車が出入りするようになっていた>
胴体部分も結構長い(10mくらいはあるか)。
この貯蔵庫自体は国有地にあるようだが、すぐ近くは私有地になっており、奥までは立ち入りできない。
<秋水の地下燃料貯蔵庫址~台地端の斜面に開く出入口>
<秋水地下燃料貯蔵庫址~~下の写真は通気筒として突き出たヒューム管>
台地の縁辺に出入口があり、台地上には通気筒としてヒューム管が斜めにつきだしている。
(低地の住宅街から台地へ上る階段の途中に、燃料庫の出入口のコンクリートが見える)
国家予算を投じて作られた秋水は、着手して1年足らずで5機が完成、1945年(昭和20年)7月に前述のように海軍が横須賀で初飛行を行ったが、不時着大破し、陸軍も1945年(昭和20年)8月20日に阿南惟幾陸軍大臣立会いのもと、お披露目飛行する予定であったが、その前に終戦、阿南陸軍大臣は割腹して自決し、お披露目飛行すらかなわなかった。
註:写真は筆者の親類が地域の催しの際に写したものを一部使用。
参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)
『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想』牧野育雄 光人社 (2006)
小生も、去年一度見に行きましたが、ヒューム管は、今は写真とは違い、折れないように補強がしてありました。
土地の開発だけでなく、子供のいたずらも含め、近所の人のちょっとした行為が遺跡を損なう場合もあり、保存というのは難しいです。
でも、あの光景は次世代に残したいですね。日本が国力を傾けて、秋水の開発をしていた証として。
実は小生も終戦も間もない頃と記憶していますが、朝鮮半島出身の人たちが、かつぎ屋というか闇の商売をしていて、日本人を使っていると聞いたことがあります。東京についてしか知りませんが、闇屋の人は朝鮮半島出身者がかなりいたようです。
あの頃は食べるのに皆必死で、何度か救世軍のお世話にもなりました。日蓮宗の小生がいうのも変ですが。
柏市花野井にいた朝鮮人労務者の人たちは戦時中は重労働に耐え、終戦後はある程度の人たちは帰国、旅費がなくしばらく留まった人も含めて、補償はなかったと思います。朝鮮半島から強制連行してきた人たちにも補償しないだけでなく、日本政府は旧軍人についても短期在職者については恩給等も与えず、福田赳夫内閣のときあたりから動きがあって、3年以上の在職者には一時恩給が、外地に一定期間いると盃かなにかの授与という風に変わりましたが、殆どないのも同然で、人を使い捨てにしているような、まったく冷たいもんです。
それにしても、終戦直後、我々が悄然としている最中に朝鮮半島出身の人たちはエネルギッシュに生活していたのですから、日本の復興にも貢献したというもの。あの頃は、価値観が大きく転換するのを実感しました。
「八木村・運河・柏周辺では朝鮮人が多かった」という朴さんの証言ですが、学校を作るなど組織だった行動が素早いですから、戦前から住まわれていた方がある程度あったのだろうと思います。そこへ強制連行されながらも日本の敗戦後にすぐに帰国できないような方が集まったのではないかと考えます。ですので、そういった数字を知りたいところですね。
柏周辺ですが、朝鮮人の方との繋がりは北総鉄道の工事のころかなと思います。工事が終わっても、その周辺に住み着いて家族を呼んで自分は出稼ぎに出かけるようなことがあれば、やがて朝鮮からの人々が集まるようなこともあり得たろうと思います。
さて、森さんが記されている近隣の方々の証言のなかで「朝鮮人たちはどぶろくを飲んで憂さ晴らししていた」という部分は注意が必要かもしれません。
実際には何を飲んでいたか知りたいところなんですが、朝鮮の濁り酒であるマッコルリと日本のどぶろくとはだいぶ違う酒です。どぶろくはアルコール度数が14~15ぐらいと清酒並みに高いのですが、マッコルリは6~7度ぐらいなのでビールより若干高いという度数なのです。すると、朝鮮の方がマッコルリを案外と速いペースで飲んでいるのを見ると、どぶろくを知っている日本人には飲んだくれているように見えるんですよ(笑)。実際にはビールをちょっと引っ掛けていただけかもしれません。
戦争とは関係ないことがらなんですが、文化の違いを知っていないと誤解しているかもしれないことがあるんです。ですので、ここのどぶろくはちょっと待てよ触れてみました。
ちなみに、私は飲めません(笑)。
朴好城さんのような証言があると、よく分かりますね。柏だけでなく、運河、八木村となると、柏飛行場だけでなく、流山糧秣廠の関連もありますでしょうか。
小生も柏の花野井の朝鮮人労務者について気になったので、図書館で調べましたところ、「柏に残された地下壕の謎」という本に多少近隣の方の証言がのっていました。
それは、やはり重労働で朝鮮人たちはどぶろくを飲んで憂さ晴らししていたが、飲まずにはやっていけなかっただろう、食糧に困って畑を少し荒らすことがあったが、見逃していたと、同情的なものばかりです。
戦後も、多くの人は現地に残ったようですが、終戦前にいなくなった人もいて、酒の飲みすぎで死んだのではないかとしていました。もちろん、酒の飲みすぎは当局を意識した物言いと思いますので、事故死等を暗示しているのでしょう。あるいは別の現場に連れて行かれたか。徴用の名の下に強制的に連れてこられたのですから、強制的にどこかへ連れて行っても、闇から闇なのでしょう。
『朝鮮人強制連行調査の記録 関東編1』から、柏での朝鮮人労働者の数などです。
先ずここの数値ですが、国立公文書館に保管されている米国返還文書(3A-15-41-3)にある、特別高等課の「昭和二十年内鮮報告書類編冊」にあるもので、1945年10月時点の千葉県内の各警察署管内のものです。ですので、日本の敗戦後に既に帰国されたり日本の自宅に戻られた方は入っていません。
それによれば、航和作業隊というグループに140名で、(女20)とあるのは内数かどうか不明です。どうも警察署によって書き方が若干違っていたようです。また、八光作業隊には70(女10)とありました。ですので、210名以上250名以下の範囲となりそうです。
ちなみに、秋水基地に予定されていた旧沼南町の藤ヶ谷飛行場工事では1945年4月に朝鮮人を1200人動員したそうで、こちらの10月時点の人数は約400(女約150)というものでした。
後半の証言の方では、2000年10月に取材に応じられた取手市在住の朴好城(パクホソン)さんが、柏での体験を持たれていました。
朴さんが日本で働くようになったのは「徴用」という強制連行によってで、最初は1940年に八幡製鉄所に来られています。そこを9ヵ月後に脱走して、その後は山梨県富士川水力発電工事、神奈川県相模原市、千葉・今井町の道路工事、船橋の日本建鉄を経て、1945年に柏の飛行場で働いていて、そこで日本の敗戦となり、その際に日本人は給料を払わずに逃げてしまったということです。
帰国されなかったのは帰国費用がなかったというのがいちばんの理由だったそうで、敗戦後は1945年12月に朝鮮人聯盟ができて、そこで外務と財政の部長をされたそうです。
その頃には八木村・運河・柏周辺では朝鮮人が多かったそうで、千葉市での聯盟の集会にはトラック3台ぐらいで参加されたということでした。また、八木村に朝鮮学校があったそうです。
柏市の朝鮮人ということでは、私が小さい頃に近所の朝鮮人のおばさんによくなついていたそうです。もっとも、その頃のことは覚えていませんし、知っている方もほとんどいなくなってしまいました。
参考文献
朝鮮人強制連行真相調査団 『鮮人強制連行調査の記録 関東編1神奈川・千葉・山梨』 柏書房(2002年)
その裸の姿をみると、上に通気孔が開いていた跡があります。
おっしゃるとおり、ヒューム管が畑から出ている保管庫で地表面に出ていない部分は、地面から浅く、上から掘ったほうが合理的だと思います。
その保管庫と花野井交番裏のものの中間にあるのも同様で、上から掘ってコンクリを固め、また埋めたものと推測します。
さて、ここにある地下壕ですが、どういう工事方法だったんでしょうね。地表からの距離が少ないですから、上から切り開いて行ったような感じがするんですがどうだったんでしょうね。
ちなみに、通気筒のある台地の反対側の台地にも、以前は農家の方が利用されていた地下壕があって、そちらは地表から若干距離があったので、壕として掘り始めたものかもしれません。現在は壕の前も宅地化されてしまいましたので、背面の斜面はコンクリートで覆われてしまいましたので、地下壕も地下に永久保存(笑)されてしまいました。
以前の写真は何とか写しています。
おっしゃるとおり、強制連行されてきた朝鮮人労働者が、別の働き場に連れて行かれたと思います。それはそうなのですが、全員が健在で行けたのなら、良かったと思いますが、地下壕を掘るということは生き埋めになる危険性もあるのです。
「柏の場合は違うかもしれない」と申しましたのは、鉱山や浅川地下壕のような大規模な仕事ではなかったので、それと比べて死んだ人も少なかっただろうという意味です。伊謄さんの言うように、小生も「たらい回し」だったろうと思います。そして、労働条件は柏でもどこでも劣悪だったでしょう。
何か勘違いされているようですが、柏での労働条件がよかったというようなことはまったく書いておりません。あくまでも「連れていった」ということの意味についてのみです。
他の基地での作業が終わった際に、残った朝鮮人の方はどうされたのでしょう。そこで終わりではなく、また、他の現場へとたらい回しだったのではないでしょうか。いかがでしょう。
書いたのはそういうことだけです。
本土決戦準備で九十九里方面に行ったのなら、まだ良いのですが、死んだ人もいるのではないかという気もします。軍では火薬庫の造成など危険な仕事は囚人や朝鮮半島出身者にやらせるのが常でした。
各地の鉱山などで、なくなった人も大勢います。柏の場合は違うかもしれませんが。
柏で働かされていた朝鮮人の方の多くがどこかへ連れて行かれたのは事実でしょうが、貴重な労働力ですから、次の仕事場へ移動されられたのだろうと思います。九十九里方面とか、米軍の上陸に備える必要もありましたからね。
秋水は、珍しく陸軍と海軍が共同開発した兵器であり、戦局が好転しないなかでの最後の切り札とされたものです。当時、海軍では人間魚雷回天やベニア板で作った震洋という特攻兵器が開発され、実戦でも使われました。秋水は特攻機という位置づけではなく、局地戦闘機ですが、海軍で試験飛行が行われただけで実戦には使われませんでした。
このようなものの開発に、莫大な予算が使われ、三菱重工や燃料を入れる陶器を作った伊奈製陶(現INAX)など、社業をあげて邁進したのですから驚きです。
朝鮮人労働者の件は知りませんでしたが、ありえない話ではないと思います。立場は違いますが、特攻に行って生還した軍人は死ぬまで出撃させられました