千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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柏飛行場関連動画

2013-11-13 | 柏市の戦争遺跡





柏陸軍飛行場とは

日中戦争の火蓋が切られる直前の1937年(昭和12年)6月、かねて首都東京に近い場所に新たに「首都防衛」の飛行場を求めていた近衛師団経理部が、新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定した。地元でも誘致の動きがあり、田中村の松丸厳村長が斡旋するなどして、約55万坪という用地買収は同年中に終了した。この用地のなかで、多かったのは花野井の吉田家のもの(約6万坪という)という。

翌1938(昭和13年)1月には、飛行場建設が着工、同年秋には完工し、当地に陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場が開設された。ここに、田中村、八木村にまたがる約145万平米の敷地と、1,500m滑走路1本の柏飛行場が誕生したのである。

同年11月29日、東京立川から移転してきた陸軍飛行第五戦隊をはじめとして、飛行第一戦隊、一八戦隊、七〇戦隊などが、この柏飛行場にそれぞれ時期は違うが駐屯することになる。なお、柏の歴史で柏飛行場に駐屯した部隊を「東部第百五部隊」というが、実はこの飛行第五戦隊のことである。当時の飛行第五戦隊の戦隊長は近藤兼利大佐で、近藤戦隊長はのちに中将にまで昇進し、第一〇飛行師団の師団長になった。この飛行第五戦隊の保有機は、当初九五戦、1940(昭和15年)9月には九七戦に変更され、1942年(昭和17年)3月以降の主力は、二式複座戦闘機である屠龍であった。

この最初に柏にやってきた飛行第五戦隊は1943年(昭和18年)7月、ジャワ島マランに移り、周辺のチモール・ラングーン・バボに中隊を展開して輸送援護や防空に従事した。
その後柏飛行場には、飛行第一戦隊、同第一八戦隊、同第七〇戦隊と、いくつかの部隊の変遷はあったが、松戸、成増、調布などと共に、1944年(昭和19年)末から激しくなった米軍B29などによる空襲に対し防空戦闘にあたった。
飛行第一戦隊は、ラバウルから内地に帰還、一旦大阪の大正飛行場に兄弟戦隊の飛行第一一戦隊ともにあったが、旧満州ジャムスを経て1943年(昭和18年)11月から柏に展開した。1944年(昭和19年)4月、一式戦、隼から最新鋭の四式戦、疾風に機種を変更し、一時九州防空にもあたったが、九州では活躍の機会なく、同年10月8日、捷号作戦により、飛行第一戦隊はフィリピンへ進出するが、レイテ攻撃戦の中で戦力を急速に失い、戦隊長松村俊輔少佐が10月28日払暁出動時の離陸事故でなくなり、各中隊長の多くも戦死、10月末には壊滅に近い状態となった(可動機もわずか4機であった)。
11月以降も春日井敏郎大尉、さらに内地に一時帰還し新しい飛行機と特操出身者を中心とする補充者を連れて戻った橋本重治大尉という歴代の戦隊長ら幹部が次々と戦死する有様で、翌1945年(昭和20年)3月には生き残った空中勤務者と一部地上勤務者が台湾を経由して内地帰還した。しかし、多くの地上勤務者はフィリピンに残留、歩兵部隊に臨時歩兵として編入されたが、物資、食糧が欠乏する困難な中で戦死者が多く、わずかに21名が戦後復員を果たした。

飛行第一八戦隊は三式戦闘機、飛燕を装備していたが、B29 の夜間攻撃に対抗するための訓練で事故を起こし、夜間訓練は中止となった。飛行第一八戦隊の戦隊長磯塚倫三少佐以下の主力は、米軍がフィリピン・レイテ島に1944年(昭和19年)10月20日に上陸した直後の11月11日、フィリピンに向かい、フィリピン・レイテ戦に参加したが、日本軍は海軍のレイテ沖海戦も含めて一連の戦いに敗退、12月19日には遂にレイテ島を放棄せざるを得なかった。飛行第一八戦隊残置隊は五式戦闘機(キ-100)へ保有機種を変更し、1945年(昭和20年)6月に松戸へ移動、米軍機邀撃を続けた。
飛行第一八戦隊主力と入れ替わりに、坂戸篤行大尉(終戦時、少佐)を戦隊長とする飛行第七〇戦隊が柏飛行場に来たのは、1944年(昭和19年)11月7日である。この戦隊の主な保有機は、二式単座戦闘機、鐘馗であった。坂戸戦隊長は、飛行第一八戦隊残置隊も指揮下に置いた。飛行第七〇戦隊は、松戸から柏に移る前は、旧満州の鞍山にあって、B29との戦闘を経験していた。そのため、師団からの期待も大きかったが、この飛行第七〇戦隊は、1944年(昭和19年)終わりから翌年初頭にかけて、B29への正攻法での攻撃をあきらめた師団によってB29に対する空対空体当り特別攻撃隊、震天制空隊を編成せられた。
しかし、彼我の飛行機の能力の格差を埋める非常手段として、「体当り」による特攻が選択され、戦闘機から武装やパイロットの生命を守る防弾板 を外し、脱出できるかどうか分からない「体当り」をさせたのであるから、これは乗員の生命を軽視した論外の策といわざるを得ない。その機たるや、損耗しても惜しくないような老朽機であったのである。機体ごと、体当りする衝撃は、大変なもので、我々には想像もできない。ぶつかってから脱出することは、ほぼ不可能であるし、ぶつかる前に、乗っている機から脱出することも難しく、脱出できたとしてもパラシュートが無事に開くとは限らない。
震天制空隊には、飛行第七〇戦隊では小林茂少尉以下、4名が指名された。実際に人命を軽視するその方針のもと、他の戦隊機とともに、1944年(昭和19年)12月27日の東京の中島飛行機武蔵工場への空襲でB29への体当り戦死が報告されている。
翌1945年(昭和20年)2月16日、17日には、グラマン、アベンジャーを主体とする米艦載機による大空襲があり、邀撃が行われたが、2月17日の空中戦で河野涓水大尉が厚木上空でグラマンと交戦中に被弾、横須賀市市街地に落下の際、自分の名入りの航空手袋を地上に落とし、市街地を避けて東京湾に墜落、自爆した。他にも軍曹二名が、同日の戦闘で戦死している。
この戦隊は、艦上戦闘機を含む米軍機による空襲への邀撃で隊員と保有機を減耗しつつ、同年6月に機種を四式戦闘機、疾風に変更、8月10日にP-51群の来襲に対して緊急離陸直後に本多寛嗣大尉が直撃され戦死するなどの戦闘があったが、終戦まで柏に駐留した。
なお、当飛行場に配置された各飛行戦隊は、1944年(昭和19年)3月以降、第十飛行師団隷下にあり、師団長は当初、吉田喜八郎少将(陸士29期)で、1945年(昭和20年)3月からは前述の近藤兼利中将(陸士26期)となった。また、飛行場には、同じ師団隷下であるが、飛行戦隊とは別に飛行場大隊が駐留し、飛行場の警備や整備、必要資材の調達などを担当した。
兵員はおよそ600~700人配備されていたといわれているが、戦隊の入れ替わりが激しくその数はつねに変動していた。1945年(昭和20年)初頭の戦力は、二式単座戦闘機 鐘馗が約40機、三式戦闘機 飛燕が約15機であった。
柏飛行場は、1,500mの滑走路と周辺設備を保有し、太平洋戦争末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。秋水実験隊も活動し、近隣の法栄寺を荒蒔少佐ら航空審査部の秋水関係者の宿舎として使用した。秋水実戦配備の際の実施部隊としては、飛行第七○戦隊が想定されており、1945年(昭和20年)7月には操縦者全員の身体検査も行われたが、実現しなかった。


飛行場跡の現在と関連動画

柏飛行場は戦後米軍に接収されたが、変換され、戦隊本部などのあった兵営の一部を自衛隊が使っているが、大部分は官庁、公園、学校、住宅地などになり、飛行場の痕跡としては十余二の道路ぞいにある土手やそこを起点として豊四季駅までまっすぐ南に道がのびる営門跡、航空廠柏分廠の建物群などに限定される。弾薬庫が残っているらしいが、実見していない。

ほかに無蓋掩体壕が残ってるが、千葉県の開発により、全部は残らないらしい。秋水の地下燃料庫も飛行場に近接する旧柏ゴルフ場跡に存在する。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会は、飛行戦隊の生存者の聞き取りなどを行っているが、それは筆記録や記録DVDとなったようである。 簡単な動画も一般に公開している。

柏飛行場跡の動画

http://youtu.be/-q806Jk9rvY

飛行第一戦隊の納翼の碑

http://youtu.be/rLYcumhuLtk

飛行第一戦隊の沿革

http://youtu.be/qozNjQwmevY