言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

耶誕快樂

2010-12-25 | 日記
 クリスマスですね。


 このブログを書き始めて、すこしずつ記事数が増えてくるとともに、私の意見もすこしずつ変わってきています。例えば「武器輸出三原則」については、すこしずつ輸出解禁の方向に意見が変わってきていますし、「司法修習生に対する給費制」については、当初は「どちらかというと賛成」でしたが、その後再考し、いまは「反対」しています (つまり貸与制を支持しています) 。また、マンデル・フレミング理論についても、親切なコメントを (いま) いただいていることもあり、考え直す方向に向かっています。

 生きている以上、意見が変わるのは当然ですし、このブログも、私の意見が「変わる」ことを前提として開設しています (「このブログについて」参照 ) 。

 ブログはもともと、(日記のような) 時系列の記述には向いていますが、体系的な記述には向いていません。そこで新しく、「まとめサイト」のようなものを作る方向で検討中です。

 来年早々には開設したいと思っています。


 それでは皆様、すてきなクリスマスをお過ごしください。(^^)

戦略兵器削減条約(START)の裏側

2010-12-24 | 日記
毎日jp」の「新START:米批准 被爆地から歓迎の声 米「核予算維持」に批判も」( 2010年12月24日 )

 米露の新戦略兵器削減条約(新START)の批准承認が22日、米上院で可決されたことに、被爆地では歓迎の声が上がった。一方で、「核抑止力の維持」を明言するオバマ米大統領が今後も巨額の核関連予算を計上する方針であることから、「核廃絶」に向かっているとは評価できないという厳しい意見も出ている。

 秋葉忠利・広島市長は「オバマ米大統領が目指す『核兵器のない世界』の実現に向け大きな弾みとなる条約の発効に一歩近づいたことを歓迎したい。ロシアもできるだけ早く批准するよう期待する」とコメントした。

 広島県被団協理事長の坪井直さん(85)は「我々の願いは『核兵器ゼロ』だが、核兵器が少しでも縮小されることはうれしいし、評価する」と歓迎。そのうえで、「核実験全面禁止条約(CTBT)の早期批准や新たな核兵器の研究をやめるべきだ」と求めた。

 条約は配備済み戦略核弾頭の上限を1550発と規定するが、「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の森滝春子共同代表(71)は「劇的に減ったとは言えないし、(射程が短く地域間紛争で使われやすい)戦術核は対象外で、『核廃絶』への道筋の上に位置づけることはできない」。さらに、オバマ大統領が今後10年間で800億ドルの核兵器関連予算の計上を発表していることなどに触れ、「新たな核開発を保証するもので、核軍拡とも言える」と批判した。

 入市被爆者で元長崎大学学長の土山秀夫さん(85)=長崎市=も「戦術核兵器や備蓄された核兵器は対象外。今後は、これらの削減への取り組みなどが課題となる」と指摘した。

 長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄(すみてる)会長(81)=同=も「広島や長崎に投下された原爆の何十倍、何百倍の威力とみられる核弾頭が残る事実は変わらず、喜べない。オバマ大統領には、核弾頭全廃に向けやることをやってほしい」と注文した。【寺岡俊、加藤小夜、柳瀬成一郎、下原知広】


 米露の新戦略兵器削減条約(新START)が米上院で批准承認された。しかし「核抑止力の維持」を明言するオバマ米大統領は今後10年間で800億ドルの核兵器関連予算の計上を発表している、と報じつつ、反核団体・平和団体の声も紹介されています。



 オバマ大統領は核兵器を削減すると言いつつ、核兵器関連予算を計上しています。核兵器を減らしたいのか、増やしたいのか、どちらなのでしょうか。

 この問いの答えは、次の引用を読めば一発でわかります。



西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.228 )

(宮崎)  シミュレーションを重ねていくと、アメリカの力が後退して、今後生じる劇的な変化は、やはり中国とアメリカの関係において起こるだろうと思います。中国は十年以内に空母を二隻造る体制に持っていこうとしているうえ、核戦力も十分すぎるくらいあります。核弾頭は二百数十発ある。しかも中国の開発は後発組ゆえに、一基のICBMに十発から十二発を搭載する多弾頭型だから、費用対効果ではなく戦力の効果比でいくと、ものすごいことになる。
 アメリカとロシアが今、核軍縮とか戦略核の削減と言っているのは、旧来の、もう役に立たない単発の兵器が多いからです。しかし地下のサイロに隠すなどして持っているから、管理コストがやたらとかかって困るのです。ロシアはもっと露骨で、旧式のICBMを廃棄して、その中にあるプルトニウムを取り出して原発の燃料にしようとしています。そうすると売り物になって、日本にも売れるかもしれない。そういうことを考えています。ロシアにしてみれば二千発も持っいれば十分で、アメリカだって五千発も持っていれば、それでも地球を四十回くらいぶっ壊してもまだ余るくらいの戦力です。
 ただ、相対的に中国の核戦力が増すことになるのは事実です。中国の軍事力は非常に強くなるでしょう。アメリカの一番の恐怖感はそこにあります。そこで、何をするか分からない国とは軍事交流を始めたほうがよいという方針に変わりました。今盛んに軍艦の友好訪問をやり出して、中国軍の首脳をアメリカに呼んで意見交換することも始まっています。これは非常に大事なことで、人間関係をつくって、フランクな話をしているうちにジョークが飛び出して、本音が聞けるわけです。実際中国軍高官が、アメリカ太平洋軍の司令官と話している時に「太平洋の支配海域をハワイの東と西で分けませんか」と言ったそうですけど、あれはおそらく中国の本音です。
 もし十年以内に中国が空母を二隻持つことになると、空母は動く空軍基地ですから、東シナ海に一隻、南シナ海に一隻あれば、アジアの海は完全に中国の海になります。そこまでの政治力の変化が射程に見えてきたら、次に日本が対応すべきは何かということも、当然分かるはずです。


 アメリカとロシアが核軍縮・戦略核の削減を言っているのは、古くて役に立たない単発の兵器が多いからである。最新の核兵器は一基のICBMに10~12発を搭載する多弾頭型である、と書かれています。



 要するに、
  1. アメリカもロシアも、古くから核兵器を開発してきたために旧式(単発)の兵器が多い。しかしいまや、最新式(多弾頭型)の核兵器が開発されている。
  2. アメリカもロシアも、十分すぎるほど核を持っているので、威力の低い旧式の核兵器を処分したところで困らない。困らないどころか、かえって管理コストが浮くのでさっさと処分したい。
  3. 戦力としては最新式の核兵器のみで十分である
ということですね。

 したがって最初の問いの答え、つまり核兵器を減らしたいのか増やしたいのか、の答えは

   旧式の核兵器は減らしたいが、
   最新式の核兵器は増やしたい

ということになります。この解釈は、「核抑止力の維持」を明言して核兵器関連予算の計上を発表しているオバマ大統領の行動と完全に合致します。この解釈(推測)は的を射ているとみてよいと思います。

 したがって、当面、核兵器が「ゼロ」になる可能性は「ゼロ」です。核兵器がなくなる可能性はないと考えられます。



 これは当然ではないかと思います。「核廃絶は不可能、核の傘は必要」に述べたように、現実問題として、核兵器がなくなる日がくる、核廃絶は可能である、などとは考えられません。

 それにもかかわらず、核廃絶を叫び続けることは「ムダ」だと思います。

 また、「アメリカの核実験と「核兵器のない世界」」で述べたように、アメリカが核を持っているからこそ、日本の反核団体・平和団体は核廃絶を主張する「自由」があるわけです。もしもアメリカが完全に核廃絶を実行してしまえば、米中の軍事バランスは崩れ、中国の軍事力が圧倒的になるでしょう。そして日本の米軍基地はなくなり、代わりに中国人民解放軍の基地になります。そうなれば、日本の反核団体・平和団体が核廃絶を主張しようものなら、「国家政権転覆扇動などの容疑で逮捕され、懲役11年、政治的権利剥奪2年の判決」を受けたりすることになるわけです。

 したがって、反核団体・平和団体の主張は「ムダ」であるのみならず、「自分で自分の立場を悪くしている」ということになります。つまり露骨に言えば「トンチンカン」ということです。

 さらにいえば、「トンチンカン」な「反核団体・平和団体自体が(あとで)困ることになる」のみならず、「日本全体・日本人全体が窮地に陥る」ことになります。

 したがって、反核団体・平和団体の主張はいかがなものか、と思われてなりません。



 いかがでしょうか。反核団体・平和団体の皆様、一度、考え直していただけないでしょうか。「日本全体・日本人全体が窮地に陥る」ことになるのですよ?

 私ですか? 「核兵器は廃絶すべきであり、核廃絶は可能である」という反論コメント(根拠の記されているもの)をいただければ、もちろん考え直します。(^^)



■関連記事
 「核武装の可否判断基準 (日本の核武装に必要なステップ)

インド人はガンジーの非暴力主義を否定している

2010-12-23 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.222 )

(西部) 同じ日本人として心が痛むというのか、思わず知らず憤りを覚えざるを得ないのは、インドのガンジーの場合なら、それなりの歴史的経験と経緯があって、十八世紀半ばのプラッシーの戦いから数えて百七十、八十年の植民地支配を経たイギリスと戦うために、非暴力、不服従を体を張って実践しました。ぶんどし一丁になって戦う。打たれても殴られても殺されても前進をやめないという、正真正銘の活仏みたいな存在でした。
 ところが、当のインド人自身がガンジーを殺し、その後、転々ときて、例の国民会議派のネルーすらもが、非武装でやってきたのは間違いだったと漏らしながら、とうとう今となれば、核武装までしてしまったという経緯があります。
 いずれにしても、生き仏にも似たガンジー一派の非暴力とは、ある意味では暴力そのものでした。その暴力という意味は、武器を持たない人間が殺されても打たれても前進を続ける、その姿にイギリスの官憲は怯えた(おびえた)のです。まだ殴らなければいけないのか、まだ打たなければいけないのか、と。ところが、いま日本に登場している活仏、すなわち平和主義者は、それとは全然違います。「すごいぞ。あいつらは何も持たずに、殺されても、傷つけられても、世界中を行進して歩くぞ」などというそんな度胸も覚悟も何もない。言葉だけ、お金だけ。アフガニスタンの警察の給料なら出しますよ、といった程度にすぎません。
 でも、それとて、日本はまだ少々余裕があるから出しているだけです。余裕がなくなったら、一体どういうことになるのか。日本人は今、何といっても食うことにしか関心がないのですから。最近は「子供手当」とか称して、まずそれを優先しろと要求してくる。僕からすれば、子供の面倒くらい子供を生んだ男と女が面倒見やがれと言いたい。それどころか、保育園費も払わず、給食費も払わないでパチンコをやっているような、今の日本の父親、母親の一割か二割か知りませんけど、そんな人間に子供手当を配ってどうするんだという気持ちが強くあります。そんな有様ですから、財政に余裕がなくなったら、世界に配って歩く金がなくなったら、日本人は「私の生活をどうしてくれる」「赤ん坊のミルク代をどうしてくれる」と言ってわめき立てるに決まっています。その途端、日本の活仏、生ける仏の言葉とお金が、丸っきりの、当座しのぎの猿芝居だったということが世界にばれるわけです。そうなれば、日本人は心底、軽蔑されるのでしょう。


 日本の平和主義者は、インドのガンジー主義とは似て非なる存在である。日本の平和主義者は、当座しのぎの言葉だけ、お金だけである。インド人はガンジー主義 (非暴力主義) は間違いだったと漏らしながら、今では核武装までしている、と書かれています。



 日本の非武装論者は、インドのガンジーを見習え、といったことを主張します。しかし、当のインド人自身が、ガンジー主義は間違いだったと言っている。これはきわめて重要だと思います。

 インド人自身がガンジーの非暴力主義は間違いだったと漏らしているというのですから、日本の平和主義者の主張には、重大な疑問が投げかけられている、といってよいでしょう。

 もちろん、インド人がガンジー主義を否定したからといって、日本人もガンジー主義を否定しなければならない、ということにはなりません。しかし、

  「本当にガンジーの非暴力主義は正しいのか?」という疑問に、
   非武装論者は答えなければならない

とは言えるでしょう。



 私は、日本の非武装論者に聞きたい。あなたの家族や友人・恋人が殺されても、あなたは非武装主義・非暴力主義を貫くのですか? と。「平和主義者」と言えば聞こえはいいけれど、本当はただの「臆病者」ではないのか。本当に非武装を貫いて平和を訴えるなら、まさにガンジーのように、「殴られても傷つけられても殺されても、それでもなお、前進し続けなければならない」のですが、あなた (平和主義者) にはそんな根性がありますか?

 その根性がないなら、日本の平和主義者・非武装論者は、じつはたんに「甘えている」臆病者にすぎないのではないか。その意味で、著者の指摘は正鵠を射ているのではないか。私は、このように考えています。



 なお、私の考えかたは「謀略の中国、理念の日本」「多数決による武装防衛「強制」の是非」に書いています。私個人なら、「殴られても傷つけられても(殺されても)前進する」ということでかまわない。しかし私は、ほかの人にまでこれを強制する気持ちにはなれません。

核武装の可否判断基準 (日本の核武装に必要なステップ)

2010-12-22 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.202 )

(西部) 僕は何年も前ですが、自民党の国防部会だったか、シンポジウムのようなものに呼ばれたことがあって、ちょうど北朝鮮の核武装問題が議論された時期だったので、その時にこう言いました。
「国際社会でいろいろな論証と実証を積み重ねて、当該の国家が極めて侵略的な性格の国であるということが認定された場合には、その国の核保有を国際社会は全力を挙げて阻止しなければならない。なぜならば、核兵器が侵略に使われたら国際社会が保たれようもないから」
 もちろん侵略とは何かということも厳密に言ったのです。「ある国家が覇権的(へゲモニック)な意志と国家レベルでの決定をもって、他国に武力を自ら出すこと、出動させることを侵略と呼ぶ」と。
 続けてこう言いました。
「したがって、北朝鮮はどう考えても、いろいろな証拠から見て、侵略的な性格をぬぐい去っていないどころか強めている様子すらある。それゆえ北朝鮮の核武装には、いろいろな形で反対なり制裁なりをしなければならない。が、しかし、戦後日本のように六十何年にもわたって、侵略性がどこにもないような国家は、持つべきかどうかは政治論だとしても、少なくとも権利論においては、核武装の資格を持っているのだ」
 そうすると、よくテレビに出てくる若手の山本一太議員が次のように反論してきたのです。
「では、あなたは、北朝鮮が侵略的な国家ではないと認定される段階になったら、北朝鮮は核武装をしていいと言うのか」
 僕は「当たり前だ」と言いました。
 そうしたら、「もう一つ質問があります。アメリカが侵略的な国家だということを認定されたら、アメリカは持ってはいけないのか」と言うから、僕が「当然です」と言ったら、場内がシーンとして、質問した本人もシーンとして、異なことを言う変な知識人がいるということで、そこで話はおしまい。
 つまり僕が言いたいのは、この程度の単純な論理すら通用しなくなってきているのです。話がどこでちょん切れているのか、隠されているのか、歪んでいるのか分からないぐらい、核に限らず日本の国防論議はおかしくなっています。


 侵略的な国家は核兵器を持つべきではないが、侵略性のない国家は核兵器を持ってもよい。核兵器を持ってよい国家が実際に持つか持たないかは政治論であるが、権利論としては持ってよいと考えるべきである。この程度のこともわからないぐらい、日本の国防論議はおかしくなっている、と書かれています。



 核武装の是非について、世の中の意見はたいてい、「核兵器は全廃すべきだ。どの国家も核兵器を持つべきではない」という否定論か、「核廃絶は不可能だ。核を持たなければ侵略される危険がある以上、核兵器を持ってよい」という肯定論のどちらかだと思います。

 しかし、ここで著者は、核兵器を持ってもよい国家と持ってはいけない国家がある。その基準は侵略性の有無だ、と説いています。

 この視点は優れていると思います。



 核廃絶が叫ばれるのは、核兵器が使われると、大変なことになるからです。

 しかし現実には、核廃絶は不可能だと思います。「自分の国を守るために必要」だからです (「核廃絶は不可能、核の傘は必要」参照 ) 。



 とすれば、核兵器は必要であり廃絶することは不可能だが、侵略に使われなければよい、ということになります。したがって、

   侵略目的での核保有は禁じるべきだが、
   防衛目的での核保有は認めるべきである、

と考えることが合理的であり、かつ、実際的であると思います。

 もちろん、(ほかの国を)侵略するために核を保有します、と宣言する国はありません。どの国家も、すくなくとも建前としては、防衛のために核を保有する(している)と言うにちがいありません。しかし抽象論・一般論としていえば、著者の主張は正しく、かつ、実際的であると思います。



 そこで、上記抽象論・一般論を認めた場合、いかにして侵略目的の有無を判断するのか、が問題となります。これは当該国家の行動・主張など、さまざまな証拠を集めたうえで判断するしかないとは思いますが、民主制国家であるか否かも、ひとつの要素になるのではないかと思います。

 一般に民主制国家においては、侵略的性格が乏しいように思われます。民主制国家が戦争をする場合、普通は、「攻撃されてやむなく」戦争をすることになるのではないかと思います。戦争を始めるのは、常識的に考えれば独裁国家や軍事政権ではないでしょうか。

 したがって基本的には「民主制国家は核兵器を持ってよい」「独裁国家・軍事政権は核兵器を持ってはならない」と考えてよいのではないかと思います。もちろんこれは、あくまで「侵略性の有無」を判断するうえでの基準にすぎず、そのうえにさらに「当該国家の行動・主張など、さまざまな証拠を集めたうえで判断する」ことになります。



 このように考えた場合にも、すでに核を保有している独裁国家についてはどう考えればよいのか、どうやって廃絶させるのか、などの問題は残ります。

 しかし、核保有の是非を判断するうえで、その判断「基準」が確定される意味は大きいと思います。たんに、「核兵器は危険だ。廃絶しろ」と叫んだり、「核兵器は必要だ。日本も核を持て」と叫んだりするよりも、はるかに生産的であり、議論が前に進むと思われます。

 そしてこの一般論(基準)を肯定する場合、日本は当然「核兵器を持ってよい」といえます。

 実際に日本が核武装するかしないかは、まさに著者の述べるとおり政治論になりますが、日本が核を持つ場合にも、上記の一般論(基準)を国際社会に対して主張したうえで、「日本も核を持つ」と主張することこそが、肝要だと思います。たんに「日本も核を持つ」と宣言するだけでは、日本は国際社会の批判を浴びて孤立してしまうと思われます。



■関連記事
 「アメリカの核実験と「核兵器のない世界」

「正しい」戦争には勝たなければならない

2010-12-21 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.185 )

(西部) たとえば今後の民主党政権で、インド洋沖の石油給油を中止することになりましたが、これなど論理的におかしい。これまでもずっと、PKO(国連平和維持活動)論議の時もそうだったし、イラク戦争での対米協力もそうですが、「戦争の前線には行かない。しかし後衛であれば石油も運ぶし、包帯とか水も運ぶ」といういつもながらの論法について、この国で議論が起こったことは一度もありません。
 その戦争を肯定するならば、もちろん前線にすっ飛んでいくのは愚か者の軽率な所行ですけども、考え方からいって、正当な戦争ならば、場合によっては前線に行ってしかるべきです。正当な戦争は勝たなければいけないのですから。それに協力するというのなら、勝つためには前線に行くこともあり得べしとしなければならないのに、「前線に行くことは憲法で禁じられています」と勝手な憲法解釈を持ち出して、しかし後衛ならば、後衛部隊にいて何か運搬するくらいなら辛うじて合憲であると称して、そんなことを続けています。


 正当な戦争は勝たなければならない。勝つためには、場合によっては前線に行ってしかるべきである。それにもかかわらず、日本では「憲法で禁じられている」ので「戦争の前線には行かない」、「後衛部隊にいて何か運搬するくらいなら辛うじて合憲である」などと、論理的におかしな論法がまかり通っている、と書かれています。



 著者は「勝手な憲法解釈」と述べていますが、これはちがうでしょう。「勝手な憲法解釈」であるというためには、「憲法の条文が正当な戦争への参加を肯定している」にもかかわらず、その条文を「参加を禁じた規定である」と解釈していなければなりません。しかし日本は、このような状況ではありません。したがって、「勝手な憲法解釈」であるとは言えないと思います。

 おそらく日本は、(正当な戦争に協力するための)「ギリギリの憲法解釈」を行ってきたのではないかと思います。したがって問題は「憲法の条文」にあるのであり、「憲法の解釈」にあるのではありません。



 しかし、たしかに著者の言うように、「正しい」戦争には「勝たなければならない」と思います。「正しい」戦争に負けてしまっては、「正義が通らない」世界になってしまうからです。

 したがって当然、論理的に「おかしな」憲法(条文)は変えなければならないと思います。すくなくとも、憲法改正の是非について、議論しなければならないと思います。



 その場合、「正しさ」とは何か、「正義」とは何か、が問題になります。

 戦後の日本は、この問題を避けてきたのではないかと思います。いまの日本には、「正しさ」とは何か、「正義」とは何か、といった哲学的・根本的な議論をしている人は、ほとんどいないと思います。憲法改正に向けた議論がなされないのも、このあたりに原因があるのかもしれません。

 私は個人的な理由で、「正しさ」「正義」について長い間考えてきました。いろんな本も読みました。けれども私は、まだ答えには到達していません。つまり、はっきり言って (私には) わからない、ということです。とはいえ、ある程度の方向性は出してきています。機会をみて、(いつもの引用のスタイルで) すこしずつ書きつつ、さらに考えたいと思います。



 なお、「正しい」戦争には勝たなければならないのですが、「正義の押しつけ」になってはいけないこと、もちろんです。しかし、かといって「一切、外国には関与しない」というのもまた、おかしいでしょう。「関与しない」とはすなわち、「強者に味方すること」であり「強者の主張を正義と認める」ことと事実上、同じになってしまうからです (「「正義の押しつけ」と一神教・多神教」参照 ) 。