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核武装の可否判断基準 (日本の核武装に必要なステップ)

2010-12-22 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.202 )

(西部) 僕は何年も前ですが、自民党の国防部会だったか、シンポジウムのようなものに呼ばれたことがあって、ちょうど北朝鮮の核武装問題が議論された時期だったので、その時にこう言いました。
「国際社会でいろいろな論証と実証を積み重ねて、当該の国家が極めて侵略的な性格の国であるということが認定された場合には、その国の核保有を国際社会は全力を挙げて阻止しなければならない。なぜならば、核兵器が侵略に使われたら国際社会が保たれようもないから」
 もちろん侵略とは何かということも厳密に言ったのです。「ある国家が覇権的(へゲモニック)な意志と国家レベルでの決定をもって、他国に武力を自ら出すこと、出動させることを侵略と呼ぶ」と。
 続けてこう言いました。
「したがって、北朝鮮はどう考えても、いろいろな証拠から見て、侵略的な性格をぬぐい去っていないどころか強めている様子すらある。それゆえ北朝鮮の核武装には、いろいろな形で反対なり制裁なりをしなければならない。が、しかし、戦後日本のように六十何年にもわたって、侵略性がどこにもないような国家は、持つべきかどうかは政治論だとしても、少なくとも権利論においては、核武装の資格を持っているのだ」
 そうすると、よくテレビに出てくる若手の山本一太議員が次のように反論してきたのです。
「では、あなたは、北朝鮮が侵略的な国家ではないと認定される段階になったら、北朝鮮は核武装をしていいと言うのか」
 僕は「当たり前だ」と言いました。
 そうしたら、「もう一つ質問があります。アメリカが侵略的な国家だということを認定されたら、アメリカは持ってはいけないのか」と言うから、僕が「当然です」と言ったら、場内がシーンとして、質問した本人もシーンとして、異なことを言う変な知識人がいるということで、そこで話はおしまい。
 つまり僕が言いたいのは、この程度の単純な論理すら通用しなくなってきているのです。話がどこでちょん切れているのか、隠されているのか、歪んでいるのか分からないぐらい、核に限らず日本の国防論議はおかしくなっています。


 侵略的な国家は核兵器を持つべきではないが、侵略性のない国家は核兵器を持ってもよい。核兵器を持ってよい国家が実際に持つか持たないかは政治論であるが、権利論としては持ってよいと考えるべきである。この程度のこともわからないぐらい、日本の国防論議はおかしくなっている、と書かれています。



 核武装の是非について、世の中の意見はたいてい、「核兵器は全廃すべきだ。どの国家も核兵器を持つべきではない」という否定論か、「核廃絶は不可能だ。核を持たなければ侵略される危険がある以上、核兵器を持ってよい」という肯定論のどちらかだと思います。

 しかし、ここで著者は、核兵器を持ってもよい国家と持ってはいけない国家がある。その基準は侵略性の有無だ、と説いています。

 この視点は優れていると思います。



 核廃絶が叫ばれるのは、核兵器が使われると、大変なことになるからです。

 しかし現実には、核廃絶は不可能だと思います。「自分の国を守るために必要」だからです (「核廃絶は不可能、核の傘は必要」参照 ) 。



 とすれば、核兵器は必要であり廃絶することは不可能だが、侵略に使われなければよい、ということになります。したがって、

   侵略目的での核保有は禁じるべきだが、
   防衛目的での核保有は認めるべきである、

と考えることが合理的であり、かつ、実際的であると思います。

 もちろん、(ほかの国を)侵略するために核を保有します、と宣言する国はありません。どの国家も、すくなくとも建前としては、防衛のために核を保有する(している)と言うにちがいありません。しかし抽象論・一般論としていえば、著者の主張は正しく、かつ、実際的であると思います。



 そこで、上記抽象論・一般論を認めた場合、いかにして侵略目的の有無を判断するのか、が問題となります。これは当該国家の行動・主張など、さまざまな証拠を集めたうえで判断するしかないとは思いますが、民主制国家であるか否かも、ひとつの要素になるのではないかと思います。

 一般に民主制国家においては、侵略的性格が乏しいように思われます。民主制国家が戦争をする場合、普通は、「攻撃されてやむなく」戦争をすることになるのではないかと思います。戦争を始めるのは、常識的に考えれば独裁国家や軍事政権ではないでしょうか。

 したがって基本的には「民主制国家は核兵器を持ってよい」「独裁国家・軍事政権は核兵器を持ってはならない」と考えてよいのではないかと思います。もちろんこれは、あくまで「侵略性の有無」を判断するうえでの基準にすぎず、そのうえにさらに「当該国家の行動・主張など、さまざまな証拠を集めたうえで判断する」ことになります。



 このように考えた場合にも、すでに核を保有している独裁国家についてはどう考えればよいのか、どうやって廃絶させるのか、などの問題は残ります。

 しかし、核保有の是非を判断するうえで、その判断「基準」が確定される意味は大きいと思います。たんに、「核兵器は危険だ。廃絶しろ」と叫んだり、「核兵器は必要だ。日本も核を持て」と叫んだりするよりも、はるかに生産的であり、議論が前に進むと思われます。

 そしてこの一般論(基準)を肯定する場合、日本は当然「核兵器を持ってよい」といえます。

 実際に日本が核武装するかしないかは、まさに著者の述べるとおり政治論になりますが、日本が核を持つ場合にも、上記の一般論(基準)を国際社会に対して主張したうえで、「日本も核を持つ」と主張することこそが、肝要だと思います。たんに「日本も核を持つ」と宣言するだけでは、日本は国際社会の批判を浴びて孤立してしまうと思われます。



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