言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

普天間問題の根本的原因

2010-12-19 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.165 )

(西部) 僕はつい先だって、沖縄に五回目ぐらいに行ってきて、また同じことを思ったのです。たとえば米軍基地は主として沖縄にあるわけです。そうすると、僕が勝手に忖度している沖縄人の半ば無意識の気持ちは、こうであるに違いない、あるいはこうであってほしいということで言うと、それは「俺たち、ヤマトンチュの要望に従って立派に戦ったじゃないか、島民の三分の一が。それなのにヤマトンチュは俺たちに対してありがとうの一言もないじゃないか」というものです。我々本土の側は、「おまえたちに戦ってもらって陸上決戦は沖縄だけ、本土はもちろん原爆も空襲もあったけど、天空高くから何か火砕流が降ってきたようなもので、陸上決戦はやらなくて済んだ。沖縄には本当に感謝の言葉もない」といった態度を戦後、今に至るも一度も示してきませんでした。そのことが、沖縄人をしてあの莫迦げた平和主義に追い込んでしまったのであろうと僕は思っています。
 それで、自分が思っていることを、実は沖縄の人たちに一度目から五度目まで、毎回、言う場があれば言ってみるのです。ところが沖縄の人たちの反応は、僕のそういう解釈にイエスも言わないしノーも言わない。左翼なら平和主義的反対をやるでしょうが、彼らは左翼の連中ではなくて普通の人です。その普通の人である彼らは、ただ黙っているだけ。見事に五回とも黙っているのです。おもしろい現象だなと思いました。
 もちろん沖縄については、日本の思いやり予算の支出がなければ経済的に困るとか、そういった経済計算は山ほどできますが、そんなことではなくて、それこそナショナルなもの、パトリオティックなものとして、沖縄には会わす顔がないぐらいの切実な思いがあってしかるべきなのに、それがないことが問題です。「俺たちは死ぬまで戦う」「一億玉砕だ」と言いながら、実は本土で言えばたった九十万死んだだけで、太平洋で百万、中国大陸で百万死んだだけで、白旗を掲げてしまった。それは時の運で致し方なかろうけど、その時に、徹底的に戦ったかどうかは別として、爆弾の雨あられに全身を曝す(さらす)とか、それに類する戦闘を経験した島民に対して、本土の日本人が大東亜戦争の評価も踏まえながら「ありがとう」の一言も言わなかったということで、そのことが沖縄をおかしくしてしまった。そして、日本 "列島" 人のいびつな戦争観が、とうとう思いやり予算を是とするような馬鹿げた国防論をもたらしてしまったと思われてなりません。

(中略)

(宮崎) 私も沖縄の人と議論することがありますが、彼らは私から見れば非常に身勝手なことを言っていると思うことがあります。ヤマトンチュはけしからん、と。それに対して、「では、沖縄は独立したらどうか」と言うと、二の句が継げないようです。そういう発想が全くありません。
 沖縄に謝らなければいけないのはもちろんとして、我々は台湾の人にも謝らなければいけないのです。しかし、戦後の日本は、台湾を切り捨ててしまいました。好意を持っている人たちに対して裏切りの限りを尽くしています。


 戦後、日本(本土)は沖縄に対して感謝の気持ちを示してこなかった。現在の沖縄の状況は、ここに原因があるのではないか、と書かれています。



 この評価は、おそらく的を射ているのではないかと思います。最新のニュースを引用します。



毎日jp」の「在日米軍再編:普天間移設 首相沖縄訪問 住民と対話せず 深まる失望、不信感」( 2010年12月19日 )

 普天間問題の事態打開に向け訪沖した菅直人首相は18日、日米合意した移設先・辺野古(沖縄県名護市)を上空から視察するなどして2日間の訪問を終えたが、過重な基地負担に苦しむ住民と直接対話することはなかった。民意とすれ違ったままの訪問に、県民からは「現場の生の声を聞くべきだ」との声が上がり、沖縄の失望と不信感は深まるばかりだ。

 首相はこの日午前、空自那覇基地からヘリに乗り込み、「世界一危険な飛行場」とされる米軍普天間飛行場(宜野湾市)や辺野古などを視察。午後、普天間飛行場内に足を運び、在沖米軍の責任者と会うなどした。17日の仲井真(なかいま)弘多(ひろかず)知事との会談で、「沖縄のみなさんの気持ちを理解したい」と語った菅首相だったが、基地周辺住民や基地を抱える市町村の首長の話を直接聞くことはなかった。

 普天間飛行場の視察の際、首相が乗った車が通った第1ゲート近くにある普天間爆音訴訟団の事務所。高橋年男事務局長(57)は「基地周辺で暮らす住民の声を直接聞き、そこできちんと説明すべきだ」と憤った。

 辺野古移設を「ベターな選択」との言葉を残して、沖縄を去った首相。首相発言への沖縄の怒りは高まるが、県議会の玉城義和副議長(名護市選出)は「ベター発言や仙谷(由人)官房長官の『甘受』発言が出てくる背景には、沖縄の基地負担に無理解な国民世論があるからだ。一番の問題がそこにある。首相への怒りは、本土へ向けられた怒りでもある」と話した。【佐藤敬一、井本義親】


 沖縄県民からは、「現場の生の声を聞くべきだ」「基地周辺で暮らす住民の声を直接聞き、そこできちんと説明すべきだ」「ベター発言や仙谷(由人)官房長官の『甘受』発言が出てくる背景には、沖縄の基地負担に無理解な国民世論があるからだ。一番の問題がそこにある。首相への怒りは、本土へ向けられた怒りでもある」との声が聞かれる、と報じられています。



 沖縄県民が言っているのは、要するに、「俺たちの気持ちをわかってほしい」ということにほかなりません。



 報道によれば、首相は「沖縄のみなさんの気持ちを理解したい」と語ってはいます。しかし沖縄県民にしてみれば、

   本当に気持ちを理解したいと思っているなら、
     なぜ、直接会って話を聞こうとしないのか、
     なぜ、直接会って話をしようとしないのか、

ということになるでしょう。

 ここであえて首相の立場を代弁すれば、一国の首相職は激務であり時間的に難しい、ということになります。

 しかし、このような説明では、沖縄の人たちは納得しないでしょう。なぜなら、「それなら米軍沖縄基地は重要ではないのか。重要ではないなら、基地はいらないのではないか」ということになるからです。



 私が考えるに、米軍沖縄基地は日本にとって、きわめて重要だと思います。首相が行うべき職務は多様であり、多忙を極めていることはわかるのですが、

   「どれだけ沖縄県民との対話に時間を割くか」は、
   「どれだけ米軍沖縄基地を重視しているのか」のバロメーター

でもあります。沖縄県民も子供ではない以上、「無理な要求はしない」と思います。首相に対して、「沖縄にかかりきりになれ」とまでは思っていないはずです。

   要は、首相(日本政府)に「誠意が感じられるかどうか」が重要

なのではないでしょうか。このことは、本土の人々の態度についてもあてはまります。



 「沖縄県知事選の結果と、普天間移設問題の見通し」に書いた通り、普天間飛行場(基地)の移設先は、沖縄県内しかあり得ないと思います。

 沖縄県民も、このことはおそらくわかっているでしょう。沖縄県民が言いたいのは、日本政府 (及び本土の人々) は基地の負担を沖縄に押し付けておいて、あとは「知らんぷり」じゃないか。すこしは感謝の気持ちを持ってほしい。すこしは本土の人々も、基地問題を自分のこととして考えてほしい、ということなのではないかと思います。

三島由紀夫の「生きる意味」

2010-12-19 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.151 )

(西部) 三島事件が起きた時は、背筋がサーッと寒くなるような、本当にすごい衝撃でした。最初は、時間は随分たってからだけども、こう考えました。なぜあの方は死ぬことができたのか、と。それはすぐに分かりました。つまり、生命は所詮、人間にとって精神活動を運ぶ一つのビークル、運搬機であって、生命は精神の上に来るとは考えられない。そうでなければ絶望的な矛盾にぶつかります。我々が生きているということは他の生命を山ほど食しているわけですから。そうしたら、他の生命を食しながらなぜ生命が最も大事だと言えるかとなると、論理的に言って、人間には精神があるから、その精神という資格において他の生命を食しているとしか言いようがない。そうであれば、精神が立派であるか愚劣であるか云々を議論しなければ、人間の生命が大事だとは言えないはずです。そう考えたら、ある場合には、精神の正道を守るために生命をかけなければいけないこともあるという三島さんの説は、全く非の打ち所なく正しいということが分かってきます。


 人間の生命が大事なのは、人間には精神があるからである。したがって、人間の精神は愚劣であってはならず、立派なものでなければならない。場合によっては、精神の正道を守るために生命をかけなければならないこともある。これが三島由紀夫の考えかたであり、これは非の打ち所なく正しい、と書かれています。



 生きる意味は何か、という問いがあります。

 この問いは、もっと深刻なケースにおいては、なぜ死んではいけないのか(なぜ自殺してはいけないのか)、なぜ生きなければならないのか、という問いになってくるのですが、

 要は、生きる意味が見いだせない、人は何のために生きる(べき)なのか、と言っているわけです。



 この種の問いに対して、通常、「生命は大事である」から死んではいけない、といった答えが返されるケースが多いように思います。

 しかし、この答えには、「生命は大事だというけれど、我々は(動物など)他の生命を(殺して)食べているではないか」という反論があります。他の生命を殺さなければ生きていけない人間が、「生命は大事である」というのはおかしくないか、なぜ他の生命を殺して(食べて)よいのか、というわけです。

 これはもっともな反論で、この種の会話を(ネットなどで)見かけると、私はいつも、

   「生きる意味」を問うている人々の真剣さと、

   「生命は大事である」から死んではいけない、
              と答える人々のお気楽さ

を感じてしまいます。生きる意味を問うている人々は、「生命は大事である」から死んではいけない、などといったことは言われなくともわかっているのです。そんなことはわかったうえで、納得できない部分があるからこそ、「生きる意味は何か」と問うているにもかかわらず、「死ぬな、生きろ」と答える側が、なんとも陳腐で、表面的なことしか言えないわけです。

 これでは説得力がまるでありません。



 今回引用した三島由紀夫の意見は、この問いに対する明快な答えになっていると思います。

 三島によれば、人間の生命は大事である。動物の生命も大事である。しかし、人間には精神がある。精神は生命よりも大事であるから、人間は生きるために他の生命を殺して(食べて)もよいのである、ということになります。

 もちろんそこには条件があって、だから人間の精神は立派でなければならず、人間は精神を立派に保ち、精神を向上させるように努めなければならない。場合によっては、精神の正道を守るために生命をかけなければならない、という制約・義務が付されています。

 これは逆にいえば、愚劣な精神・ふるまいを拒否して死ななければならない場合もある、ということであり、たんに「死んではいけない」と言っているのではありませんが、

 三島の説には、強い説得力があると思います。



 これを肯定した場合、次に問われるのは「それでは立派な精神(のありかた)とは何か」ということになります。これについては、また機会があったときに書きたいと思います。



 なお、「生きる意味」について、私は私なりの答えをもっています。私の答えも、三島由紀夫の意見に近いです。